意識を失ったアルセリアを、そっとベットに横たわらせる。
『……あなたは ―― 敵』
アルセリアが最後にもらした言葉が、アルベルトの胸に突き刺さった。
ぐらり、と視界が揺らいで、そのまま倒れこむように、背後にあった椅子の上に座り込んだ。
「 ―――― アルセリア」
片手で顔を覆う。それでも、指の隙間から透明な涙が頬を伝って、零れていく。
―――― アルベルト!
「見て、見てっ! 初雪よっ! 自然の雪! すごーいっ!」
「 ――― お疲れさま、アルベルト」
「でもね、私はちゃんと名前を言って話しかけたいの。わかるようになりたいの!」
「……ずるい」
「かえろっ、私の王子様」
アルベルトは風を感じて、目を覚ました。
眠っていたのか、と苦笑する。
アルセリアと過ごした日々が夢として、訪れていた。
全てが随分と、昔のような気がする。
感傷にふけりそうになる自分を追い払うために軽く頭を振って、椅子から立ち上がる。
途端、アルベルトは目の前の光景に呆然となった。
ベットの上に寝かせたはずのアルセリアの姿がない。
「アルセリア?!」
部屋中を見回しても、王宮の中の気配を追っても、見つからない。
『……返して、鍵を。……返して、』
アルセリアの言葉を思い出す。
一気にアルベルトの胸が締め付けられる。
「……まさか!」
信じられなかった。
信じたくなかった。
――― そんなわけがない。
だけど、今のアルセリアは普段と違う。
恐らく ―― 操られている。
そう認識すると、アルベルトは戸惑っている場合じゃないと、アルセリアが向かうだろう場所を予測して空間を渡ろうとした。
その、瞬間。
「アルベルト!」
ばんっ、と大きな音を立てて、ゼムタが入ってきた。
後ろには、同じように息を乱したムタと、珍しく焦った表情を浮かべているラミーアの姿があった。
「森がっ!」
「森の結界が壊れてるっ!」
ムタの言葉を遮って、ラミーアが言う。
「おまけに森の色が……」
ゼムタが困惑した表情を浮かべていた。
愕然とした思いを抱きながらも、アルベルトはぎゅっと手の平を握り締めて、わきあがる感情を押し殺すように、ゼムタに言う。
「……騒ぐな」
刺すようなぴりぴりとした空気が周囲を支配する。
ぐっ、と押し黙ったゼムタに、窓の外へと視線を向けながら、アルベルトは感情の色が見えない口調で告げた。
「今すぐ、精霊使いの長老、リングル=マスターに連絡を取るんだ」
ハッ、とゼムタが驚きに目を見張る。ムタやラミーアの、息を吸い込む小さな音が聴こえた。
驚かれることも予測できていた。
誰が思うだろうか。
『精霊使い』の、それも長老という敬称をもつ相手を自分が知っているなどと。だが、今のアルベルトにはそれを説明する時間さえ惜しかった。
「……わかった」
問い詰められると思っていたアルベルトは不意に返ってきた返事に目を瞠る。
「急いでるんだろう?」
小さく肩を竦めて、ゼムタは促した。
説明は要らない、と。この異常な事態ともいえるときに、そう言いきれるゼムタを少しの呆れと ―― 、動じないその態度にさっきまでの焦りが薄れるほどの信頼を感じ取ってアルベルトは苦笑を浮かべる。
「ちゃんと連れ戻してこいよ。お姫様を」
そう声をかけるゼムタに向かって、皮肉っぽく唇の端をあげて、アルベルトはこたえた。
「 ――― 言われるまでもない」
ぎゅっ、と手の平を握り締めて、アルベルトは今度こそ、空間を渡った。
アルベルトの姿が消えると、ラミーアが「さて」と、重くなりそうな空気を打ち払うように声をあげた。ゼムタとムタは訝るように視線を向ける。
「俺はその、リングル=マスターというヒトに連絡をつけてきます。王子とアニキは、言い訳を考えてくださいよ」
ひらひら、と背中越しに手を振って、足早に退室した。
「 ――― どうします、王子?」
残されたムタは、何を言われるのか想像できていながら問いかけた。
決断するのは自分ではなく、王子の役目だから。
ふい、とゼムタは視線を窓辺の先に向けた。目を細める。眇めるように、森のある場所を見つめた。
あの森があるからこそ隣国との協定を結んでこれた。
どちらも、あの森の結界を壊すことができず、越えることもできないからだ。それが無くなったということは、最早アルベルトとアルセリアだけの問題にはならない。
「たったひとつの要素が消えただけで、戦争の心配をしなくてはならないなんて、本当にヒトは弱いくせに、恐ろしいよ」
苦く笑みを浮かべるゼムタに、優しく芯の強い声がかかる。
「たとえそうでも ―― 、たったひとつの要素で、築かれる関係もあるのではないですか?」
先ほど見せた、アルベルトと王子のように。
『アルセリア』という要素ひとつで。
ゼムタは気恥ずかしさを覚えて、くるり、と。踵を返した。
「 ――― お前の気のせいだ」
「そうですか?」
スタスタと、扉へと向かうゼムタの後に続きながら苦笑めいた問いかけがかかる。
「言っておくが、俺たちはあくまで休戦状態に入っただけだよ」
「……そうですか」
同じ言葉で頷くムタは誤魔化そうとしたゼムタの真意を見透かしているようで、気まずそうに咳払いをすると、「ほら、行くぞ」と気を取り直して部屋を出て行った。