■怪盗紳士からの予告状■
セルアン侯爵邸はユリーナが住んでいる屋敷から馬車で裕に1時間はかかる処にある。
ユリーナの父であるセルアン氏は、首都であるハイデンホルムから外れた場所に、祖父からひとつの屋敷を譲り受け居を構えた。首都に住まないことを訝ったユリーナが聞いた処では、『騒がしいのが嫌いなんだ』という最も彼らしい答えが返った。
更にユリーナは貴族の令嬢が通う学校でも家庭教師を雇うでもなく、一般の子供たちと教育を共にした。セルアン氏の親友である今は亡き、マックスの父もその教育方針に同意を示し、ユリーナと同じ学校に彼を預けたため、ふたりは幼馴染という道を歩いてきた。最も、ユリーナにして見ればそれは悪夢そのものでしかなかったけれど。
一方、セルアン氏の父であり、ユリーナの祖父であるその人は国の重鎮として侯爵の位を与えられていたが、今は年を取ったこともあり、引退して気ままな生活を堪能していた。けれど、様々な人たちが彼に相談を持ちかけてくるせいか、田舎暮らしをしようとの企みは阻止され、いまだ首都であるハイデンホルムの屋敷で暮らすことを余儀なくされている。
侯爵邸は彼の趣味も備わって、質素でありながら威厳を損なわない外観をしていた。働いている者たちも気さくで明るく、優しい人がほとんどでそれだけでセルアン侯爵の人望を思わせるものがあった。
馬車から降りて、ユリーナはマックスに構うことなく、慌てた様子で屋敷の中へと入った。
「お嬢様、フェネックならあちらの部屋にいますよ」
挨拶もそこそこに、ユリーナが幼い頃からこの屋敷に仕えている執事が、柔らかい微笑みを浮かべながら指差した。
ユリーナは「ありがとう!」と短くお礼を言って彼が指す部屋へと急いだ。
「フェネック!!」
テーブルの上で美味しそうに小さな受け皿からミルクを飲んでいた小動物は、名前を呼ばれてぴくり、と大きな耳を動かす。ユリーナを見つけるとフェネックは嬉しそうに走り寄った。ぴょん、とその腕の中におさまる。
「よかったわ! 無事だったのね?!」
そっと抱き上げて、その小さな顔に埋まっているグリーンの瞳を見つめながら、ほぅと安堵に息をついて言うと、フェネックも会えた喜びを表すようにふわふわとした毛に包まれている顔を甘えるようにユリーナの頬に摺り寄せた。
「別に悪いことはしてないって言っただろう。無事だった、なんてひどいよ。ユリーナ」
彼女の背後からひょい、と顔を出したマックスに、フェネックは思わず「キュル!??」と叫んで、素早くユリーナの腕の中から逃げ出すと、慌ててマックスたちがいる場所から正反対にある柱の影に身を隠した。
その様子を見て、ユリーナは知らず低い声をだす。
「…………マックス、」
「大げさだなぁ、ちょっと連れてくるときに逃げられると困るから箱に入れて開かないように周囲をテープで固めただけなのに」
肩を竦めて呑気な口調で言う彼を視線だけで射殺そうとするかのように、ユリーナは睨んだ。
「なんてことするのよ!」
だが、もちろんマックスがそんなことで堪えるはずもなく。
彼は平然とした表情で言う。
「心配しなくても、空気の穴は空けておいたよ」
「そういう問題じゃ ―――― 」
抗議しようとしたユリーナの言葉は不意に聞こえた『ゴホンッ!』という大きな咳払いに遮られた。ハッ、と我に返って振り向く。
「おじい様っ!!」
視線の先には、皺だらけの顔をくしゃりと歪ませて嬉しそうな微笑みを浮かべる老人の姿があった。
「よく来たね、ユリーナ。待っていたよ」
ユリーナはその言葉を受けて抱きつくと、頬にキスを送った。
「御機嫌は如何ですか?」
「ああ、お前の顔を見たら元気も出てくる」
ぽんぽん、と頭を撫でるように優しく叩いて言うセルアン侯爵は、普段は厳格な雰囲気を漂わせている。そんな彼の唯一の泣き所が、たった一人の孫娘であるユリーナで、目の中に入れても痛くないほどに可愛がっていた。政治から引退した彼の唯一の楽しみは、その孫娘が遊びに来てくれることだった。
「……抱きつくなら僕にすればいいのに」
ぼそり、と呟いて大きなため息をついたマックスに気づいて、ハタ。とユリーナは祖父から身体を離し、指差した。
「そういえば、おじい様っ! どうしてわざわざマックスに私を呼びに来させたんですかっ! 私が彼を嫌ってるのを知ってるでしょう?!」
可愛い孫から唐突に責められて、セルアン侯爵は困惑したように「あー、うー……」と唸り声を上げて、頬をぽりぽりとかいた。
まったくもって、そこに侯爵としての威厳などなく彼を尊敬している者たちがこの場にいれば、驚きに目を瞠っただろう。
それほど、ユリーナの勢いは凄かった。
「いいんだ、ユリーナ。侯爵が僕を使い走りにしたことを怒らなくても。君のためなら……」
口を挟んだマックスが救いになるわけでもなく、ただユリーナの怒りを煽っただけだった。
「誰も言ってないでしょ、そんなこと! わざわざ私の前にマックスが現れるようなことをしないで下さいって言ってるの!」
けれど、マックスは懲りるどころか更に爆弾発言を投下した。
「…………ひどいよ。仮にも婚約者に向かって」
軽く肩をすくめて言われた言葉に、大きく目を瞠ったユリーナがその意味を理解するまでには、いくらかの時間がかかった。
★☆★☆★
あの後、ユリーナの「なんですって?!」という叫び声を間近で聞いたセルアン侯爵はきんきんと今も響く鼓膜に堪えながら、向かい側のソファーで眉根を寄せて口元をへの字に曲げ、憤然とした表情で座っているユリーナに一枚の封筒を差し出した。
「昨日、この手紙が届いた。読んでごらん」
言われて、暫らく封筒を見ていたが、渋々とユリーナはそれを手に取った。
裏の隅に、一輪の赤い薔薇の模様がインクされている。けれど、宛名のないそれに戸惑いつつ封を開けて、二つに折り畳んで入っていた紙を取り出し広げた。
書いてある文字を追っていくうちに、ユリーナの表情が驚きに変わる。
その様子を見ていた侯爵は念のため、先程のマックスがしていたように耳を両手で塞いだ。
これ以上、鼓膜をやられては堪らない。ふと、ユリーナの隣を見ればマックスは出された珈琲を飄々とした表情で飲んでいた。
「おじい様っ! これは……! って、なにしてるんですか?」
耳を手で塞いでる侯爵に不思議そうにユリーナが聞いた。幸いにも叫ぶことのなかった孫に安堵の息をつきつつ、侯爵は慌てて「い、いや…。なんでもない」と首を横に振って曖昧に笑った。
「ああ、もう。それより、どうしてあの怪盗紳士が!?」
声をあげたユリーナは白い紙をテーブルの上に置いた。
『 予告状
某日、お披露目パーティーにて、ユリーナ嬢の身柄を頂きに参ります。
――――― 怪盗紳士』
署名されている怪盗紳士のことは、もちろんユリーナは知っていた。
最近はよく新聞の一面記事として載せられている。
お金や宝石、絵画を鮮やかな手で盗んでいく ―― いわば、泥棒なのだが、全てお金持ちや悪い噂のある商売人たちから盗んでいた。必ず予告状を出して、数多の警備人や罠をやすやすとくぐりぬけ目的の代物を盗むその様はまるで魔法を見ているようだと、書かれている記事もあり、国民にはとても人気があった。
盗みは悪いことだが、けして弱いものに手を出さないその姿に、ユリーナも少なからず好意を覚えていた。
その話題の人からの予告状に、ユリーナは首を傾けた。
「今まで彼は人を誘拐したことなんてなかったはずなのに……」
ことり、とマックスは手にしていたカップをテーブルの上に置いて言う。
「彼だなんて、まるで知ってるかのような言い方だね?」
「知らないわよ。でも新聞の記事は読んでるから……」
ムッ、とした顔でユリーナは答えた。するとマックスは「ふーん」とどうでも良さそうな声を出すと、そっぽを向いた。
それを見たユリーナが口を開こうとした瞬間。こほんっ、と侯爵が咳払いを起こした。気をそがれたユリーナは言いかけた言葉を飲み込んで、そちらへ視線を向ける。
「まあ、わしも怪盗紳士のことは新聞で知っておる。人を誘拐する話しは聞かないが、知り合いのツテで前に出された予告状と検分してもらった。結果、偽物でもないようだ」
「だったらそれが本物として、どうして私を?」
身代金目当てとしてならわかる。祖父は百万長者としても有名だから。けれど ―― 記事から知るだけだったが、ユリーナには怪盗紳士がそんなことをする人物には思えなかった。
「理由は考えてもわからん。ともかく、念を押すことには代わりがない。そこで……」
ちらり、と侯爵は呑気に外の方に顔を向けているマックスに視線を投げると、実に言いずらそうにユリーナに切り出した。
「マックス君におまえの婚約者になってもらう。ああ、待て。だから仮に、だ」
今にも喚きだしそうなユリーナに、慌てて侯爵は付け足した。
「パーティーの間、つきっきりでおまえを守ってもらうには都合がいいからな」
「自分の身は自分で守れます!」
きっぱりとユリーナは言い切った。
不意に、侯爵は悲しそうな表情を浮かべる。
「それはもちろんわかっておる。だが、心配なのだよ、ユリーナ。息子の嫁であるマリアを失って更に忘れ形見であるおまえを失うことになれば、わしは……」
言葉に詰まって俯く侯爵の目にきらり、と浮かぶものを見つけて、ユリーナは慌てて謝罪した。
「ごめんなさい、おじい様。心配してくれてるのに……」
侯爵は手の甲で涙を拭くと、改めて聞いた。
「マックス君との婚約を了解してくれるね?」
「………仮に、ということなら。パーティーが無事に終わるまでですよ?」
しっかりと念を押すユリーナに「もちろんだ」と侯爵は大きく頷いた。
渋々と、ユリーナは「それなら」と承諾する。「キュルル?」ユリーナの膝の上で大人しくしていたフェネックが心配そうに鳴いた。
★☆★☆★
フェネックを連れてユリーナが帰った後で、ソファーに向かい合い、侯爵とマックスはチェスを始めた。
黒いナイトの駒を動かしながら、ふとマックスが口を開いた。
「侯爵になるための必須項目ですか?」
「なにがだ?」
唐突な問いかけに、侯爵は聞き返した。
「泣き真似を始めとする演技一般ですよ」
ぎくり。
驚いて侯爵は駒に向けていた顔をあげる。そこには見透かすような光を宿した青い目があった。
「なにを知ってるんですか?」
ずばりと聞かれた言葉に、侯爵は眉間に皴を寄せた。
重々しい口を開く。
「わしにもわからん。ただ……、可能性の問題なんだよ、マックス君」
「確信しないと口には出来ないと?」
侯爵の言いたいことを即座に理解して、マックスは聞いた。
「すまんな……。今はあの娘を守ってくれとしか言えん」
それ以上聞き出すことは無理だと感じたマックスはひとつ息をついた。
「……報酬は?」
「婚約を仮ではなく、正式なものとするということで手を打とう」
この場にユリーナがいれば明らかな抗議にあうようなことを口にして、侯爵はにやりと笑った。
「交渉成立ですね」
マックスも微笑を浮かべて頷く。「ついでにチェックも」と続けた。