■二重人格者の決断■
――― まったくもう。マックスってば、本当に信じられないんだから!
馬車に乗ってもまだ、マックスへの怒りは収まらなかった。しかも勢いで引っ張ってきたとはいえ、向かい側ではランバートさんが明らかに不機嫌そうな態度を隠そうともせずに座っている。話しかけることさえ躊躇うような難しい顔つきでむっつりと黙り込んでいた。端整な顔には、何時間も警察の取調べを受けていたためか疲労の影が強く出ている。だけど、マックスに大見得切った手前、このまま黙っていても何も得られないと思い切って話しかけることにした。
「あ、あの……!」
「余計なお世話だ」
話しかけようとして途端に冷たい声で遮られた。えっと、視線を向けると厳つい顔つきを向けられていて、その鋭い眼差しに射竦められ、血の気が引いてしまうのを感じた。恐々と見ていると、更に冷たい口調のまま、言葉を続ける。
「どんなつもりで動いているのかはわからんが、好奇心で他人の事情に関わって欲しくはない。放っておいてくれ」
他人を拒絶する態度にムッと怒りがわきあがる。
あんなにアルサーヌが心配してたってのに。そんな言い方するなんてっ。
「私は、アルサーヌが心配なんです!」
馬車の中では思ったより声が大きくなってしまってランバートさんは驚いたように目を見開いた。
「アルサーヌはあなたを心配して食事も喉に通らないみたいだし、青褪めて今にも倒れそうなの!そんな友達を心配して力になりたいと思っちゃダメなんですか?!」
自分の事情ばかり優先して心から心配している女性のことは後回しなんて。ほんの少しくらい振り返って見つめるくらいの余裕はあったっていいと思う。
訴えるようにじっと見ていると、ランバートさんは急に小さな窓に視線を投げて嘆息する。
それがまるで相手にされていないように感じて、更に文句を募ろうとしたとき、小さな呟きが聞こえてきた。
「……悪かった」
幻聴?
彼の態度と聞こえてきた言葉がどうにも一致せずに、まじまじと見つめていると、窓に向けていた視線を戻し、罰が悪そうな表情を浮かべて言った。
「本気でアルサーヌのことを気遣ってくれる女性がいるとは思わなかったんだ。彼女は女優でもあるし、上辺だけで近づいてくる人間は山ほどいる。……だがどうやら君は心から心配してくれているらしい。それは感謝する」
とてもさっきまでの彼と同一人物とは思えなくて、困惑した。やっぱり貴族ってイコール二重人格者なのかも、と本気で思ってしまう。貴族じゃないのに、裏表を使い分ける幼なじみを思い出す。
『世の中を自分の都合のいいように渡るためには必須なんだよ』
同時ににっこりと天使のような笑顔で悪魔の尻尾を揺らしている姿まで浮かんで、打ち消すためにぶんぶんっと頭を振った。
「……それで、ランバートさんはどうして子爵を、」
殺そうとしたんですか、と尋ねようとして言葉に詰まる。あまりにも単刀直入すぎるかもしれない。いくらマックスが言ったとしても、証拠はない。
(素直に話してもらえるはずがないわ……。)
それこそ、関係ないと突っぱねられるに決まってる。
どう言おうか迷っていると、意外にもランバートさんが続けるように口を開いた。
「どうして子爵を殺したいと思うほど恨んでいるのか、か?」
ハッと彼の顔を見ると、皮肉げに口元を歪め、瞳には憎悪が揺らめいていた。
「あの男は殺されて当然の男だったんだよ。俺がこの手でそれをできなくて残念だったがね。誰が毒殺したのかわからんが、よくやってくれたよ。今思えば、あの男のために罰を受けるなんてばかばかしいことだったしな」
肩を竦めて軽い調子で言うには、顔は強張っていて、真剣な瞳は鋭いままだった。
――― 殺されて当然の男。
その言葉は冷たい棘になってユリーナの胸に突き刺さる。
「アーシャのことは……」
ランバートさんは彼女の名前を口にすると、不意に押し黙った。深い悲しみと苦痛を受けているかのようにブルーの瞳は陰り、彼は強く目をつぶった。眉間に拳を押し当て、長いため息を吐き出す。
「すまないが……」
ふと、目を開けたランバートさんは自らの懐を探り、一枚の封筒を差し出してきた。
「拘留されている間に書いたものなんだ。これをアーシャ……アルサーヌに君から渡してくれないか?」
「それはかまいませんけど、ランバートさんが直接お渡しになったほうがアルサーヌも喜ぶと……」
そう思うのに、最後まで言わないうちにランバートさんは首を緩く横に振った。その表情はやはり、悲しみが浮かんでいる。むりやり微笑もうとしているのが目に見えてわかるほど、彼の口元は歪んでいた。
「いや。彼女がこれを読むときには、君のような友人が傍にいてくれれば心強いんだ」
ランバートさんが持っている箇所がくしゃりと皺になっているのは、無意識に力が入っていて、それほどに必死なんだろうとわかった。その様子にもちろん、ユリーナには断ることはできず、手紙を受け取る。
「必ず、お渡しします」
「――― ありがとう」
厳つい顔つきの印象が薄れてしまうほど、ほっと胸をなで下ろした彼の口調は温かく、優しいものだった。
ランバートさんを彼の屋敷で降ろしたあと、ユリーナは御者に言ってアルサーヌの泊まっているホテルに向かった。
部屋を訪れると快く迎えてくれて、ランバートさんが無事に釈放されたという話をした途端、ほっと息をついてきれいな瞳を涙で潤ませた。
「よかったわっ……! 疑いははれたのね!」
青褪めていた顔にも、赤みが差してくる。それでもランバートさんの無事を聞くまで何も食べていなかったのかすっかりやせ細っていた。いっそう、儚げな雰囲気が強まり、理由を知っていても、見ているだけでうっとりとため息をつきそうになってしまう。
「ありがとう、ユリーナさん」
感謝の言葉を口にされて、ユリーナは首を振った。
「私はなにも ―― 」
それどころか、疑いがはれたというアルサーヌの言葉に頷くことができずに胸がずきりと痛む。マックスの言うことを信じるのなら、ランバートさんが子爵を殺そうとしたのは事実。それに ――
――― 殺されて当然の男だ。
胸に突き刺さった棘が痛みを深くする。
「いいえ。こうして教えてもらえなかったら、いまもまだ心配して、今夜の最終公演に立つこともできなかったわ。本当に、ありがとう」
柔らかい微笑みに慰められて、どうにか笑顔を返す。
「最終公演がすんだら、アルサーヌはどうするの?」
「そうね……。しばらくは劇団から離れてひとりで旅にでようと思うの」
「えっ、ランバートさんと一緒にじゃなくて?」
びっくりして問いかけると、アルサーヌは寂しげに微笑んだ。自らの前に置いてある紅茶の入ったカップを持ちあげ口をつける。カップを持つ手が小さく震えているのに気づいた。
「ランバート様は子爵の跡を継がれるのよ。今までのように自由ではいられないわ」
「アルサーヌ……」
コトン、とカップを置くと彼女は明るい口調で言った。
「身分違いの恋はおしまい! この経験を胸に女優は新しい一歩を踏み出すの」
にっこりと笑う。だけどその笑顔は、馬車の中でランバートが最後にむりやり微笑もうとしたものと重なって、ユリーナは切なくなった。
ユリーナ自身は祖父は侯爵で父も弁護士とはいえ、ハイデンホルムでは高名な人物ということもあって、あからさまな階級差別を受けたこともなく、逆に父はユリーナがそういう考えをもつことがないように、家庭教師などは一切つけることなく、学校に通わせたほどだ。だからこそ、身分に拘って、恋を諦めるなんてことは自分だってしたくないし ―― もし、そういう相手がいたとしてだけど ―― 友達にもそんな理由で諦めてほしくはなかった。
最初はあの厳つい顔のランバートがこの儚い雰囲気をもつ美しいアルサーヌに似合うとは思えなかったけれど、馬車での彼は確かに彼女のことを心から想っていたのが胸が痛くなるほど伝わってきた。
もしかしたらアルサーヌの気持ちを変えることができるかも、とランバートに預かった手紙をバックから取り出して、テーブルの上にそっと置く。
「ランバートさんに預かったの。あなたに渡してほしいって」
「ランバート様に?!」
驚いて目を見張り、アルサーヌは手紙をじっと見つめる。その青い目には気のせいか、ほんの少しおびえが混ざっているかのようにユリーナには思えた。
「……できれば私が一緒のときに読んでほしいって言ってたんだけど、ひとりで読みたいなら私は ―― 」
正確に言えば友人がいるときに、と言われたけれど、自分でそう口にするのは憚られ、帰る旨を伝えようとして、テーブルの上に置いている手をアルサーヌに掴まれた。
「いいえっ! 私が手紙を読むまで一緒にいて。お願いよ!」
その必死な様子に驚く。
ハッと我に返ったように、アルサーヌは冷静な表情を取り戻した。手は掴まれたままだったけれど。
安心させるために頷くと、ほっと息をついて、アルサーヌは手紙に手を伸ばした。その手はカップを持っていたときのように、小刻みに震えている。
さっきは悲しみを堪えようとしていたのに対して、今はおびえが入り交じっているような気がした。
封筒を開け、さっとその文面に目を走らせると、アルサーヌは急に顔を片手で覆った。悲しげな声でうめき、手紙をくしゃりと握りしめる。
「アルサーヌ、どうしたの? ランバートさんはなんて言ってきたの?」
「ど、どうしましょう……! なんてことなの、私のせいだわっ」
「アルサーヌ!」
動揺し、血の気の引いた顔で涙を流すアルサーヌの姿に不安を覚えて、椅子から立ち上がりテーブルをまわって彼女の傍に寄る。肩に手を置くと、縋るように見上げてきた。
「君の最後の公演で、俺は夢を終わらせる。俺の罪はもう誰に裁かれることもないだろう。すべては墓に持っていくって書いてあったの。ランバート様は自殺するつもりだわっ!」
「えっ?!」
アルサーヌの言葉に息を呑む。
だって、まさか。そんなこと ――。
警察での疑いははれたし、いくら銃殺しようとしていたといっても、証拠はないし、それに罪悪感を覚えているような態度じゃなかった。それなのに、どうして ――?
「ランバートさんを止めないと!」
アルサーヌ、行きましょう!
決然とした気持ちで彼女を引っ張っていこうとして、「待って!」と引きとめられる。訝って振り向けば、アルサーヌの瞳にも決意のこもる強い光が浮かんでいるのを見つけた。
「最後の公演でってあるってことは、今夜の公演にはきてくれるってことよ。だから、そのとき必ず私がランバート様を説得してみせるわ!」
「アルサーヌ……でも」
「大丈夫よ。ランバート様を死なせはしないわ」
これまでの儚げな微笑みとは違って、その笑顔には力強さがあった。その決意に、ユリーナは口出しすることができなくなって、代わりにその場に一緒にいさせてほしいとお願いすることにした。