■極めて稀な朝の始まり■
「きゃあああああっっっ!!!!」
セルアン家当主が幸せな目覚めに浸っていた頃、ユリーナは目覚めて第一声。屋敷中はおろか、ここから馬車で20分はかかる街中までも聞こえそうな叫び声を上げた。
あまりの大声に、隣で眠っていたフェネック(小動物で顔は狐に似ていて、胴体が長い。)も驚いて飛び上がり、素早い動きでわけもわからず枕の下に隠れた。恐る恐る鼻先と目だけ出して、なにごとかと主人であるユリーナに視線を向ける。
「……朝から元気だね、ユリーナ」
眠たそうな声で、ユリーナのベッド半分にスペースをぶんどっている青年が言う。
「マ、マ、マ……」
「ママ?」
彼は、片目を開けてユリーナの言葉を繰り返した。
「マックス!! あ、あんた、なんで私のベッドにいるのよ?!」
顔を真っ赤にしてユリーナは叫んだ。
ところが、なんだそんなことか、とばかりにマックスはむくりと上半身を起こしてまだ眠気の残る瞳をこする。
「遊びに来たら、まだ眠ってただろう? 起こすのも可哀想だったから、待ってたんだ。そのうち僕も眠くなってね」
「……だから、隣で眠ってたって言うの?」
「床で寝たら痛いだろう」
マックスの言葉にユリーナの眉尻がぴくりと動いた。
「レ、レディの寝室に勝手に入っていいと思ってるの?!」
「仕方ないんだ。起こして来てって頼んだら、みんな嫌がるからさ。よっぽど寝起きが悪いんだね、ユリーナ。ホント昔と変わらない」
肩をすくめて言うマックスにとうとうユリーナの理性がぷつり、と切れる。
「あ、あ……あんたもデリカシーがないのは昔とかわらないわよっ!!!!」
言葉と同時に投げつけられた枕をマックスは顔面ぎりぎりで受け止めて、深く息をついた。
「ユリーナ相手にそんなことしたってなんにもならないじゃないか……」
真っ赤な顔を更に真っ赤にして、ユリーナはベッドから飛び降りると、足早に部屋を出て行った。
「マックス! あんたは半径3メートル以内に近づくの禁止だからね!」
扉を閉める前に、そう言い残して……。
「……酷いな、僕はただ朝の挨拶を一番にしようと思っただけなのに」
ユリーナの出て行った扉を寂しそうに見つめてマックスが呟くと、枕の下に隠れていたフェネックが出てきて、彼の肩にトタタタタ、と移動し、ぽん、と慰めるかのように前足で叩いた。
信じられない! なんてヤツなの?!
ユリーナは怒りも露な表情で階段を下りていく。
勝手に部屋に入って隣で眠っていたという非常識もさることながら、なによりも怒っていたのは別の理由があった。
(普通、好きな女の子が眠っててその隣で呑気に眠れる?!)
声には出さずに、心の中で叫ぶ。
別に何かしてほしかったわけではないけれど……。でも、呑気に眠れるってことは私のことを好きだって言ってるのも怪しいわよね。
そんなことを思いながら、百面相を繰り返していたユリーナに恐る恐る声が掛けられた。
「あ、あの……お嬢様?」
ハッ、と我に返って、ユリーナは目の前で戸惑っている侍女のカイナの姿を見つける。同時に彼女の両手いっぱいに抱えられている薔薇の花束に気づいた。
「……それ、どうしたの?」
「お嬢様宛で、いま届いたんです」
そう言うと、カイナは花束をユリーナに渡した。
一瞬、マックスの新しい冗談かと危惧したが、他の女性にならいざ知らず。冗談でも彼が自分に花束など贈るわけがない、と否定する。
「誰からかしら?」
首を傾けながら、花束に顔を近づける。薔薇の花から甘い香りが漂ってきた。
「……いい匂いね」
「ええ、……あっ、カードがそこに、」
花束を包んでいるラッピングの部分に白い正方形のカードが納まっているのに気づいて、カイナが言う。ユリーナは花束をカイナに渡して、カードを手に取った。二つに折ってあるのを開くと見たことのない流麗な文字が書かれてあった。
『 愛しのユリーナ嬢。
朝一番の花を貴女に。
なかなか会えない私の代わりに慈しんで下さい。
次に私が攫いに行くその日まで。
怪盗紳士 』
最後のサインにユリーナは目を瞠った。
「なんですって?!」
怪盗紳士といえば、2ヶ月前の16歳の誕生日。おじい様主催のパーティーでユリーナを盗むと予告状を出してきた人物だ。あの時はその後の事件のいざこざで、攫われずにすんだ。それから何の音沙汰もないから、すっかり忘れていたけれど。
(…………諦めてなかったの?!)
カードを困惑の瞳で見つめていると、不意に背後から奪われた。
「あっ、マックス!」
ユリーナが驚きに声を上げるのを無視して、マックスはカードの内容に視線を走らせると、いきなりびりびりっ、と破り始めた。
「マックス! なにするの!」
「いいんだ。カイナ、悪いけどそのバラを飾るのなら、できるだけユリーナと僕の目の付かないところにしてほしいんだけど」
マックスの言葉に、クスリ、と笑みを零してカイナは「わかりましたわ」と一礼すると、さっさと歩いていった。
その背中を見送ると、マックスは何事もなかったように朝食が並べられてる部屋に向かって歩き出した。その後を、ユリーナは慌てて追いかけていく。
「ちょ、ちょっと待ちなさいよ! マックス!」
「ユリーナ、半径3メートル以内は近づいたらいけないんだろう?」
振り返らずにマックスが言うと、ユリーナはムッ、として負けずと言い返した。
「私から近づくのはいいのよ! そんなことより、私が貰ったものに口を出す権利なんてないでしょう!」
「権利ならあるよ」
不意にぴたりと歩みをやめて、マックスが振り向く。思わず身構えながら、ユリーナは上ずった声で聞いた。
「なっ、なによ?」
「僕は君のおじい様と父上に認められている正式な婚約者だからね」
マックスはにっこりと端正な顔に笑みを浮かべた。
それは老若男女問わず見惚れてしまいそうな麗しい表情で、そんな笑顔で何かを言われたら、なんであろうと。たとえ極悪人を牢から出せという内容だったとしても頷きそうなものだったが、彼を幼い頃から熟知しているユリーナにはその頭には角が。口には牙が。果ては黒く先の尖った尻尾までが見えたような幻覚に陥った。
そう、まるで幼い頃に読んでもらった童話に出てくる意地悪な悪魔が今、現実に目の前にいるような……。
あまりのショックに呆然とするユリーナの瞳を覗き込んで、マックスはしみじみとした口調で言った。
「我を失うほど喜んでくれるなんて嬉しいよ」
うんうん、とひとり頷くマックスに、頭の中で何かが切れる音をユリーナは聞いたような気がした。
「……だ、だっ」
「ユリーナ?」
大きく息を吸い込んだユリーナに気づいて、マックスは不思議そうに首を傾ける。
「だれが認めたってあんたなんか絶対お断りよ ――っ!」
マックスの耳元でそう叫ぶと、ユリーナはぷんっ、と顔を背けて歩いていった。その後をフェネックが追いかけていく。
やれやれ、と肩をすくめてマックスは彼女の背中を見つめながら呟いた。
「……照れなくてもいいのに」
・・・☆・・・
セルアン氏は食堂に漂う異様な空気の出所を探るかのように、コーヒーカップに口をつけたまま、目の前で一言も話さずに朝食に手をつけている二人を見比べる。
長い沈黙に耐えかね、セルアン氏はカップを置くとごほんっ、と咳払いを起こした。
「あ ―、なんだね。ユリーナ。今日の予定はなにかあるのかな?」
すると、即座にユリーナは口を開いた。
「ありません」
短く言い切られて、がくり…、と肩を落とした。慌てて気を取り直すように、マックスに視線を向ける。
「マックス君は?」
「僕も特には」
こちらも即座に返事が戻ってきた。
けれど、セルアン氏はこんな状態の二人にいつまでも屋敷にいられたら、侍女たちは仕事にならないだろうし。自分の精神のためにもよろしくないと、諦めずに言う。
「それなら、二人で街にでも出掛けてきたらどうだい?」
「マックスとなんかイヤ!」
断固として拒否する娘に、セルアン氏は深いため息をついた。
見かねて、傍に控えていたカイナが助け舟を出す。
「そういえば、先日からクレアート劇団がいらっしゃってるのではありませんか?ユリーナ様お好きでしたでしょう?」
ユリーナの表情がパッ、と明るくなった。
「そう! 今、セイント劇場で上演してるらしいの!」
「それはいい。おまえも観に行って来てはどうだね?」
嬉しそうに言う娘にここぞとばかりに、セルアン氏は勧める。だが、ユリーナはため息をひとつついて、首を横に振った。
「ダメよ、お父様。クレアート劇団は凄い人気なのよ。彼らの上演チケットは何年も前から予約でいっぱいなの。簡単には手に入らないわ」
「そうか……」
これでいよいよ諦めなければならないか、と覚悟を決めかけたとき、マックスが胸ポケットから2枚の紙切れを取り出した。
「クレアート劇団のチケットならここにあるけど?」
がたんっ、思わずユリーナは席から立ち上がった。
「なっ、なんでマックスがそれ持ってるのよ!」
「セルアン侯爵から頂いてきたんだ。ユリーナを誘って行って来なさいってね」
セルアン侯爵とは、セルアン氏の父であり。ユリーナにとっては祖父にあたる。ユリーナをそれこそ本当に、目の中に入れても痛くないほど可愛がっていて、今ではマックス自身は望んでいないものの、成り行き上は彼の後ろ盾でもあった。
「でも、マックス! さっき予定はないって言ったでしょう」
「このチケットの席は隣同士でね。3メートル以内にあるんだ。もし、行ったらさっきのユリーナの言いつけを破ることになるだろう? それに僕なんかとは行きたくないって言われたし。僕は無理強いはしない主義なんだ」
自分が言った言葉を逆手に取られて、ユリーナはムッ、としながらひらひらとチケットを揺らすマックスから奪おうと、テーブルに身を乗り出す。
「だったらひとりで行って来るから、チケット頂戴!」
彼女が伸ばした手をひょい、と避けてマックスは困惑するように言った。
「女性を一人では行かせられないね。ああ、でも他の男と行くって言うのもナシだよ。嫉妬のあまり、僕はチケットを破りかねないから」
にっこりとそれこそ天使の笑顔(もとい、悪魔の微笑)を浮かべるマックスは言外に告げた。どうする、と。
ユリーナは恨めしそうな目でマックスを見ると、やがて渋々と口を開いた。
「……わかったわ、一緒に行かせて頂きます」
マックスは満足そうに頷いて、ああ…もうひとつ、と言った。
「3メートル以内は?」
「撤回するわよ!」
半ば投げやりにユリーナは応じた。
今度こそ、嬉しそうにマックスは淹れ立てのコーヒーに口をつけた。
ふたりのやり取りを黙って見守っていたセルアン氏は、これで今日の屋敷の平安は保たれた、と安堵に息をついた。