■猫被りたちの会合■
ハイデンホルムは今日もいい天気だな、と目映く照りつけてくる太陽の光を阻むように帽子のツバを落とす。橋の下では緩やかにその光を受けて煌めく河が流れていた。
マックスはアルサーヌの墓に向かうというユリーナに、ここで待ってるから、と桟橋で足を止めて一旦、彼女を見送った。
今朝読んだ新聞によると、クレアート劇団の主演女優は不慮の事故で亡くなったとだけ書かれてあった。恐らく、ランバートが手を回した結果だろう。皮肉にもアルサーヌはあんなに忌み嫌っていた貴族社会によって名誉が守られたことになる。そう感想を述べたら、ユリーナに「あんたってほんと、デリカシーないわね!」と怒られたが、いまだマックスはその理由を見つけるに至っておらず、いつだってユリーナの思考は一般的思考の持ち主であるマックスには及びもつかないため、すでにその方面で追求するのは放棄していた。
「あのとき、劇場で僕がユリーナと間違えて手を握った女はあんたの部下かなんかだろ」
ふと、隣で同じように河を眺める男の気配に気づいておもむろにそう問いかける。暫く間があって、聞こえてきたのは返事ではなく、深い溜息だった。
「……やっぱり気づいてたんですね。彼女はあれでもスリのプロだったんですよ。あなたに心を奪われてしまったようですが」
混乱に乗じて取り返せればと思ったんですがね、と悔しそうでもなく肩を竦めて応じる男 ―― レイモンドにマックスはつまらなそうな口調で言う。
「上流階級の女にしては手が荒れてた。最初はただの懐ねらいかと思ったけど、すぐあんたがでてきたから忘れモノを取りに来たんだとわかったよ」
まったく、と珍しくマックスは嫌そうに眉を顰めた。
変な手出しをしてこなければ、ユリーナの手を放すこともなかったし、ともすればアルサーヌに会うこともなかった。
そう思う一方で、ユリーナはどうしたってトラブルを招かざるえない性分だから結局、この結末は変わらなかったかもしれない。マックスはいつだって、ユリーナの心が二度と立ち直れないような傷を受けないかが心配だった。
「それで、嫌がらせですか」
あの孤児院で残され、老女の相手をさせられたことを思い出したのか、レイモンドも珍しく嫌そうに眉を顰め、苦々しい口調で言った。
―― となると、レイモンドがつきまとうまま、放置していたのはその機会を狙っていたからということだ。
「相変わらず、あなたの猫かぶりには驚かされますね」
「ユリーナは化け猫以外の動物はなんでも、好きだよ」
「誰が化け猫ですか!」
あんたに決まってる、と言葉で突きつけられるより、向けられた青い目が雄弁にマックスの心情を語っていた。
どうも、彼が相手だと話がずれていく、と気づかされたレイモンドはこほん、とわざとらしい咳払いをして気持ちを落ち着かせる。だが、その次の瞬間、マックスが口にした言葉に再び、息を飲む。
「ついでに男爵を唆し、銃を持たせて子爵もろとも貴族界から遠ざけるために犯罪者にする予定だったんだろう。対王室派の子爵と男爵を葬り、ランバート氏に後を継がせて引き込む、なかなか面白い陰謀だったが穴だらけだな」
あまりにもあっけらかんとした口調だったので、レイモンドは返す言葉を失った。
そんな彼をちらりと見て、マックスは気のない素振りで光の反射する水面に視線を向ける。ゆらりと映る自分の顔がどんな表情をしているのかはわからず、眉を顰める。ユリーナが傍にいないだけで、こんなにも心が波立ってしまうとは思わなかった。
「……それについてはノーコメントです」
流石に怪盗紳士と名乗るだけあって、レイモンドはすぐに気を取り直したのか、幾分か冷静な口調で言う。
マックスは自分の気持ちから視線を逸らすように、目の前の話題に意識を戻した。
「なんだ、あまりに陳腐な企てだったからわざとひけらかしてるんだと思ってたよ」
それは最初からわかっていた。歯車がかみ合って、結局はレイモンドの思惑通り事は動いたし、結果には満足している。だがその過程はなかなかどうして、不安要素盛り沢山となり、アルサーヌの件だけならまだしも、飛び入り参加のユリーナのお節介 ――好奇心もとい、親切にはレイモンドも立場上、シナリオ通りに運ぶのは困難になった。下手に踏み込んできたユリーナを陰謀の渦中に引きずり込むのは気が咎めたからだ。
「罠は完璧だったんですがね。どうも人材の選抜に問題があったようです」
「途中、アルサーヌのことに気づき、結局そっちは成すがまま任せて、僕があんたの忘れモノを持っていないことを知ったあんたは、その間に屋敷探しでもしてたんだろう? 忘れモノは見つけたのか?」
そこで初めて、レイモンドは苦々しく表情を歪めた。絶対に、マックスはその答えを知っていて訊いたのだと見透かしたのだろう。返事を誤魔化されるかと思ったが、意外にもレイモンドは首を振り、何度目かになる同じ問いをマックスに投げかけてきた。
「あなたと侯爵家、ユリーナ嬢のお屋敷全てを探索しましたが見つかりませんでした。本当に、落としたんですか?」
「僕は嘘はつかないよ」
即座に切り返した言葉は、真実がこもっているとは信じられなかったのか、レイモンドは胡乱な眼差しをマックスに投げかけてくる。
「それがあやしいんですよ、あなたの場合」
不意に思い立って、マックスは身体を動かし、レイモンドと対峙した。青く澄んだ目を彼に向ける。
「 ―――― ヒントをやろうか?」
レイモンドは驚いたように、けれどどこか呆れたように言う。
「知らないんじゃなかったんですか?」
「落とした、その後の行方を知らないとは言ってないだろう」
当然のように言われた言葉に、レイモンドは腹立たしく思うよりも、やっぱりと納得する気持ちが大きくわきあがった。促がすように、マックスの感情が欠片も浮かんでいない目を見返す。
「代わりに、ユリーナをどうするつもりなのか知りたい、と言ったら?」
―― なるほど。
思わず緩みそうになる唇を意識して引き締め、レイモンドは肩を竦める。答えない、という選択権は残念ながら今の彼にはなかった。だが、勿論この場所で、マックスを相手に全てを明かすつもりはないらしく、不敵な笑みを見せた。
「本来、彼女はあなたが声をかけることすらできない存在ですよ、……と言ったら?」
同じような文句を返してきたレイモンドを暫くじっと見返していたが、やがてマックスは再び河に視線を戻してぽつりと零した。
「小さな動物は光るものが好きなんだ」
「……それがヒントなんですか?」
呆れるレイモンドとの会話に興味を失くしたのか、マックスは沈黙を守り、光揺らめく水面を静かに眺めた。
ユリーナはアルサーヌのお墓を探して、ふと足を止めた。
先客がいる。
「ランバートさん」
声をかけても、彼はアルサーヌと彫られた墓石から視線を動かすことがなく、ただ静かに佇んでいた。墓前にはきれいな百合の花束が置かれている。その隣にユリーナも持ってきた花束を置いた。
「……アルサーヌが好きな花でね」
そうですか、とユリーナは小さく頷いた。
風が緩やかに流れて、ユリーナの髪を揺らしていく。やがて、堪えきれない感情を吐き出すように、ランバートは告白した。
「私たちは血の繋がった、姉弟だったんだ」
「 ―― っ?!」
驚いてランバートを仰ぎ見るものの、彼はやはり穏やかな目を墓石に向けているだけだった。
「だから私を殺せば、彼女にお金が入る、そう思ったんだろう」
恨んだ、そして憎んでた。
アルサーヌの言葉が思い浮かぶ。血の繋がった一方がお金も地位も手に入れて、一方は下働きの惨めな存在だったということが、更にそれを増長させたのかもしれない。
「君と出会ったときにアルサーヌが言っていただろう。血の繋がる人間より信じられる他人だっている、と。あれは、彼女の本心だったんだろうな」
全てが演技の中で、アルサーヌの本心も混ざっていたのかもしれない。
ユリーナは、誰も信じられなかった、と言われたけれど、本当はアルサーヌは誰かを信じたかったのだと、そんな気がした。
「……私には、アルサーヌのバカよね、って言葉は私を許してねって言っていたように聞こえていたんです」
彼女が最後に真実を明らかにしたときに何回か繰り返していた言葉。ユリーナにはアルサーヌが泣きながらそう言っているように思えた。だからかもしれない。ユリーナ自身はアルサーヌに騙されていたなんて思えない。彼女がユリーナに接していた態度も、ランバートを心配していた姿も、演技に隠されてしまった本音もあったような気がする。それがユリーナの思い込みだったとしても、アルサーヌを友人だと思う気持ちは今も変わらない。
「そうだとするなら、彼女は……。アーシャは最後に君のような友人をもてて幸せだったのかもしれないな」
ユリーナは最期のときの彼女の顔を思い出す。
―― そうだったら、いいと思う。
浮かべた彼女の笑顔を緩やかに流れていく風に託して、ユリーナは明るい口調でランバートに問いかけた。
「これから、どうするんですか?」
これまでの憂いを拭い去ったように、吹っ切れた表情でランバートは初めて、ユリーナを見た。その瞳には決心のこもった光がある。
「ハイデンホルムの孤児院の援助をしていく。勿論、私と彼女がいた孤児院は廃止して、きちんとした形での施設を作ろうと思う。孤児の子供たちが気兼ねなく夢を追いかけることができるような居場所を作ってみせるよ」
この貴族社会が根付いたハイデンホルムではそれは困難なことかもしれない。だけど、ランバートなら諦めることなくやり遂げるだろうと、ユリーナは思った。
そのために、何かあったら侯爵や父に相談するよう約束して、ユリーナはランバートに別れを告げた。