男は手にしていた鍵から力が急速に失われていくことに気づいた。
淡く黒い光が、頼りなく薄れていく。
「なっ…なんだとっ?!」
信じられない。
力を解放するための準備は全て終えたはずだ。
鍵と、巫女の血と ――― 。呪いと。
「なぜだ……っ!」
手の中の鍵を男は力いっぱい振った。
反応はなく、光はやがてうっすらと消えていくだけだった。
『召喚士の力はもう……失われていたのよ』
ふと男は聴こえてきた声に振り向く。驚きに見開かれる。
「おまえは、ティセリアッ!」
ぼんやりと透き通る姿で、ティセリアが立っていた。悲しげな顔で、寂しそうに男を見つめている。
「我々の力が失われていただと?」
『ええ。世界を支配したいと望み始めたその瞬間から、私たちに力を貸していた召喚されしモノたちはそれを、やめてしまったの』
静かな口調で語るティセリアは空を見上げた。
巫女だけに語り継がれてきた真実 ――― 。
召喚士一族の者達を絶望させないために、語られることはなかった。だけど、そのために全ての絶望を巫女たちは引き受けることになってしまった。それを断ち切るために、ティセリアはひとつの希望を身ごもった。召喚士一族の生きる希望として、アルセリアを。
「あの娘が我々の希望だと? 巫女の血としてならまだしも……」
『違うわ。アルセリアの力は新たに召喚されしモノたちを呼び起こすことができる力だったのよ。でも、それも私の血が流れ、あの娘の血が流れてしまった以上は、契約は失われてしまったけれど』
ティセリアの言葉に、男は激しく動揺する。その男に同情するわけでも、睨みつけるわけでもなく、ティセリアはまっすぐ見つめた。
『私だって召喚士一族の先を憂いえなかったわけではないわ。一族が滅びればいいなんて思っていなかった』
愛する家族がいる。たとえ生贄のためだったとしても、そのときまでは巫女として、大切にされてきた場所。仲間や友達だっていた。
それなのに、滅びてしまえばいいなんて思えるわけがない。
だから、絶望を知ってなお、召喚士一族が生き残れる可能性を探って、たどり着いて ――― だけど、同じ一族にその希望を断たれてしまった。
それを思うと、アルセリアを身ごもったときに言われたように、こうして召喚士一族が滅び行くのも、運命だったのかもしれない。抗うことの出来ない運命。
――― それでも、ティセリアはアルセリアを生むことが出来て、娘として育てられたことを思うと、運命であっても良かったと。その瞬間は、とても幸せだった、と。そう思うことができる。
「だったら、なぜ邪魔をする?」
怒りに男の握り締めている手が青白くなり震える。だが、ティセリアは毅然と男を見ていた。
『約束だったの。一族が恨みも何もかも忘れて、アルセリアの幸せを望んでくれるなら、そのときはあの娘に呼びかけて召喚の力を一族に戻すって。命を奪う儀式とは違う方法で。でも、もしもあの娘の血が流れるようなら ―― 。一族の者が恨みや支配を望み続けるなら、その力は永遠に封印すると』
ティセリアの言葉を呆然とした顔つきで聞きながら、男はぎゅっと手の中の
黒曜石を握る。冷たい音を立てて、それは割れた。
「恨んで……当然だ。たった一度の一族の過ちのせいで、ひっそりと生きることを余儀なくされ、ティセリア。お前は父に殺され、私はひとり数少なく残った一族の首領になった。因果だよ、ティセリア。私には一族の望みを叶える責任があった」
手を広げると、パラパラと欠片が地面に落ちていく。
無意味なものになっていった。すべて。
男は皮肉げに唇の端を吊り上げて哂う。自分自身を嘲るように。
『アルセリアの血を流さずに、歩いていく道だってあったはずよ。そうやって導いていくことだってできたのに……』
ティセリアは寂しく男に微笑む。
「所詮…もう望みは絶たれた。ティセリア、すまなかった」
男はそう言うと、躊躇いもなく手の中に残っていた黒曜石の欠片で、自らの首を切り裂いた。
『兄様 ――― っ?!』
ティセリアは驚きに目を瞠る。
地面に倒れた男に縋りつくが、どうすることもできなかった。
悲しみに泣き崩れるティセリアの目の前で、男の血を浴びた黒曜石の欠片からゆらりと淡く黒い光が放たれる。
それに気づいて、ティセリアは小さく息を呑んだ。この光景は二度目。
最初はアルセリアを授かったとき。
そう思い出して、まさか、と。じっと見つめる。
やがて黒い光はひとつに収束し、アルセリアの目の前にひとりの青年が姿をあらわした。
『 ――― っ!』
悲しみとが違う涙が、ティセリアの頬を伝う。青年はティセリアを見て、淡く微笑んだ。
駆け寄りたいという衝動を堪えて、ティセリアは叫ぶ。
『ごめんなさいっ!』
青年の目が驚いたように見開かれる。
『守ると、誓ったのに。一族のためにアルセリアという命を授けてくれたあなたとの契約を守ると誓ったのに……。私は守れなかった……』
その言葉に、青年は寂しげに微笑む。
動けないティセリアに腕を伸ばして、抱き寄せる。唐突な行動にティセリアは戸惑った。
『だいじょうぶ』
たった一言。
だけど、いつもそう。いつだって、青年の言葉は優しくティセリアの心に落ちていく。落ちて広がって、包み込んでくれる。
ティセリアは頷いて、躊躇いがちに青年の背中に手を回した。