■君に捧げる宣戦布告■
マックスは出てきたばかりの建物の入り口に立って、すっかり陽が落ちてしまった空を見上げた。
今から乗合馬車を拾って帰ったとしても、セルアン邸の夕食には到底間に合いそうもない。最も、それを見越して今日は寄らないことを屋敷の執事には伝言しておいた。自分の屋敷に戻って一人でディナーを食べるのも面倒だな、とユリーナが聞けば叱られそうなことを思いながら、重くなる足をなんとか動かして家に向かわせる。馬車に乗ろうかと思ったけれど、気が向かずに歩いて帰ることにした。歩いて帰ったとしても、馬車で三十分。歩いて一時間くらいだ。丁度いい運動になるだろう、と心に決めると、重かった足取りも軽くなっていった。
建物があったコルト通りと呼ばれる路を歩いていく。このコルト通りは十字にいくつも細かく路が分かれていて、一度迷ってしまうと、地図がない限り、或いは知っている人に聞かない限りは抜け出せない。自分がどこに居るのかわからなくなる羽目に陥ってしまうのだ。幼い頃、よく後をついてくるユリーナを撒くためにこの通りに足を踏み入れて、迷子にさせたことを思い出して、懐かしくなった。おかげで、ユリーナもこの通りは目を瞑ってもわかるようになったはず。それを喜んでいるかどうかは別にしても。
物思いに耽りながら、不意にマックスは三つ通り過ぎた十字路を曲がり、またすぐある十字路に入り込んだ。その壁に息を潜めて背中を預ける。すると、黒いコートを着た男が急に姿を消したマックスを探している様子が見えた。気配を消して出て行き、その背中に声をかける。
「知らなかったよ。怪盗紳士が男のあとをつけるのが趣味だとはね。悪いけど、僕にはそういう趣味はないんだ」
「私にもありませんよ」
びくりとも反応せずに、むしろそう声をかけられることがわかっていたかのように余裕のある態度で振り向いた怪盗紳士は、肩を竦めて苦笑した。
「じゃあ、何の用だ?」
男 ―― それも恋敵 ―― と、長話をする気にもなれず、手っ取り早く用件を聞き出す。
「わかっているでしょう」
そう言って、白い手袋を嵌めている左手を差し出してきた。何のことだ、と更に惚けようかと思ったが、いつもの飄々としている態度とは裏腹に、微笑んではいるものの、剣呑な光を宿している目と、わずかに殺気立った雰囲気を感じ取って首を振る。
「落とした」
一言そう零せば、相手は瞠目し、珍しく動揺を顔に出していた。
「アレを落としたですって? 本当なんですかっ?!」
「別に僕にとって重要なものでもなかったからね。それに、一割を期待できそうもない。だったら、失くさないように大切に持っている理由もない。上着のポケットに入れてたら、いつの間にかどこかに落としたみたいだ」
「…………どこで落としたか心当たりもないんですか?」
諦めきれないという口調で問いかけてくる怪盗紳士に、さあ、と肩を竦める。だがふと思いついて、口を開いた。
「ユリーナに近づかないっていうなら、思い出してやってもいいけどね」
ぴくりと、片眉がはね上がった。面白い話を聞いたとばかりに怪盗紳士の顔に愉しげな笑みが広がっていくのを胡散臭い目で見てやった。
「ただの、幼馴染でしかないあなたにそんな台詞を言う権利はないでしょう」
「ああ。大切な婚約者の周辺をうろつくストーカーに警告するのは義務だ」
押し問答を繰り返していると、どうも話が脱線していくことに気づいたのか、自称紳士はやれやれと肩を竦めて、話を打ち切った。用事は済んだとばかりに背中を向けて歩き出したタイミングを見計らって話しかける。
「ロッド子爵は、対王族派だったって噂だけどね」
怪盗紳士の動きがぴたりと止まった。ぴりっとした緊張感が夜の闇を支配する。
「そうですね。あなたが噂に振り回されるとは思えません」
振り向かないまま、聞こえてきた声は鋭く響いた。それは言外に余計な干渉はするな、と言っているようにも聞こえる。勿論、男に関わるなんてイヤだ。むしろ、ユリーナ以外のために巻き込まれるつもりもない。
「マックス君」
威圧感の漂う響きに、周囲の静けさが深まった気がした。その静けさが、更に暗がりへと引きずりこもうとする。じわじわと纏わりついてくるような感覚があった。それは、だけど慣れきったものでもある。だからこそ、ただ黙って言葉の続きを待った。
「余計な詮索はやめたほうがいいですよ。私の領域に踏み込もうとするならそれなりの手は打たせていただきます」
「だったら、ユリーナに手を出すな」
そんなに自分は危険だと警告するのなら。ユリーナを巻き込むなんて、論外だ。たとえ、そこにどんな思惑があったとしても。恋敵だと、いうのなら。
くすり、と小さな笑みが零れ落ちるのを聞いた。
「他の男に手を出されることがイヤなら、あなたはどうして手を出さないんでしょうね?」
手を出せるものなら ―― とっくに。反射的にそう思って、その言葉は尖った針となり、胸の中を突き刺していく。手をださないわけじゃない。
――― ユリーナ。
無意識に手を握り締めていた。
それでは、と声がして我に返る。前を見ると、怪盗紳士の姿はまるで闇の中に溶け込むように、消え去っていた。
公演再開の日程が提示されたのは、あの事件から3日後のことだった。
ユリーナは今朝の郵便で送られてきたと侍女のカイナから受け取ったチケットを見て、眉を顰める。チケットが嬉しくないわけじゃない。むしろ、チケットが届くまでは、早く来て欲しいという気持ちでいっぱいだった。あまりに気もそぞろな様子にマックスが訝るように視線を寄越してきたのを何とか誤魔化してきた。そうしてようやく待ちかねていたチケットは今朝届いた。しかし、2枚もある。その枚数こそがユリーナを悩ませる原因だった。最初は、マックスを誘うことを決めていたのに ― 暇に決まっているし、認めたくはないけれど、身近に誘える人間がマックスしかいなかったのだ。けしてデートのやり直しとかそんなふうに考えてはいない。― けれど、珍しくも昨夜のディナーから姿を見せなかった。今日も、すでに昼を過ぎているのに姿を現していない。いつもならユリーナが起きるより早く居て、図々しくも珈琲を飲んでいるか、ソファで寝そべって新聞に目を通しているか、フェネックで遊んでいる。
それなのに、ぱったりと姿をみせない。屋敷に図々しくでもいてくれれば、何気なさを装って誘うこともできるけれど、わざわざ訪れてまで誘うなんて。
「キュルー」
小さな鳴き声に気づいて、視線を下げると、絨毯にぺたりと座って、フェネックが潤んだ瞳で見上げてきていた。抱き上げて、ふわふわとした毛を優しく撫でる。
「……まさか、風邪でもひいちゃったのかしら」
思わず呟いた一言にううん、と首を振る。マックスは風邪を引いても我慢する。いや、気づかないふりをする。倒れるのはいつだって、ユリーナの傍だ。それは小さい頃からの決まりごとのようなものだった。だから風邪を引いたのなら、何があっても屋敷まで出向いてくるはず。
(やっぱり、何かあったの?)
不安が一気に押し寄せてくる。心配になって、だけど素直になれずに溜息が零れ落ちる。
「もう。マックスのばかっ」
肝心なときには姿を見せないなんて、ずるい。
そう思いながら、すでに足はマックスの元に向かうために歩み始めている。だけど、玄関に向かうよりも先に、腕の中にいたフェネックがユリーナの手から一枚、チケットを口にくわえて飛び降りた。
「フェネック?!」
「〜♪」
くぐもった鳴き声を残して、フェネックはまるでスキップでもするかのように軽やかな足取りで走り去っていってしまった。そのあまりの行動の素早さに、ハッと気づいた。
「フェネックを買収してたわね」
怒りに手が震えてしまう。もう一枚残っていたチケットがくしゃりと音を立てる。怒りやら、呆れやら、複雑な想いはあるけれど、どこかいつものマックスの行動にほっと胸を撫で下ろしていた。
公演に出掛ける時間になると、マックスはちゃっかり馬車に乗って、本を読んでいた。不機嫌な顔のまま向かい側に座って、睨みつける。
「今日はどうして朝から来なかったの?」
「ちょっと野暮用がね。寂しかった?」
問いかけると同時に、本に向けられていた視線があがる。じっと青い目に見つめられると、まるで吸い込まれそうになってしまう。すべてを見透かそうとする目。心にやましいことがあるときは、この目から逸らしたくなるけれど、ユリーナは何があっても、まっすぐに見つめ返していた。
「そんなわけないでしょ!」
「素直に頷いてくれたら、キスしてあげようと思ったのに」
冗談じゃないっ、と叫ぼうとして、不意に違和感を覚えた。マックスの纏う雰囲気がいつもと違う。軽口で誤魔化してしまおうとする本音をユリーナは敏感に感じ取った。
「……ちょっと、ねぇ。何かあったの?」
思わず身を乗り出して、その目を覗き込む。馬車の窓からかろうじて入り込む外の明りがマックスの顔を悲しげにみせる。マックス、ともう一度声をかけようとして、彼の声に遮られた。
「ユリーナは僕にキスされるのはイヤ?」
何をいきなりっ、反射的に立ち上がりかけて、馬車の天井に頭をぶつけてしまった。
「 ―――― っ?!」
がんがん、と疼く頭の痛みに、涙が出てくる。まったくもう。顔面やら、頭やら、ぶつけてばっかり。この間から、不運続きだわ。頭を抑えながら、マックスに八つ当たりに ―― 違う、原因は彼だから八つ当たりじゃないはず。文句を言おうと口を開いて、不意に腕を掴まれた。何が起こったのか把握できないまま、気がつくと狭い空間の馬車の中、マックスに抱き寄せられていた。どくんっ、と胸が大きく鳴る。頭の痛みも消し飛んで、触れ合う温もりに身体が強張ってしまう。
「マッ……ママ……」
ちょっと待って、とか。何でいきなりそういう展開に、とか。言いたい言葉はぐるぐると頭の中を巡るだけで、実際には声にならない。ただ、王子様のようなキレイな顔がどんどんと近づいてくることだけがわかる。見慣れているはずのマックスの顔が、急に男っぽく、艶やかさを見せて、まるで見知らぬ男性に迫られているような感覚を受けた。それ以上目を開けていられずにぎゅっと瞑る。どくん、どくんと心臓はうるさいほどに鳴っているけれど、それが不安からか緊張からかは区別できなかった。すべての感情がごちゃごちゃにかき混ぜられた感じ。だけど、いつまでたっても、何も起こらなかった。
「……マックス?」
恐る恐る目を開けると、具合悪そうに口元に手をあてて席に座っているマックスが見えた。それまでの羞恥やら緊張やらは一気に吹き飛んで、慌てて身を乗り出した。顔色は真っ青で、目が熱っぽく潤んでいる。
「気分悪いのっ?!」
熱があるかもしれないと、額に手を伸ばす。途端に、マックスはスッと身体を引いて、なんでもないと拒絶した。
「ヘイキだ。ユリーナの顔も見慣れればアップにだって耐えられるようになるから、もう少し時間がほしい」
――― は? なんですって?
つまり、ということは。
マックスの言葉を理解していくにつれて、全身がぶるぶると怒りに震えてくるのが自分でも面白いくらいにわかってしまう。落ち着いて、落ち着いて。と長年の腐れ縁からくるマックスとのやりとりに何度も言い聞かせる。
「近づく前から、目を閉じてればいいのか」
まるで名案だとばかりに呟かれて、ユリーナの長年の経験は吹き飛んでいた。
「誰があんたなんかとキスしたいもんですかっ!」
馬車の中で響いた言葉は、幸いにも周囲にひとがいなくて、被害は御者ひとりですんだ。