■再会は火花に散る■
先日観ることができなかった舞台を観劇できて、ユリーナは終わった今もまだ夢見心地でいた。驚いたのは、主役がアルサーヌに変わっていたこと。ヒロイン登場の際に、彼女が出てきたときには思わず声を上げそうになったほどで、慌てて飲み込んで堪えたけど、本当にびっくりした。舞台の最後で急遽配役が変更したお詫びは告げられはしたが、観客席からは満足だったと拍手喝采が鳴り渡っていた。
ユリーナも初めて見る舞台だったけど、ヒロインにすっかり感情移入してしまって、わくわくしたり、どきどきしたり、ヒロインが主人公を切なく想うシーンに至っては、涙が零れそうになったりもした。本当に素敵で、いつまでも終わっては欲しくはなかった。まだ、幕が降りた今も、余韻が残っている。
それなのに、隣からかけられた言葉に、急に現実に引き戻された。
「やっと終わった。さっさと帰ろう、ユリーナ」
「素敵だったわね。ヒロインの気持ちが切なくて、特に一度主人公と別れようと決意するところなんて、胸がぎゅっとなっちゃった」
「ああ。あれ。本当にひどいヒロインだよね」
ぼそりと零されて返ってきた言葉に驚いて視線を向けると、マックスはすっかり帰り支度を終えて席から立ち上がりながら言った。あのヒロインのどこがヒドイというのか、本当は問い質したい気持ちがあったけれど、周囲にはまだひとが大勢いるために、声を潜めて「どうしてよ?」と不機嫌に訊いた。だが、マックスは何も言わずに帰るべく歩き出した。その後に続きながら何回か呼びかけるけど、黙ったまま返事をしない。
(今夜のマックスはどうしたって、ヘンだわ……。)
馬車の中でのキス騒動といい、今の態度といい、なんでもないように装ってはいるけれど、長い付き合いの中で誤魔化せるはずがない。ユリーナのことがマックスには手に取るようにわかると公言されてしまうように、マックスのことを一番わかっているのはユリーナだ。それだけは自信があった。だけど、彼が心の奥に隠す何事かを聞き出すのは、容易じゃない。マックスが話す気になるまでどうすることもできなくて、それが悔しくて堪らなかった。何かがあったときにいつだってユリーナが話すのはマックスであるように、彼にとってもそうであってほしいと望んでいるのに。ただ傍にいることしかできないのがもどかしい。
「ねぇ、マックス。ちょっと待って、」
何かあったの、と歩いていく背中を呼び止めようと顔をあげて、ふと見慣れた顔を見つけた。
「あれって……、警部?」
帰る観客たちの流れとは反対に歩いている警部の顔は、いつも通り厳つい渋面をしている。その様子から公演を見に来たわけじゃないはず。それにとっくに終わっているわけだし。警部はユリーナたちに気づくことなく、楽屋がある方向へ歩いていった。
「マックス! 私たちも行かなきゃっ!」
なんだか嫌な予感がする。根拠のない焦りを感じながら、急いで警部の後を追った。途中、楽屋への入り口のところで係りの人に止められたけれど、アルサーヌに貰ったチケットの裏に書いてあるサインを見せたら通してもらえた。ついでに、彼女の楽屋の場所を教えてもらう。教わったとおりに進んでいくと、言い争う声が聞こえてきた。
「犯人はあの男だろう。君たちは何の根拠があってそう言っている?」
「確かに彼は銃を持っていました。しかしですね、検死の結果では子爵は銃で撃たれる前に亡くなっていた事がわかったんですよ」
警部が言葉にした意外な真相にユリーナは驚いた。犯人は明らかに男爵だと思っていたのに。まさか。隣に立っているマックスの袖を引いて、こっそり耳打ちする。
「知ってた?」
「ユリーナ……。僕は超能力者じゃないよ」
心底呆れたように返ってきたため息に、それもそうだわと思い直して再び警部たちに視線を戻した。
「ともかく事情をもう一度お聞きしたい。一緒に来ていただけますね?」
促すように警部が言ったとき、楽屋からアルサーヌが飛び出してきた。
「ランバート様!」
「大丈夫だ、アルサーヌ。何も心配するな」
不安げな表情で縋るような視線を見せている彼女に対して、そう優しく宥めてからランバートは警部たちと一緒に歩いて行った。その様子を呆然と見送っていると、アルサーヌの身体がふらりと揺れる。
「アルサーヌさん!」
慌てて彼女を支えるために駆け寄った。
「ああ。ユリーナさん。ごめんなさい」
顔は真っ青で、身体は小さく震えている。その頼りなげな表情は儚げで、ユリーナは同性でありながらも見惚れてしまう。彼女はなんとか自力で立つと、にっこりと微笑んで見せた。
「観に来てくれたのね。ありがとう」
唐突な言葉に戸惑いながら、ユリーナは頷いた。彼女の視線がマックスに向き、問いかけるようなものに変わる。それに気づいてマックスが口を開いた。
「僕は彼女の婚約 ―― 」
「幼馴染のマックスよ。二枚頂いたから、連れてきたの」
マックスの「こ」という文字が聞こえたら遮るようにしている。いつものようにそう言うと、最近は慣れたのか、マックスも柔らかく微笑んで付け加えるようになっていた。
「ユリーナの美点は恥ずかしがりやなところだね」
そんなところも可愛いというような愛がこもった口調に、それを聞いた人が「幼馴染」と認識してくれることはなくなっていた。案の定、アルサーヌも優しく微笑んで言う。
「あらあら。素敵な恋人なのに、勿体無いわ。堂々と恋人って言えばいいのに」
「そのうちにきっと言ってくれるという楽しみですよ」
調子に乗って言うマックスはともかく、クスクスと楽しそうに笑うアルサーヌを相手にユリーナはそれ以上の言葉を返すことができず、苦笑いを浮かべるしかなかった。
ユリーナたちは公演が終わったアルサーヌとともに、彼女が宿泊しているホテルで一緒に食事をすることになった。食欲がないと言ったアルサーヌに行動の基本は食事よ、と強引にユリーナが誘った。何か言いたげなマックスの視線はあっさりと無視して、テーブルに着く。
ホテルは中級クラスで、レストランは丁度夕食の時間ということもあって混み合っていた。三人ともおススメのディナーコースを頼むことにして、給仕係が下がると、ユリーナは今夜の舞台について話題に上らせる。
「まさか、アルサーヌが主役になっているとは思わなかったけど、とても素敵だった!」
「ありがとう。自信はなかったけれど、目立つ失敗もなく演じれてよかったわ」
嬉しそうに微笑むけれど、その目はどこか上の空のように見えた。後に続く会話も返事はしてくれるけれど、心は飛んでいっている。きっと、あのランバート氏が気になっているに違いないと確信する。テーブルに出された皿にもあまり手をつけず、溜息をつくアルサーヌに思い切ってユリーナは訊いた。
「アルサーヌとランバートさんってどういう関係か訊いてもいい?」
躊躇いがちに発した言葉に、アルサーヌは動揺した顔を見せる。だけど、まっすぐ見つめるユリーナの視線に苦笑して、持っていたフォークを置いて膝にあったナプキンで口元を軽く拭いてから答えてくれた。
「ランバート様は私の後援者よ。まだ私が練習生だった頃から演技を気に入って応援してくれていたの。きっと素敵な女優になれるからって」
そう言う瞳は昔を懐かしむように陰る。
もしかして、彼はアルサーヌのことが好きなんだろうか。ただ演技が気に入っただけであんなふうにアルサーヌのことで必死になるわけがない。女優と貴族のロマンス ―― まるで恋愛小説のような設定に胸がどきどきした。
「昔からランバート様のことは知ってるの。彼が人を殺すわけがないわ」
感情が堰を切ったように溢れてきたのかアルサーヌの瞳から涙が零れ落ちる。ユリーナは慌てて自分のナプキンを取って、彼女に渡した。
「だっ、大丈夫よ!」
「……ユリーナ」
それまで沈黙を守ったまま食事をしていたマックスに声をかけられたけれど、気にする余裕はなかった。
「私達がちゃんと調べてあげるから!」
「……私、たち?」
ぼそりと疑問の声があがったけれど、それも無視する。今はそんなことよりも落ち込んでいる大切な友達の力になることが最優先。ユリーナの言葉に、涙を拭ったアルサーヌの顔は不安げに曇る。
「だめよ。そんなこと頼めないわ。もし、危険なことになったら ――― 」
「ヘイキよ! 警部さんとも親しいから情報だってもらえるし。マックスも手伝ってくれるから心配しないで!」
気遣うように見返してくるアルサーヌににっこりと笑顔を見せる。力強い口調で言い切ると、少しだけ安心したように微笑む。その儚げな微笑みに、ユリーナはうっとりと目を奪われてしまう。その間にアルサーヌの視線はじっとユリーナを見上げているマックスに向かう。それに気づいたのかマックスは、即座に ―あくまで自然に―穏やかな微笑みを浮かべた。
「心配はいりません。僕が、手伝いますから」
天使のような甘い微笑みに、アルサーヌは抱いていた不安が消えたのか、ようやく心から笑みを浮かべてありがとう、と感極まったように呟いた。彼女の力になれることをユリーナは嬉しく思った。
・・・☆・・・
警察の建物に入ろうとして、ユリーナは呼び止められた。振り向いてから、ぎょっとした。身体が強張るのを感じる。それを見透かしたように、相手はにっこりと隙のない笑みを浮かべた。
「久しぶりですね。お元気そうで」
紳士らしく被っていた帽子を脱ぎ、挨拶をする彼は医師だと語っていた。だけど、その正体は、三ヶ月前にユリーナを攫おうとした怪盗紳士。ブロンドの髪とキレイな、ブルーの瞳はハイデンホルム特有の姿だけど、不思議な雰囲気を纏っている。マックスの外見で人を惑わし引き込むものとは違って、彼には人を惹きつける魅力があった。
「か、怪盗 ―― っ!」
紳士、と叫ぼうとしてさっと口を塞がれた。
「んーっ。んぅんんーっ!(ちょっとーっ。なにすんのーっ!)」
「レイ、と呼んでくださいとお願いしましたよね?」
有無を言わさない強い口調に、そういえば、そんなことを言われた気がすると思い出して、慌てて頷く。するりと手が離れてほっと息をついた。悔しくて睨みつけても、どこ吹く風とばかりに柔らかな笑みを浮かべている彼に少し毒気を抜かれる。怒っているのも馬鹿らしくて落ち着こうと息をついた。ふと数週間前に届いた薔薇の花束のことが浮かんだ。
「そういえば、薔薇の花束をありがとう。キレイだったわ」
素直に御礼を言うと、一瞬驚いたように目を見開いた彼はすぐに嬉しそうに目を細めた。
「いいえ。気に入っていただけたのなら嬉しい。あの花は私の知り合いの庭に咲いているのですが、とても珍しい品種で、ぜひあなたにお見せしたいといったら快く切らせて下さいました」
「ええっ。私のために切ったのっ?!」
思わずもったいない、と零れそうになった言葉を慌てて飲み込んだ。
「もしよければ、そこまでお連れしますよ」
そう言って、差し伸ばされた手はぺしっと小さな音がして別の手に叩き落とされた。
「連れて行くなら侯爵にすればいい。執務室に飾ったら、大層気に入っていたみたいだから」
「マックス!」
マックスが屋敷を訪れるよりも先に此処まで来ていたユリーナは突然現われた彼に驚いた。昨日の様子からどうしても乗り気のようには見えなくて、だから迷惑をかけないようにひとりで来たのに。どうして、と疑問を口にしようとして、マックスは面白くなさそうに言った。
「ユリーナのお節介に呆れはするけど、手伝うって言ったからね」
投げ遣りにも聞こえる口調にムッとする。反論しようとして、別の声に遮られた。
「マックス君」
視線を向けると、怪盗紳士がじっとマックスを見ていた。薔薇の花束を祖父の執務室に飾られたことなんてこれっぽっちも気にしていないように、真剣な表情が浮かんでいる。ユリーナを見ていたマックスは面倒そうにそっちに身体を向ける。
「まだ、私はこの前の返事を聞いていませんよ」
「あんたもしつこい」
「邪魔をされるのならそれなりの理由があると思うのが普通でしょう?」
会話が続くたびにふたりの間に火花が飛び散っているようで、ユリーナは小さく息を呑む。だけど部外者になったような気がして、なんとなく苛立ちを感じる。それを見透かしたように、マックスはユリーナの手を掴んだ。振り払う前に、そのまま建物の入り口に向かっていく。
「ちょっ、マックス?!」
珍しく強引なマックスの様子に戸惑う。繋がれた手がまるで、縋っているように思えてしまって、更に困惑した。
「また、逃げるんですか?」
背中にそう声がかかる。ぴたりとマックスは足を止めて、振り向いた。青い目がひたりと、怪盗紳士を見据える。
「―― これから起きるユリーナのお節介に逃げないといけないのはあんただと思うけどね」
それだけを言うとくるりと踵を返して、マックスは建物の中にユリーナを引っ張っていった。
「待ってってば、マックス! あれどういう意味よ!」
建物に足を踏み入れると同時にマックスは手を離して、まるで勝手知ったる我が家とばかりに廊下を進んでいく。その背中を追いながら、ユリーナは問いかける。
「あれ?」
「私のお節介がどうとかって」
「ああ。言葉通り。ユリーナのお節介は周囲を巻き込むから逃げたほうがいいって意味」
ユリーナはそれまで燻っていた苛立ちが爆発するのを感じた。
「なんですって?!」
「そんな大声出したら、警察の皆さんがびっくりするだろう」
その場にいた全員に注目された瞬間には、マックスはいつもの外面用の天使のごとくキレイな微笑みを浮かべていた。