ForestLond

森に還る恋人たち (6)

 世界はまだ、こんなにも美しい ――― 。
 あの森でアルベルトと二人で過ごして、感じていたこと。

 それは小さな世界だったのかもしれない。だけど、アルセリアにとって、その世界は全てだった。

 きらきら、と星たちが降り注ぐ夜空。森の中を自由に駆け巡る風。優しい空気をくれる木々たち。恵みをもって零れてくる雨。その中で、自然と溶け合うように暮らしている動物や、虫もそう。

 まるでひとつひとつが宝物のようにアルセリアの目には映って、だからそこに住むアルベルトとふたり、自分たちもとても大切な命なのだと知った。

 きっと、それはここだけの世界じゃない。
 ずっと果てしなく ――― 地上が続く限り、この、それが続く限り同じものだと。だから ――― 。

「……だめ、だよ。世界はまだ、まだ命に溢れてるの……」

 アルセリアは生温い感触を受ける首筋を押さえながら、訴える。
 誰にかはわからない。
 ――― 恐らくは、誰かに。
 抑え切れない血が手の隙間から流れ落ちていく。
 息が上手にできない。
 咽がひきつる。苦しくて、目の前が霞んでいく。
(まだ、まだアルベルトに会ってないのに ――― 。)
 自らに封印されていた力が、収束されて外に溢れていくのがわかる。あの鍵から、全ての力が飛び出していくのだろう。世界を闇に包み込むために。

「アルセリア!」

 意識を失う寸前に、アルセリアはそう声を聞いた。



 どんっ、と。
 アルセリアのいる祭壇の階上に駆け上がろうとしたアルベルトは、見えない壁に撥ね返された。

 ――― 結界、か。
 苛立ちを募らせる。

「我らが首領の邪魔はさせないっ!」
 数人の男たちに取り囲まれた。

 アルベルトは剣を構える。精霊の力を使う時間はない。

『我らが一族の血にまみれたおまえは愉しそうに笑っていた』

 ふと男の言葉が脳裏に浮かぶ。
 あのときから何度も何度も否定してきたこと。
 ――― だけど。

 飛び掛ってくる男たちを前に、アルベルトは躊躇う間もなく、剣を振るった。


 邪魔をしてくる男たちを退けて、アルベルトは自らの手に浴びた返り血で文字を描く。
 召喚士一族が作った結界。同じ一族の血で、その結界はさらり、と空気に溶け込み消えてしまった。
 祭壇を駆け上がって、アルベルトは倒れているアルセリアを抱き上げる。

 まだ息はある。
 まるで、あのときの繰り返しだ。

 悪夢だと絶望を抱きながら、アルベルトは彼女の頬に手を伸ばす。

「アルセリア……?」

 目の前の少女を。
 間違えるはずがないのに、アルベルトは問うように名前を呼んだ。

 睫が震えて、閉じられていたアルセリアの瞼が開いていく。いつも、優しい光が浮かんでいる青く澄んだ瞳がのぞいて焦点がはっきりとしてきた。アルベルトを見つける。

「うん、……うん」
 頷いて嗚咽に堪えるアルセリアの声に、導かれるように頬に触れた。
 赤黒い血に染まった手。傷だらけの。
 けれど、アルセリアは避ける素振りも見せずに、そっと触れたアルベルトの震える手に、自らのそれを重ねた。

 触れた頬と。触れられた手と。
 伝わってくるぬくもりが。
 アルベルトの胸に熱いものを押し上げてくる。

「アルベルト!」

 アルベルトが、力強く抱き寄せるとともに、再び、アルセリアはしっかりと、その名前を呼んだ。
 ぎゅっ、と。抱き締めるというよりも、お互いにしがみつくような形で。

「アルセリア!」

 アルベルトは焦がれていた名前を呼び、求めていたその身体を強く抱き寄せる。
 腕に力を込めて。二度と離さないと、誓うように。
 金色の、太陽の光を編みこんだようなその髪に、頬を埋める。

「…………会いたかった」

 ずっと。――― 時間にしてみれば、たった数日。
 だが、アルベルトにとっては永遠にも等しかった。

「私も……」
 アルセリアはそう答えて、目を閉じる。

 ふと、違和感を覚えてアルベルトは少し身体を離した。アルセリアの顔を覗き込もうとして、顔を背けられた。

「アルセリア?」
 一瞬、アルベルトは嫌な予感を覚えた。
 言葉にならない不安が襲う。

「 ―――― 契約を、守って」

「アルセリア?!」

 何を言い出すんだ、と非難めいた声をアルセリアに浴びせる。

「お願い。あの召喚力を抑えるには、私の力が全て鍵の中に収束されてしまう前に、私の命をあの剣で消滅させるしかないの……」

「なっ…、なにをばかなことをっ…」

 蒼白になってアルセリアの言葉を否定する声に、力をこめてその名前を呼ぶ。

「アルベルトっ」
 抱き締められている腕にも力がこもる。

「俺にお前を殺せというのか?!」
「でもこのままにしてたら、この世界が滅んじゃうでしょ!」

 アルベルトの顔が悲しく歪んだ。

「滅べばいいっ。アルセリアを引き換えにしてまで守りたい世界でもない」

 ふわりと優しく笑って、アルセリアはその頬に手を伸ばした。

 ――― 温かい。

 触れたその先から伝わってくるぬくもりが、アルセリアにはとても愛しかった。

「……嘘だよ。だって、アルベルトいつも言ってたでしょ。精霊が住むこの世界はまだ美しいって。この世界に存在するひとつひとつを大切にしていきたいって」

 もうそれほど、力が残っていないことを感じる。
 全てが、鍵に向かってしまう。それでもアルセリアは最後の力を振り絞って言う。

「私も守りたい。友達になったゼムタや……長老、大切なアルベルトや精霊、自然があるこの世界を…失いたくないから」

「アルセリアっ!」

 アルセリアはそっと、アルベルトが腰につけていた細身の剣を鞘から抜いた。

 ティセリアの ――― 巫女であった母親所有のもの。巫女の命と共に、その力を奪い去ることができる剣。

 アルベルトの手に握らせる。

 残酷なことを頼んでいるのはわかっている。自分が彼の立場だったら、絶対にできはしない。だけど。

 ――― 失いたくないものはその想いよりも大きい。比べられないほど。

「一緒にいてあげられなくて ――― 、ごめんね」

 心残りはそれだけ。
 ずっと一緒と何度も、約束したけれど。きっと心だけになっても、アルセリアはずっとアルベルトと共にあるだろうけど。
 それでもこうしてもう、触れることができなくなることを。
 アルベルトが寂しいとき、苦しいとき。抱き締めてあげられなくなることだけが、とても心残りだった。

「アルセリア……」
「…でも。ずっと……愛してるよ…ずっと……」

 アルベルトはただ俯いて、嫌だと告げる。
「できない。俺には…できない」
 それに笑って、アルセリアは力をこめてアルベルトを抱き締めた。

 ぎゅっと。
 アルベルトの右手を固定したままで。
 その感触に、アルベルトは慌てて身を離す。

 だけど、―――― ざくりとした感触は手の平に。耳に。身体中に残って。

「アルセリア?……アルセリアっ!!!」

 崩れ落ちる身体を抱きとめる。

 愛してるよ、アルベルト……――――

「いやだっ! 目を覚ませっ、アルセリア ―――― っ!」


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