■演技上手は貴族の条件■
ユリーナは舞台を実際に見るのは初めてだった。
小さい頃は両親は忙しかったし、今は溺愛してくれている侯爵である祖父もまた、構ってもらえるほど暇ではなかった。学校に入っても、外で遊びまわるほうが楽しくて、舞台に行きたいという気持ちにもならなかった。それでも、興味がなかったわけじゃない。特にこのクレアート劇団は主役の男性が素敵なことで有名で、また演技もかの国王陛下にも絶賛されたと新聞に書きたてられていた。それから、一度は見てみたいと思っていたが、そこまで有名な劇団のチケットはなかなか取れない。コネがあっても難しいほどだ。
だから、初めて見ることが出来るこの機会にユリーナは期待でいっぱいだった。隣に座っているのが誰であれ、気にはしない。そう、気にしたら負け。そうは思うものの、隣に座っている以上はどんなに意識を向けないように努力しても、声は聞こえてくる。
「……話は、ありがちだね。猪突猛進型主人公と、悲劇ぶるヒロインと、二人を中心に空回りする人間たちのドタバタコメディ……」
「違うわよっ! 男女の悲恋だって書いてあるでしょっ!」
思わず飛び出た大きな声に、慌てて口元を抑える。何事かと驚いた視線が集まったことに気づいて、カッ、と頬が赤くなる。羞恥に耐え切れずに、俯くしかなかった。
「ユリーナ。君の大きな声も好きだけど、TPOは必要だと思うよ」
誰のせいよっ、というユリーナの心の叫びは、舞台の始まるブザーにかき消されてしまった。
身分違いに引き裂かれた男女が、周囲の監視を誤魔化しながら逢引を重ねるシーンで、ヒロインである女性が男性への想いを切なく歌い上げる。
その途端、会場を引き裂くような悲鳴が響き渡った。同時に、ズンと重い鉛が発せられたような音も。観客が全員混乱に立ち上がって騒ぎ始める。ユリーナも席から立ち上がり騒ぎが起こった方向に視線を向けた。
「マ、マックス? 何が起きたのっ?!」
「混乱」
短くそう告げながら、マックスは周囲を見回した。不意にマックスの視線が一点に止まる。
「どうしたの?」
追いかけたその先で、男が銃を手にがくがくと震えているのが見えた。その目は驚愕に見開かれている。
「ちがう、私じゃないっ!私じゃ……」
観客たちの混乱にかき消されてしまいそうなほど怯えた小さな声が聞こえた気がして、ユリーナは息を呑む。硝煙が立ち上る銃を手にして必死に訴えている男の顔に見覚えがあった。あれは確か ――― 。
「アラン男爵か……。こんな所で堂々と殺人なんて、面白いね。彼にこんなユーモアがあるとは思わなかった。やっぱり人は見た目じゃないんだね」
感心したように口にして、マックスは混乱に巻き込まれないよう、呆然としているユリーナの手を引いて劇場の出口に向かった。けれど、握った手の感触に違和感を覚えて、振り向くと、いつのまにか顔を真っ赤にして今にも倒れてしまいそうな見知らぬ少女がうっとりとした瞳でマックスに見惚れていた。
「 ――― 失礼、レディ。僕の手はいつのまにか美しい女性を求めていたようだ。非礼はお詫びするけれど、これも混乱の中でもあなたという素敵な女性を見つけ出すことができた僕の幸運だと思って頂けると嬉しいな」
甘く囁きながら、手の甲に口づける。
心の中では、ユリーナとはぐれてしまったことに舌打ちしたい気分だった。苦々しい気分はすべて笑顔で隠しながら、気絶して崩れ落ちる女性の手を近くにいたひとに渡して、足早にその場を離れた。
気づいたときには、確かに繋いでいたマックスの手が離れていて、廊下一面にいた人の流れに巻き込まれてしまっていた。人ごみからまさに命からがら抜け出して、呆然と歩いていたユリーナは今自分がどこにいるのか把握できない状況に陥っていた。さっきは埋め尽くすほどいた人たちが、この廊下にはまるでいない。その上、段々暗い所に向かっているような気がして、不安を覚え始めた。
「こっちだと思ったんだけど……」
はぁ、と溜息を零した瞬間、ばたんっ、と急に開いたドアに思わずユリーナはぶつかってしまった。
「 ――― いっ…っ!」
「きゃあっ!ごっ、ごめんなさいっ!」
ドアで打った額を抑えて、思わずしゃがみこむ。ズキズキとする痛みに堪えながら、顔をあげて、思わず息を呑んだ。
染みひとつなさそうな滑らかな白い肌、うっすらと朱に染まる頬。長い睫、二重瞼の下にある吸い込まれそうに透明な青い瞳。すっきりとしている鼻梁。微かにピンクに煌く唇。まるで昔絵本の中で見た美を司る女神のように綺麗な顔つきをした女性が心配そうに眉を顰めてる。そんな表情さえも、溜息が零れそうなくらい美しい顔をしていた。一瞬、女装をしたマックスの顔が脳裏に浮かんだ。隣に並んでも引けは取らないかもしれない。
「あ、あの……?」
思わず浮かんだ想像を振り払って、慌てて立ち上がる。
「ごめんなさいっ。大丈夫?」
再びそう謝罪の言葉をかけられて、頷こうとしたとき、その女性が、さっきまで見ていた舞台を演じていたクレアート劇団のひとりだと気づいた。それも花形新人として期待されている女優。そう思い出したところで、冷たい響きを含む声が割り込んできた。
「どうしてこんな所に関係者以外がいるんだ。まさか、アルサーヌの追っかけか?」
「っ……ランバート様!」
ずいっと、若い男がアルサーヌを庇うように出てくる。ハイデンホルム特有の金色の髪に、青い瞳。整った顔をしているが、肌が浅黒く、体格も大き目で筋肉質なのが一目でわかりそうなくらいしっかりしていたため、少し怖い印象を受けた。しかし、そんな彼を押しのけて、アルサーヌが申し訳なさそうに出てきた。
「ランバート様が酷いことを。本当にごめんなさい」
手まで取られて真剣に謝る姿に、焦って首を振る。
「いいのよ。私その、迷子になっただけで……本当にここにきたのは偶然なの」
「信じるわ。あの混乱振りだもの。仕方ないわよね」
慰めるように、ふわりと笑う顔にそれまで心細くて寂しかった気持ちが温かいものに包まれていくかのようだった。自然と頬が緩んで、笑みを浮かべてしまう。
「アーシャ!」
その空気を打ち払うように、鋭い声が響く。けれど彼女は構わずに、ランバートという青年へと振り向いて、呆れたように言った。
「あら。だって彼女。高価なドレスを着ているわ。そんな女性が何をするって言うの?」
「だからといって、他人をそんな容易に信じるものじゃないだろう!」
「血の繋がる人間より信じられる他人だっているわよ!」
急に始まった言い合いに、戸惑ってしまう。互いに睨み合っている二人だったが、すぐにランバートはふいっと顔を背けて、「もういいっ」と吐き捨てると、乱暴な足取りで歩いていってしまった。その背中を何も言わずに見送っていたアルサーヌの横顔を見ると、その瞳には寂しげな光が宿っているような気がした。
「……アルサーヌさん?」
そう呼びかけると、彼女は感情を押し殺すように目を伏せて、ふぅと大きな溜息を吐き出した。それから困ったような笑みをユリーナに向けてきた。
「ヘンな所を見せてしまったわね。ごめんなさい」
その言葉を聞いて、思わず笑ってしまった。怪訝な顔をするアルサーヌに、首を振って答える。
「なんだか、謝られてばかりだから」
「そういえば! ごめんなさ ――― っ!」
気づいた瞬間にもう何度目かの謝罪を口にしようとして、あっ、と口を手の平で塞いでいた。それを見て、お互いに顔を合わせて笑い合う。ひとしきり笑った後、彼女が改めて、と口を開いた。
「私、アルサーヌ=ラッセル。よろしくね」
「ユリーナ=セルアンよ」
そう自己紹介をすると、部屋の中からアルサーヌを呼ぶ声が聞こえてきた。彼女は慌ててそれに返事をして、言う。
「今日は事件が起こったから公演中止になったけど、また来てくれる?」
「でも、チケットが……」
「知り合ったのも縁だもの。送らせて貰うわ」
ランバート様の暴言のお詫びも兼ねてね、と押し切られて衣装のポケットに入れていたらしい紙に住所を書かされた。更に半分破って、すらすらと文字を書くと握らされる。
「これを係りの誰でも見せれば、楽屋まで連れてきてくれるから。公演を見終わったら遊びにきてね」
そう言って、劇場の入り口の場所まで説明してくれた。
「有難う! 絶対に見に来るから!」
約束すると、嬉しそうに笑って、アルサーヌは約束よ、とお茶目っぽく片目を瞑って、楽屋に戻っていった。
(アルサーヌさんって素敵な女性だわ……。)
事件が起こって迷子になったにも関わらずに、思いもしなかったクレアート劇団の女優と知り合い、その女性と仲良くなれたことに気持ちが浮上していった。あのランバートっていう男は、怖かったけれど。でもそれだって、彼がアルサーヌの知り合いで、楽屋のある場所で見慣れない人がいたら、ああいう言動を取ってしまうのも仕方ないと思う。そう思い直して、とりあえず早く戻らないとマックスが心配しているかもしれないと気にかかった。
(マックスが心配 ――― ?)
アルサーヌが説明してくれた方向を戻りながら、自分の思考に首を振る。そんなわけない。あのマックスのこと。きっと、ひとり劇場の出入り口に立って、待ち構えているに違いない。そうして、飄々とした口調でこう言うに決まってる。
「遅かったね、ユリーナ。いい加減、その方向音痴も特技の一つだって認めるべきだよ」
想像と同じ言葉を現実に聞かされて、出入り口の近くの壁に寄りかかって立っていたマックスを不機嫌に見る。
「余計なお世話!」
そう言って、劇場を出る。後からついてきたマックスに急に腕を掴まれた。その少し強引な動きに、驚いて視線を向ける。いつもからかうような光を浮かべている透き通った青い目に、今は感情が何ひとつ浮かんでいないように思えた。ぎくりと、身体が強張る。
「どっ、どうしたの?!」
戸惑いながらそう聞くと、心の奥まで見透かすように、じっと見つめてこられる。こんなに真剣に見つめられるなんて、いつぶりだろう。幼い頃の記憶が甦ってくる。ぼんやりと浮かんでくるあの頃の ―― 過去が形になって浮かび上がってこようとした瞬間、パッと腕を放された。
「僕に何か言うことは?」
「……なにもないけど」
少し考えて首を振ると、そう、と感情のない声が返ってきた。なによ、と文句を言おうとしたとき、それを遮って、マックスは劇場の入り口に視線を向けた。それを辿っていくと、くたびれた茶色のコートを着て、難しい顔つきで手帳に書き込んでいる男が立っていった。
「トーマス警部だわ」
発砲事件が起こって、人が殺されてしまった以上は警部が姿を現しても不思議じゃない。トーマス警部もユリーナたちの視線に気づいたのか、手帳から顔を上げ、目線を向けた。途端に、苦虫を潰した顔になって、だがすぐに近づいてきた。挨拶もそこそこに、劇場を示して問いかけてくる。
「君たちもこの劇場の観客だったのかね?」
「侯爵からチケットを貰って、デートに来たんですよ」
肩を竦めて言うマックスの余計な一言に、足を踏みつけようとしたけど、さりげない動きで避けられてしまった。悔しくて、飄々としている表情を浮かべている顔を睨みつける。
「なるほど、デートか。ははっ、若いのはいいことだ」
マックスの言葉になぜか照れたように警部が笑う。そのまま何気ない口調でマックスは、口を開いた。
「それで殺されたのは誰なんですか?」
「ああ、それはディアン=ロッド子爵だよ」
躊躇うことなく警部は答えてくれた。まあ、と手帳を持った手を軽く振って、自信のある顔つきをする。
「犯人はアラン男爵だとわかっているがね。警察が来るまで銃を持ったままだったし、わかりやすくて助かるってもんだ」
現場検証も事情聴取も、すぐに終わるだろう、と告げる警部を見て、マックスはにっこりと微笑んだ。
「では、僕たちももう帰ってもいいですね?」
どうぞ、どうぞ、とそれこそ大歓迎だとばかりに促され、多少ムッと眉を吊り上げる。ユリーナが抗議しようとすると、警部、と聞き覚えのある声を聞いた。視線を向けると、さっきアルサーヌの楽屋で会った男だった。
「ああ。ランバートさん。失礼、こちらはセルアン侯爵のお孫さん。ユリーナさんと、その婚約者の ―― 」
「幼馴染のマックスです」
遮って言うと、隣から不満そうな視線が注がれた。
「これは、初めまして。僕はランバート=ロッドと申します。セルアン侯爵のお話はいつも伺っています。あの有名な侯爵の孫娘である貴女にお会いできて光栄ですよ」
楽屋では怖い印象を受けたのに、今の彼はあのときとまるで違う態度で、穏やかに微笑んでそう挨拶をしてくる。思わずユリーナはきょとんと目を瞬かせてしまった。
(それに、初めまして ―― って)
会うのは2度目のはずなのに。
ユリーナが混乱している間に、ふとマックスの声が聞こえてきた。
「ロッドというと、今回の ―― 」
ええ、と悲しげに顔を曇らせる。それにしても、とまだマックスは続けた。
「随分と落ち着いているんですね」
「まあ、犯人はわかっていますから。取り乱しても、みっともないだけです」
突き放すような口調でそう言って、事情説明をお願いします、と促されたランバート氏は警部とともに歩いていった。その背中を見送りながら、ユリーナは肩を竦める。
「演技上手は役者だけの特権ってわけじゃないわね」
「貴族だからこそ、役者より上手(うわて)の演技と駆け引きが必要なときもある」
なんとなく零した言葉に返してきたマックスの返事がまるで、楽屋でのことを ―― ランバート氏と会ったことを見透かされたようで、ぎょっと見ると、彼は空を見上げていた。それより、とマックスが言う。問いかける視線を向けると、再び見つめられた。
「本当に、僕に言うことはない?」
「なっ、ないわよ!」
慌てて踵を返して歩き出す。今もまだ、後方の劇場周囲には人だかりがあり、騒ぎが聞こえていたけれど、それよりもしつこいくらいに問いかけてくるマックスを追い払うことこそが、ユリーナには重要だった。