ForestLond

森を夢見る恋人たち (9)

 ―――― 結界?
 不思議そうに問いかけると、彼は優しい表情を浮かべて頷いた。

 淡い茶色の目が、作り上げたばかりのそれを見上げる。

「媒介は、君の力だ」
 そう告げられた言葉に息が止まった気がした。
 呆然となる。

(だって、―――― え、それって?)
 まともに思考がついていけずに混乱する。
 ぽん、と落ち着かせるように肩を叩かれる。見上げると、優しく見下ろしてくる瞳があった。

「こういう使い方もあるんだ。これでこの森は守られる」
「 ―――― 守られる?」

 その言葉のあまりに新鮮な響きが信じられなくて、逆に不安な想いが滲み出てきた。それに気づいたのか、彼はもう一度。今度は、強い口調で言う。
「そうだ。君の力が、この森を守るんだ」

 嬉しかった。
 ――― 忌まわしいこの、力に。
 守る、という使い方を与えてくれて。

 なのに。
 なのに、私は今。何をしようとしているの?


 アルセリアは気づいたとき、ひとり深い緑に包まれた森の前に立っていた。
 どうしてここにいるのか、一緒にいたはずのアルベルトがどこにいったのか。なにもわからないまま。

 無意識に身体が動く。
 森の結界の境目に手をかざした。
 ぴりっ、と。一瞬、電撃のようなものが走って、結界は音も立てずに空気に溶け込むように消えていく。

「…………いやっ」

 溢れてくる涙が、零れ落ちる。
 伸ばした右手首を小刻みに震える左手が掴む。
 抵抗したい。でも、身体が動いてくれない。

 この森がなにかも、記憶にはなかった。
 ただ、胸の中につかえているものが、アルセリアの意思に必死に訴えかけてくる。
 この結界を壊してはダメだと。

「だめ……っ!」

 必死だった。自らの身体に抵抗する。
 それでも操られているかのように、伸ばした右手は消えていく結界を構成していた力を取り込んでいく。

「 ―――― っ?!」

 途端、激しい吐き気がアルセリアを襲った。
 その場に蹲る。
 さっき感じたそれよりも。何倍も上回る強さで。
「ぐぅ…っ、ごほっ、」

(助けて、)

 脳裏に浮かぶのは。
 悲しげな表情を浮かべていたヒト。

『今は、ただ君に怯えられなければいい。恐れられなければ、それだけでいいんだ』

 優しい声で、そう告げてくれた。

(助けて ――― )

 次第に白く霧がかっていく頭の中で、
 それでもなお、鮮明に浮かぶ。強い光を宿した深く綺麗な淡い茶色の瞳をもつヒト。

「……アルベルト」

 口をついて出た言葉に、自分でも驚く。
 だけど、同時に暖かなものが胸の中に染み込んでくる。
 せき止めていた何かが音を立てて崩れて。溢れてくる想いが心を満たしていく。

 ぐらり、と身体が揺らぐ。

「なるほど、こんな所に隠してあったのか」

 ふと、声が聞こえた。
 白濁していく意識の中、顔を向けると、フードを被った男がひとり森を見上げて立っていた。

 アルセリアは今にも倒れそうになる身体を足に力を入れて支えた。
 今、ここで気を失ったらもう取り返しがつかないような気がする。心の中でもう一度「アルベルト」の名前を唱えた。

 ぎゅっ、と左手の平を握り締める。

 思いのまま身体が動いていることに気づいて、アルセリアは触れていた結界から手を離した。
 ふっ、と。男の顔が森からアルセリアに向けられた。
 目が合ったその瞬間。ぞっと、寒気に襲われる。
 暗くて、鈍い光を浮かべている深く蒼い目に、心が凍りついていく。
 感情のない目。

「何を怯えている?」

 低い声。
 アルセリアはその声にも感情を見つけることができなかった。

 一歩、男が近づいてくる。
 びくり、と無意識に身体が震えて、足が下がる。

「……やっ、」
 近づいてくる男に嫌悪しか感じられず、拒否の言葉が口をついて出ていた。

 男の動きが止まる。
 くすり、と笑う音が聴こえた。

「よほどあの男に洗脳されたのだな。本当にまさかお前が、あの男の元にいるとは露ほどにも思わなかった。 ―――― 図々しい」

 あの、男?
 アルセリアの脳裏には、アルベルトの姿が浮かんだ。
 それを見透かしたように、男が頷く。忌々しそうに舌打ちをして、だが、すぐに思い直したようにアルセリアを見て、その目に憐れみの感情を浮かべる。

「ティセリアが知ったら、どんなに悲しむか……。わかるか?」

「 ――― ティセリア?」

 初めて触れる名前にアルセリアは戸惑った。
 だが、アルセリアの問うような眼差しは無視して、男はどこか遠くを見つめるような目をする。懐かしむようなその表情には、愛しさよりも。もっと深く。暗い、まるで男の目そのもののような感情があるように思える。

「今は古の術と呼ばれる、召喚魔法を操る召喚士一族の巫女だった女性だ」
 傍にいるアルセリアのことなど忘れたように、男は言葉を紡ぐ。

「とても美しく、強いヒトでね。後に召喚士一族の首領と婚姻を結び、その繁栄を広げていく礎となる存在だった」

 聞いているうちに、アルセリアはなぜかその言葉に違和感を覚えた。
 言葉の棘が心に刺さったように。
 けれど、それを気にする前に男が「なのにっ!」と一転、感情を荒くする。
 ハッ、と息を呑んで我に返ったアルセリアは男の目に憎悪が含まれているのを見つけた。

「彼女は殺された。召喚士一族、全員とともに」

 鋭い光がアルセリアを貫く。
「誰に、だと思う?」

 ―――― 聞いてはダメ。
 アルセリアの頭の中をがんがん、と警告の音が響く。
 嫌な予感に包まれる。
 耳を塞ごうとしたけれど、腕が重くて動かなかった。

 その間にも、男の唇がゆっくりと開いていく。

(このヒトは ―――― )
 足が震える。
「ティセリア。お前の母親を殺した男が ――― 」

(何を言っているの?)

 それ以上の言葉を聞きたくなくて、必死に頭を左右に振った。
 けれど、男は構わず言葉を紡ぐ。
 その表情に愉悦を浮かべて。

「お前の、召喚士一族を滅ぼしたのは」

 頬を涙が伝うのを感じた。
(帰りたいよ、アルベルト)

 深く、消えたはずの記憶がアルセリアに訴えてくる。

(二人だけの、あの森へ ――― 帰ろう)
 意識を失う寸前、それでも男の声はアルセリアの頭の中に刻み込まれた。

「 ――― アルベルトだ」

 ぐらりと。
 地面に倒れかけるアルセリアの身体を男は抱きとめた。
 腕に触れる光に透ける金色の髪をそっと撫でる。
 アルセリアを抱えたまま、男は森へと顔をあげた。

「ほとんどアルセリアのもとへ還ったか。これくらいなら、私でも」
 ひとり呟くと、男はアルセリアがしていたときと同じように、結界に手をかざした。
 だが、次の瞬間。
 男が腕にはめていたブレスレットが淡く黒い光を放つ。

「時間切れか」

 チッ、と舌打ちすると、つと目に入ったアルセリアの左手を飾るブレスレットをはずして、術の言葉を紡ぐ。無造作に放り投げて、アルセリアを抱えたままもういちど、唱える。
 男とアルセリアはその空間から姿を消した。



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