■罪を抱えた貴族たち■
――問題でもあるのか。
ディナーが終わり、ユリーナたちが帰った後、書斎に招かれた公爵は目の前で不機嫌そうにしている古い幼馴染に苦笑いを零した。
仕掛けたのはこちら側とはいえ、相手が侯爵ひとりなら見事に返り討ちにあっただろう。幼馴染とはいえ、同じ年代であるから、仲がよかったというよりも何かと張り合っていたが勝てた試しは一度としてなかった。若い頃から頭が良く、狡猾で器用、常に先見の目がある彼に野心があれば、公爵まで容易く戴けたというのに、なぜかこの男は親から譲り受けた侯爵の地位で留まった。それでも、あらゆる分野で成功を収め、百万長者になり、貴族社会でもなにかと頼られ、人脈もある。その男が見せる初めてと言ってもいいほどの感情露わな態度に興味がそそられる。問いかけた言葉にそれが滲みでてしまったことも仕方ない。
じろり、と睨まれて真面目な顔を作ることさえかなりの苦労が強いられているのに、隣に座った妻は飄々と受け流し楽しげに目を細めて彼を見ていた。
「頼まれたのか?」
最初の質問を無視して忌々しげに問いかけられ、今更隠す必要もないと判断し、うなずく。
「だが、本人にではないぞ。それよりもっと性質が悪い男がいてな。招いてほしいと言われた。普段ならおまえの味方をするところなんだが、ちょっと重箱の隅をつつかれてしまって断りきれんかった」
「なんだ、おまえ悪いことでもしおったか?」
意外そうに眉をあげられる。いまだ皺は深く刻まれているが、瞳は好奇心に煌き、身を乗り出してくる。先日の思わぬ取り引きを持ちかけられたことを思い出して苦い思いが浮かんだ。
「わしではない。不肖の息子がひとり、しでかした。わしの知らぬところで反王室派と話していたらしい。そこを突き止められて、証拠を取られてな。今のところ、大目に見てわしの監視を条件に見逃されておる。もうひとつの条件がおぬしの孫娘をカレーナ領の城に誘えということだった」
「ばらしてよいのか?」
素直に白状すると、警戒心を見せるように眉を顰めて剣呑な視線を向けてくる。それに応じたのは、沈黙を守っていた妻だった。手にしている扇を口元に当てながら穏やかな口調で言う。
「――罪悪感ですわ」
ハッと侯爵が息を呑む。張り詰めた空気が部屋の中を支配する。そのなかで、妻は悲しげにふっと目を伏せて続けた。
「あの時、私は――いいえ、だれひとりとして、どうすることもできませんでした。それどころか、彼女にとっては幸せだろうとさえ、傲慢にも思っていましたわ。今は、とても後悔しております。大きな歪みを作ってしまいました。ですが、あの子たちにはなにも罪はありません。だから会わせてさし上げたいのです。それが侯爵の意図とは違うとしても、許されなくても。正直に言うのは、あなたに罪悪感を持ちたくないからですわ。息子のためにも条件をはねつけることはできませんが、侯爵にもこれ以上、憎まれたくありませんの」
しんみりとした口調は嘘偽りなく、真摯に部屋の中に響く。
目を逸らさず見つめ返す妻とわしに、深く背もたれにもたれかかり、侯爵は胸に溜め込んでいる複雑な想いを吐き出すように息をついた。眉間に手を置いて、それ以上の話題を続けることを拒否するように、それにしても、と話を逸らす。
「おまえたちの息子も反王室派なのか……」
彼の想いを汲んで、逸らされた話に乗ることにした。
「あのことがあってから、貴族たちの心は現国王から随分と離れてしまった。いや、はっきりいって、王室そのものの威厳が落ちてしまったと感じておる」
おまえもそうだろう、と含んだ物言いに、侯爵は苦い笑みを浮かべる。手を組んで、公務のときはいつもそうだったように、重々しい口調で言った。
「貴族と王室による力関係の均衡はどちらに傾いてもいかん。厄介なほどに切っても、きれん関係じゃ。このまま、貴族の勢力が上回っても、困るだろう」
「ああ……。だからこそ、次に期待しておるんだが、どうも覚悟が決まらんみたいで困っとる」
それはそれで問題はあるな、と互いに思いながらも口に出せず、重い沈黙が漂った。だが、察しのいい侯爵は苦りきった顔で口を開いた。
「そのための、ユリーナというわけだ」
「なにが変わるかはわからん。じゃが、あの娘を見ていると、何かが変わるかもしれん」
ディナーの席で見た少女の姿を思い出す。明るくて優しい、素直な娘だった。貴族の令嬢にはない、純粋なものを持っている。今はもう、名前を出すことさえ禁忌とされてる娘にそっくりで――。
「ほんとうに――似ていますわね」
思っていたことと同じ言葉を妻がひどく懐かしそうな表情で言った。
「……あの娘も気が強かったが、ユリーナはそれ以上での」
過去に彼女について語ったときの――いや、自分の息子との子どもならそれ以上の慈しみが込められていることがわかる。
「ユリーナにとっても、真実を知ることは必要であろう」
それがどんなにつらいものでも、本人達には真実を知る権利がある。それを周囲が隠そうとするのは傲慢なのかもしれない。
「ユリーナさんのことは任せてください。私が責任を持ってお預かりしますわ」
毅然とした態度で言う妻に対して、侯爵は複雑そうな表情を宿した。見つめ合うふたりに、思わず咳払いを起こす。
「こらこら、おまえたち……」
胸に沸き起こった忌々しさを誤魔化すために苦笑して見せたら、悪戯っぽく侯爵の目が煌き、妻は楽しげに微笑んだ。どうやら、からかわれたらしいと気づいて、溜息を零す。困ったものだ。
「なんじゃ、おまえ。まだ彼女がわしを好きだと思っているのか?」
「まったくですわ。もう何十年と昔のことですし、私はまったく相手にされませんでしたのに」
ほほほ、と過去の恋愛を他人事のように曝け出す妻の様子に胸を撫で下ろしながら、それでも素直に笑い合うには苦々しい過去で、ふんっと顔を背ける。過去とはいえ、妻が侯爵を好きだった事実は変えようがないものだ。
「なんとでもいえ」
不貞腐れて返すと、呆れたような笑いがふたりから聞こえてくる。散々からかった後で、やがて気持ちを切り替えるように真剣な表情を侯爵が見せたことに気づいて、同じように真面目な顔を作った。
「とりあえず、ユリーナのことは頼んだぞ」
何十年という付き合いの中で、初めてといってもいい、真剣な頼まれごとに、熱い胸の疼きを感じながら「もちろんだ」と頷き返した。
◇
ハルミナ公爵が帰った後、再び書斎に訪れた客―というわりには、侯爵邸を我が家のように訪れているが―を、侯爵は苦虫を潰したような顔つきで迎えた。先ほどまで公爵が座っていた椅子に勧めて、本来であれば食堂で問い詰めたかった質問を投げかける。
「なぜ、ユリーナにカレーナ領に行くよう、勧めたんじゃ?」
そう訊かれることがわかっていたかのように、冷静な態度を崩すことなく、マックスは肩をすくめた。
「ユリーナにとっていい機会だと思ったらからですよ」
さりげない動きで、書斎机に置かれた自分の分のカップをソーサごと手に取り、淹れたての珈琲を優雅な動きで飲んだ。容姿もさることながら、あのハルミナ夫人が見惚れるだけあって所作ひとつ隙がない。ユリーナに言わせると、性格ですべての長所は覆されるらしいが。全くその通り、と侯爵が内心で同意していることは秘密である。こっそり、二人を応援している身では、ばれるわけにはいかない。
カップを置いたマックスが次に発した言葉は侯爵自身にとっても思いがけないものだった。
「僕は、ユリーナの選択を尊重したいんです。それがどんな答えであっても」
驚きのあまり、自らの持つカップを無意識のうちに戻していた。カチャンと大きな音が部屋の中に鳴る。じっと見つめてくる感情のない青い目に捕らわれてしまいそうになって、息を呑んだ。貴族として生きてきた自分がこんなにも驚かされ、動揺を露わにするのは数少なく。いくら能力は認めているとはいえ、未成年である彼に動揺させられるとは思いもしなかった。だからこそ、うまく包み隠すことも忘れて率直な言葉が口をついてでていた。
「君は……知っているのかね?」
「いくつかの事実を繋ぎ合わせた結果です。怪盗紳士の予告状がきたとき、あなたは可能性の問題だと仰った。当然、僕はそれが何の可能性か興味を持った。そこで、怪盗紳士です。それはあくまであの男の裏の職業でしかない。探ろうとした矢先、幸運にもあの男がある指輪を忘れていってくれたんですよ。王室の、それも特殊な家柄だけが持つことのできる指輪を」
含まれた意図を察し、焦りを覚えながらも顔はつとめて平静を装う。たとえ、すべてを目の前の青年が把握していようとも、自ら暴露するわけにはいかない。口に出してしまえば、それは事実となり、願っていた未来を奪いかねない武器になってしまう。
椅子ごと、身体を横に向け、手を組んで目を閉じた。しかし、怯むことなくマックスは先を続ける。
「怪盗紳士の記事を読む限りでは、これまで対王室派に関わる者たちのところに盗みには入っても、なんら関係のない人間を誘拐するなんてまずありえない。怪盗紳士―指輪―王室―ユリーナ。最初はユリーナが王室の人間かと疑ったけれど、彼女の外見はどう見たってセルアン氏にそっくりだ。それなのにどうしてユリーナに執着を? そこですべての疑問がとけました。ユリーナには」
「やめなさいっ!」
かつてないほど饒舌に推理を展開するマックスの言葉に、思わず厳しい声をだしていた。
与えられている材料は少ないはずなのに、見出された答えは揺るぎのないものだと、彼の目を見ればわかる。けれど、それが変えられるはずのない真実であっても、口にさせたくはなかった。どんなに時が過ぎようとも、心は認めたくないのだ。今もまだ、少女の絶望を叫ぶ声が脳裏に容易くよみがえる。彼女が求めた二度とも、救えなかった事実が胸を苦しめる。なにひとつ本当の意味で助けることができなかった後悔は、あれからどんなに穏やかな日々を重ねようとも、色褪せることなく心の奥に燻り続けていた。それを表に曝け出そうとする者はたとえ、お気に入りの青年であろうと、愛する孫娘の婚約者であろうとも、許せるものじゃない。
組んだ手をそのまま持ち上げ、親指で眉間をもみながら、彼が辿り着いた答えを肯定することなく、なぜ、と話を逸らす。
「なぜ、君はそんなことを持ち出すんだ? たとえ、君の推論が正しいものだとしても、胸に秘めて黙っていればいい。言っていい事と、悪いことの区別をつけることも、貴族としての基本じゃないかね」
「 ――――僕は貴族じゃありません」
それまで淡々と喋っていた彼の、声音がひどく冷たいものに変わる。
ハッと目を向けると、第三者の前ではいつも何かを誤魔化すように浮かべている笑みはなく、青い目はなんの感情も映し出さないまま、射抜くような視線を注いできていた。
「どういう……」
「口約束だけでしたが、一応筋は通しておこうと思って。ユリーナとの婚約はなかったことにしてください」
きっぱりと断言する口調は、冗談を一切切り捨てたもので、侯爵はざっと一瞬で血の気が引くのを感じた。
「本気で言っておるのか? ユリーナになんて言うつもりなんだ?」
マックスは椅子から立ち上がり、侯爵の後ろにある窓に視線を向けた。しかし、それも一時で、侯爵に意識を戻すと、彼はにっこりと天使の仮面を被り、言った。
「ユリーナに言う必要はありません。彼女がカレーナ領に向かうのを見送ったら、その後は二度と会うことはないんですから」
「逃げる気なのかね、マックス=フォワード!」
書斎を出て行こうと踵を返したマックスは、鋭い呼びかけに、背中を向けたまま応じた。
「…………どうとってくださってもかまいません。あなたの可愛い孫娘を幸せにするのは僕じゃなくてもいいはずだ」
そう言い切ると、今度こそ扉に向かって歩いていく。
「待つんだ!」
侯爵の制止の言葉に、振り返ることもなく、扉を開け放ち、出て行った。
パタンッと扉の閉まる音を聞いた瞬間、侯爵は虚しい気持ちになった。
救いを求められた二度ともなにもできなかったときに感じた無力感。だからこそ、目の中に入れても痛くないほど可愛らしく、愛おしい孫娘には幸せになってほしくて、彼女が好意を寄せているマックスの後ろ盾となり、この貴族社会のハイデンホルムの中であっても引け目を感じることがないよう見守りながら不自由を感じさせることもなく、なにがあろうと守れる環境を息子とともに、作ってきたつもりだった。それは権力や財産といった外見上のものだけでなく、精神的強さという意味でももちろんそうだ。
(――――それなのに。)
「マリア……。わしはまた、間違ったのかもしれん」
息子夫婦はマックスならユリーナを任せられると言っていた。その言葉を信じ、また自らも彼の成長を見守ってきて、性格に難有りとはいえ、優秀であることは認めている。なによりも、ユリーナが意地を張っているとはいえ、彼に好意を持っているのは明らかだったから、任せようと決めた。
『大丈夫よ、おじ様。私が最後には彼に救われたように、だれにだって手を差し伸べてくれる存在は現われるわ。あの子達なら、きっとその手に気づいてくれるって私は信じているの』
希望に満ちた、彼女の言葉。今はそれに縋るしかない。
愕然とした気持ちに、侯爵はどうしようもなく、顔を覆って長い溜息を吐き出した。