■閉幕は哀しみとともに■
ランバートの手紙とアルサーヌのことについて話そうとマックスを待ちかまえていたユリーナは、玄関先でそこにある古ぼけた時計とにらめっこをしていた。かちりかちり、と一針進むごとにユリーナの苛立ちを膨らませていく。
「お嬢様……。ここでお待ちになられなくても、マックス様がお戻りになられれば、お報せ致しますよ」
侍女が困ったように、すでに何十回となく口にした言葉をかける。けれど、ユリーナはこれまでと同じように首を振った。
「いいのっ、時間がないのよ! あと10分で帰ってこなかったらフェネックと行くんだから!」
帰ってこなかったら、とユリーナは口にするものの、元々マックスの家はここではない。ユリーナが一緒の時と、侯爵が暇を持て余し、彼を呼びつける時以外は大抵この家にいることがないのをユリーナは知らないのだろうか。
そりゃぁ、知らないわよね。
若い侍女は自分の問いかけに口の中で呟いた。
幼馴染の第六感、とそんなものがあるかはわからないけれど、余程の用事がなければマックスはユリーナが此処にいるとき、必ず姿を見せている。誰が報せたわけでもないのに。
だからユリーナはマックスの家を訪れるより、彼に用事があるときは侯爵家を訪れる。すでにそのことに疑問を抱いていない時点でどうなんだ、と思いはするが、この侯爵家において孫とその婚約者の仲に口を挟むことなかれという最優先の暗黙のルールがあり、故に賢明な侍女はけして口にすることはない。呆れながらも、一応侯爵家の孫とはいえ、お嬢様をひとりで玄関先に置いていくわけにもいかず、マックスの帰りをユリーナとは別の理由で待つ羽目になっていた。
侍女の祈りが通じたのかそれともユリーナの怒りを離れていても感じ取ったのか、ようやく、マックスが玄関に現れたのは、ユリーナが最終通告をしてから、5分が経過したところだった。
「マックス!どこいってたのよ?!」
姿を見せたとたん、つかみかからんばかりの勢いで突進してくるユリーナに、相変わらず驚くこともなく無表情で彼は言った。
「ユリーナ。せっかく出迎えてくれるなら、その般若のような顔はどうかと思うよ。一応、笑えば可愛らしくは見えないこともない ――」
「そんなこと言ってる場合じゃないの! いいから、聞いてっ!」
マックスの言葉を遮って、ユリーナはランバートの手紙の話を教えた。だから今夜行なわれるアルサーヌの最後の舞台に今から出掛けることを伝えると、マックスは暫く考え込むように黙り込んだ。
「マックス?」
「……ユリーナはその手紙を読んだ?」
青い目にじっと見つめられて、切羽詰っていた気持ちが落ち着いてくる。慎重な問いかけは、それが大事なことだと含んでいるようで、記憶を引っ張り出す。
「ううん。アルサーヌが読んで、そう書いてあるって教えてくれたのよ」
「―― なるほどね」
意味深な顔つきで頷くと、マックスはさっき通ってきたばかりの玄関に踵を返した。ユリーナは慌ててその後ろ姿を追っていく。
「ちょっと待ってよ、マックス! どこいくの?!」
そう言って呼び止めると、振り返ったマックスは呆れたように肩を竦めた。
「ユリーナが公演に行くって言ったんだろう。せっかく僕と行くために待っててくれたんだから付き合うよ」
「べっ、別に私はっ……!」
マックスの言葉に反論しようとして言葉に詰まる。確かに彼を待っていたのは事実で、一緒に行ってもらおうと思っていた。だけどそれはいざとなったときに、男であるランバートを女の力で止めるのはムリがあるかもしれないと理論的に思ったからで ――。絶対に個人的に頼りにしているかそういう理由じゃないっ。
マックスが口にしたわけでもないのに、ユリーナは頭の中でそう言い訳をする。その間に、マックスはさっさと玄関をくぐり抜けていった。
マックスに続いて出て行ったユリーナを見送った侍女は、いつになったら普段は穏やかな時間の流れる侯爵邸が平穏を取り戻すのかと相変わらずなふたりの様子に溜息をついた。
「きゅぅ……」
不意に聞こえてきた悲しげな鳴き声に気づいて、視線を下ろすと、うるうるとした瞳で見上げてくるユリーナの飼っている小動物がいた。
「あら、フェネック。結局、置いていかれたの?」
まるで言葉がわかるかのように頷く姿に憐れみが浮かんで、おいでと声をかけてキッチンに向かう。とことことついてくるフェネックは落ち込んでいるようで、励ますために言った。
「美味しいもの食べさせてあげるから、元気出してね」
「きゅるる〜♪」
たちまち目を輝かせ、明るい声をだすフェネックに、やっぱり動物は単純でいいわね、と侍女はにっこりと笑って見せた。
・・・☆・・・
会場に着いたユリーナとマックスは早速、アルサーヌの楽屋を訪れた。
出迎えてくれた彼女は、いつもの儚げな雰囲気から一転して、自信に溢れた空気を纏っている。強い光を浮かべた瞳や、凛とした立ち姿、華やかな衣装を着ているせいか、ユリーナはいつものアルサーヌとは別人のような印象を受けた。そのことにわずかに戸惑いながらも、それが女優としての仕事なのだから当然なのかもしれないと思い直す。
「ユリーナさん?」
「あっ、なんでもないわ! それより、ランバートさんはきてないの?」
アルサーヌに怪訝そうな顔をされて、ユリーナは我に返った。そんなことよりも、大事なのは彼の自殺を止めること ―― 。けれど、彼女は悲しげに顔を曇らせて、首を振った。
その言葉に、部屋の片隅にある時計を見る。すでに開場は始まっていて、開演時間まで15分もなく、そろそろユリーナたちも席に向かわなければならない。
「ぎりぎりになってから来るつもりかもしれないわね」
あの手紙を最後にして、アルサーヌと話すつもりがないのならランバートさんがそうする可能性は高い。開演が始まってしまえば、アルサーヌは舞台があるし、ユリーナたちだって席を立つわけにはいかなくなる。
「それはどうかな?」
何気ない口調でふたりの会話に口を挟んだのは、楽屋の扉に背中を預け、沈黙を守っていたマックスだった。彼は呑気な口調でそう言うと、扉から離れてユリーナのもとに歩み寄った。
「どういうこと?」
「ランバート氏が来る前に種明かしをしようか。アルサーヌ。ロッド子爵を殺したのは君だ」
さらりと告げられた言葉が理解するのに時間がかかって、その意味がわかった瞬間、ユリーナは息を呑んだ。
「っ、何言ってるのよ!」
冗談にしては性質が悪すぎる。
怒りを漲らせているユリーナを一瞬見て、マックスはすぐにその視線をアルサーヌに向けた。呆然とした顔つきで見上げてくる青い目は正しく、困惑に揺らいでいる。それを見返しながらマックスは先を続けた。
「あの男は、貴族の中では所謂男色で有名だったから妻がいるはずなく、だとしたらランバート氏は養子だろう。そこで少し調べさせてもらったんだ」
養子……。
思いもがけない言葉にユリーナは戸惑った。彼が子爵を憎んでいた理由もそこにあるのかもしれない。それにしても、相変わらず貴族事情に詳しいマックスには驚かされる。
「ランバート氏はハイデンホルムの東端にある孤児院にいたね。勿論、君も」
「……そうよ。彼とは一緒にあの孤児院で育ったの。5歳のときにランバート様はロッド子爵に養子としてもらわれていったわ。そして私は孤児院を抜け出してひとり劇団に潜り込んだのよ。最初は下働きだった」
マックスの言葉をあっさりと認めて、過去を思い出すようにアルサーヌは目を細めたが、ユリーナはそこに懐かしさよりも、憎悪を感じさせるものを見つけた。表情は寂しさを装っているけれど、目に浮かぶものだけは隠せない。子どもの頃から苦労してきたのなら、過去を思い出すことはきっと、つらいはず。そう思うと、今のアルサーヌの成功はユリーナには想像することもできないほどの苦しみが存在していたのだと、胸が痛んだ。このハイデンホルムで孤児が成功する例が僅かだということは知っているから。
「勿論、私は下働きで終わる気はなかったわ。こっそり演技の練習もしていたの。そんなとき、ランバート様と再会をして、恋に落ちてしまったのよ」
やわらかい微笑みを浮かべてアルサーヌが言う。それまで瞳にあった憎悪は一気に払拭され、優しい光が煌いていた。ユリーナはいつのまにか緊張で手を握り締めていたらしく、気づいてほっと緩めた。けれど、マックスが胡乱な眼差しをアルサーヌに向けているのを見て、彼女がロッド子爵を殺したと疑っていないのを悟った。マックスが1度口にした言葉を覆すわけがない。
ユリーナが視線を向けていることに気づいているはずなのに、マックスはただじっとアルサーヌを見ていた。まるで、ユリーナに視線を向けることを恐れているかのように。
恋に落ちたね、とマックスは低く冷たい口調で呟く。次の瞬間には、いつものように他者に向ける笑顔をにっこりと浮かべた。
「都合のいい解釈だね。客観的な立場から言わせてもらうと、恋に落ちたんじゃなく、いい機会だと思ったんだろう。ランバート氏がロッド子爵の跡を継げば、望むものすべてが手に入る。子爵が後ろ盾となれば、有名なクレアート劇団での主演女優の地位も確固たるものになり、そのうえ、莫大な金も自由にできる。そう考えて、あなたはロッド子爵を殺すことにした」
淡々と喋るマックスを信じられないとばかりにアルサーヌは目を見開く。驚愕に染まる顔はマックスの言葉を否定しているかのようだった。それでもマックスは彼女が言葉を口にするより先に喋り続ける。
「あなたは劇場でロッド子爵に毒薬を飲ませた。劇団員だからね、子爵に飲み物を勧めるくらい容易かっただろう? ところが、その事実にランバート氏は気づいた。彼はあなたを庇うためにたまたま男爵が銃を持っていることを知って、利用したんだ」
男爵が自らコトを起こせるくらい度胸があればまだしも、彼は臆病者だったからね。それがわかっていたランバート氏は睡眠薬を飲ませ、すべての疑惑を男爵に向けようとした。たとえ、毒薬のことがばれても、次の疑いはランバート自身に向く。誰もアルサーヌと結びつけて考える者はいない。
マックスが一息に告げると、それまで黙って聞いていたアルサーヌは苦笑いを浮かべた。困惑したように眉を顰めて言う。
「驚いたわ。ユリーナさんの婚約者はとても想像力が豊かなんですね」
その言葉の端々にアルサーヌらしからぬ嘲笑の響きがあるように感じて、ユリーナは思わずムッとした。
マックスが想像で誰かを犯人扱いするようなことを口にするはずない。彼の中ではきちんとした理論が成り立っているし、証拠だって見つけているに違いない。ユリーナはそれを疑ってもいなかった。だけど、アルサーヌだって友達だ。
―― 少なくとも、ユリーナはそう思ってる。
「アルサーヌ……」
「さぁ、もうすぐ開演の時間です。ユリーナさんたちも席に戻ってください」
アルサーヌはスッと椅子から立ち上がり、ユリーナたちを部屋から追い出すように楽屋の扉を開けようとし ―― その動きをじっと眺めていたマックスは突きつけるように言った。
「あなたはわかってるはずだ。ランバート氏の手紙の内容に込められた意図は自殺なんかじゃない」
ピタリ、とアルサーヌの歩みが止まった。
ユリーナも驚いて、マックスを見る。じゃあ、どういうことなのかと問いかけようとして、アルサーヌの声に遮られた。
「―― わからないわ。どうしてあなたはそこまで首を突っ込むの?」
背中を向けたままのアルサーヌがどんな表情をしているのかは見えない。だけどその口調は今までユリーナが接していた彼女が発するものとは思えない、冷たさを帯びた響きがあった。
「最初にユリーナを巻き込むからだよ。ユリーナが事件をかき回しているうちに、逃げようとしたんだろうけどね。僕は基本的に彼女を利用されるのは嫌なんだ」
「ちょっ、マックス?!」
「ほんとうに ――」
聞き逃すことができないマックスの言葉に抗議しようとしたユリーナだったが、ふとアルサーヌの強い含みのある声が聞こえてきて、ハッと彼女に視線を戻した。
扉の取っ手から手を放して、ゆっくりとした動きで振り向いたアルサーヌの顔は優しさの欠片もなく苦々しい表情が浮かんでいた。頼りなく、儚げだった雰囲気は拭い去られ、今にも飛び掛ってきそうな鋭い空気が放たれていた。
マックスは警戒するように、ユリーナの前に佇む。
「最後まで騙されたままでいてくれたなら、よかったのに」
それまでは隠そうとしていた嘲笑を明らかに含んで、アルサーヌが言う。
ユリーナは鋭い刃物で胸を貫かれたような痛みを覚えた。
「待って、アルサーヌ! マックスが言ったことは……」
「ええ。残念ながら事実よ。あなたに出会ったときも丁度いいと思ったの。好奇心一杯のおバカなお金持ちのお嬢さんが事件を引っ掻き回している間に、私は最終公演を終えて主演女優という素晴らしい地位と有り余るほどのお金を手にして、世界を飛び回ることができるって。権力もお金も手に入るの。あんな薄汚い孤児院を思い出すこともなく、この貴族優位なハイデンホルムからも抜け出せる。もう二度と私を蔑む者はいなくなり、私は全てを手に入れられるわ」
アルサーヌの目はきつくつり上がり、目には鋭い光が宿っていた。今までユリーナが見てきたアルサーヌとは別人のような姿に、心が凍り付いていく。脳裏には、ランバートを想って不安で涙する彼女の顔が浮かんだ。
「じゃあ、ランバートさんは……」
「あの男もバカよね。最後まで私のために踊っていれば良かったのに、今になって私を突き放そうとするなんて。あの手紙はつまり、今夜の公演を最後にもう二度と私に会う気はないってだけの、ただの別れの手紙。彼が自殺するって言ったのは嘘よ」
肩を竦めて、呆れたように言うアルサーヌは更にもう一度、バカよね、と吐き捨てた。それに同意するようにマックスが頷く。
「まったくだ。君の計画の中には彼を殺すことまであったのに、気づきもしないで、君を庇い、更に君の殺人を墓場まで ―― つまり、死ぬまで秘密にしようとするなんてね」
「なんですって?!」
アルサーヌがランバートまで殺そうとしていたという事実に衝撃を受ける。驚きに目を見張るユリーナとは裏腹に、アルサーヌは当然のような顔つきをして笑った。
「だってそうしないと、お金が私の手に入らないでしょう? ユリーナさんを証人に、あの男を殺して自殺を装うつもりでいたけれど、いいわ、どうせ証拠はないんだもの。どっちにしても私は今夜の公演で主演女優の地位を ――」
彼女がそこまで口にしたとき、ギィと微かな物音を立てて、楽屋の扉が開いた。
「アルサーヌ……」
そこに佇んでいたのは、血の気を失い、愕然とした表情を浮かべたランバートだった。
「ランバート?!」
アルサーヌにとっても意外だったのか振り向いて彼の姿を認めると、驚き、扉から後退さった。ランバートは楽屋に足を踏み入れて、アルサーヌに対峙し、厳しい表情で問い詰める。
「…………君は俺まで殺すつもりだったのか?!」
驚愕を飲み込んで、アルサーヌはクスリ、と愉しげな笑みを零した。
「所詮、世の中はお金と権力よ。忘れたの? あの孤児院での生活を。あんな悲惨な日々が自分の過去だなんて認めたくなんてなかったわ。だけどあなたは子爵にもらわれて、食べるに困らない幸せな日々を送っていた。再会したとき、あなたが子爵の後継ぎだと知って私があなたに感じたのは恨み、そして憎しみだけだったわよ」
冷たい言葉は、ユリーナの心に突き刺さる。思わず、前に佇むマックスの袖を掴んでいた。それに気づいたマックスがびくりと身体を震わせたのをユリーナは間違えようもなくわかってしまった。怪訝に思って、彼の顔を見ようと動こうとし、ランバートの感情を抑えた声が聞こえてきた。
「君はっ、君は……知らないんだ! 子爵にもらわれたからって、幸せだったはずないだろう。毎日、毎晩、悪夢そのものの日々だった。君が子爵を殺してくれてほっとしたよ。だから全力で庇おうと思った。それで君が幸せになれるのなら。それなのに ――っ?!」
ハッ、とその場にいる全員が息を呑んだ。といっても、ユリーナには緊張感が室内を一気に支配したことがわかっただけで、マックスに庇われているため、何が起こっているまでは見えなかった。
「……マックス?」
彼の後ろから顔を出して覗き見ようとすると、マックスは更に警戒してユリーナを護るように腕の中に引き込んだ。そのほんの一瞬、アルサーヌの手にきらりと光り煌くものを見た気がして、慌ててマックスの腕を避ける。
「ユリーナ!」
珍しいマックスの咎める声を聞きながらも、ユリーナはアルサーヌが短剣を握っているのを見つけて、息を呑んだ。躊躇う気配もなく、その切っ先をランバートに向けている。鋭い目で睨みつけられたランバートは目の前の光景が信じられないのか、凍りついたように動きを止めていた。
「幸せ?! あなたに何がわかるって言うのよ! せっかくここまで上り詰めてきたっていうのに!」
「アルサーヌ! だめっ!」
反射的に叫んで、飛び出そうとしたユリーナを咄嗟にマックスが受け止める。
「ユリーナっ、危ないっ!!」
「やめろっ、アルサーヌ!」
ランバートが短剣の柄を持つアルサーヌの手首を押さえつける。だが、彼女は全力でそれに抵抗しようともがき、振り回す。
「私のために、どうか死んで頂戴!」
「アルサーヌ!」
止めようとするランバートと決死の形相で立ち向かうアルサーヌが取っ組み合う。ふたりの間に入ろうとしても、下手をすると巻き込まれてしまう危険性があり、マックスもユリーナも動けなかった。だが、それもぐさりと、鈍い音が鳴って ――。
「……あっ、あぁ」
絶望の声が上がり、ふたりが離れる。
アルサーヌの持っていた短剣の切っ先は深く、彼女の胸に突き刺さっていた。
「ア、アーシャ?!」
ランバートの顔が歪み、慌てて剣を抜こうとしたけれど、アルサーヌの手によって、それは振り払われた。ふらり、と彼女がよろめく。
「アルサーヌ!」
ユリーナが慌てて駆け寄って、床に倒れようとしたアルサーヌを受け止める。それでも女性の力では限界があって、倒れるように、ユリーナも床にしゃがみこんでしまった。彼女の上半身を膝に乗せて、顔を覗き込む。
「待って、いま、お医者様をっ!」
「いいのよ!」
助けを求めようとしたユリーナや動こうとしたマックスとランバートを引き止めるように、アルサーヌが叫んだ。
「……どうして」
ユリーナが戸惑った表情をすると、アルサーヌは自嘲するように顔を歪めた。青い、その目はユリーナを映し出してはいない。遠く、懐かしいものを探そうとしている目だった。
「血の繋がった人間も、他人も、所詮私はだれひとり、信じてなんていなかったわ。ランバートに再会してから、違う。もっと、前ね、孤児院を出たときから私は惨めな生活を捨て、すべてを手に入れるために演技をすることにしたの……」
ランバートが羨ましかった。子爵という地位、財産。同じ孤児院の子どもなのに。いつか一緒に出ようと言ったのに。彼は私を捨て、子爵にもらわれて、私は ―― 。だからかしら。彼に再会したとき、欲がわきでてきた。彼を騙して、全てを私が手に入れられれば、孤児で惨めな私から抜け出せるって。
―――― ほんとうに、バカだったのは私よね。
「アルサーヌ……」
ユリーナの瞳から、涙が溢れ出していた。頬を伝って、アルサーヌの頬に落ちていく。
それに気づいたアルサーヌは目を瞬かせ、ユリーナの頬に手を伸ばした。
「……ほんの少し羨ましかった気がするわ。あなたみたいに、守ってくれる人がずっと傍にいてくれたらって……わたし、そう、ね。いつも、だれかをうらやんでばっかりいたわ。そんな自分がきらいだった。だから、演じたのかもしれない。だれかを心から愛することができる、しあわせな、女性を……ほんとうに、ばか……よ、ね……」
力なく、アルサーヌの手が滑り落ちていく。
「アーシャ!」
「アルサーヌ!!」
ランバートとユリーナが呼ぶ声を聞きながら、アルサーヌは微かに幸せそうに唇を緩めて微笑み、ゆっくりと瞼を閉ざした。