■幼き傷は棘と化す ■
ユリーナがなぐさめるためにキスをしてきたとき。
あの時は冗談で誤魔化したけれど、あれから毎晩のように悪夢を見るようになった。夢というよりは、記憶の底に沈めて蓋をしていたはずの過去。
自分に瓜二つの、よりハイデンホルム特有の姿をした母親。きれいな金髪に、青い瞳。顔の造作はどちらかといえば、きつい印象を受けるもので、氷の女王の如く、冷たい美しさをもつひとだった。父親はそれに反するように、やわらかな、男でありながらも儚い印象を与えるひと。唯一、シルバーブロンドの髪が母親のそれよりも光を受けると、きれいだと思ったことを覚えている。
研究に没頭する父親。そんな男を愛せなかった、母親。
マックスの両親は、ユリーナのところより明らかにうまくはいってなくて、けれど喧嘩をする様子だけは見せなかった。見なかったからといって、母親が夜毎、違う男を屋敷に招いていたことには気づいていたし、父親は研究所から帰ってくる日が少ないことも知っていたから、子どもながら感じ取ってはいた。だからかもしれない。隣に住むユリーナの両親が常に仲良い姿を見ることに苦痛と苛立ちを感じていた。それを知っているはずなのに、なにも気づかないフリをして、ユリーナの父親は仕事で忙しいから、母親は病気がちでユリーナを構えないからと、彼女の世話を押し付けてきて、なるべく家にいたくなかったマックスは選択の余地なく、ユリーナの面倒を見る羽目に陥っていた。最も、くっついてくる彼女を放っている割合が高かったけれど。それでもめげないところには時々うんざりしながら仕方なく、本を読む傍らで言葉どおり「見ているだけ」に留めることにしていた。
ある夜、ユリーナのところで夕食を終えて帰ってきたマックスは、久しぶりに帰ってきた父親に気づいて、駆け寄った。躊躇いなく、抱き上げてくれて、大きくなったなと頭を撫でてくれるその感触に、嬉しくなる。
『父さん、研究は一段落したの?』
マックスの言葉に、父親は目を細めてちいさく頷いた。それから、ふと気づいたように周囲を見回す。
『母さんは?』
『わからない。僕も今帰ってきたところだから。探してくるよ!』
久しぶりの父親の存在にどこか浮かれた気分になって、返事を聞くより早く、母親を探すために駆け出した。「ぼっちゃま、奥様は温室ですよ」通りかかったお手伝いさんが気づいて声をかけてくれる。その言葉に、御礼を言って、庭に造られた母親専用の温室に向かった。
『母さん!』
温室の扉を開けて、浮かれ気分のまま母を呼ぶ。
だけど――、目の前の光景に一瞬で気持ちは凍りつき、足は動かなくなった。
『あら、マックス。此処には勝手に入っちゃダメって言ったのに……』
『……っ!』
冷静にマックスを見下ろしてくる母親とは対照的に、寄り添っていた男はほっそりとした腰から慌てて手を離すと、取り繕った笑顔を浮かべた。
『そ、それではレティシア。素晴らしい温室を見せていただき感謝いたします。僕はこの辺で……』
そそくさと出入り口に佇むマックスの横を通り過ぎていく。
密室に男女がふたりっきり。しかも、平然とした顔つきで開いた胸元のボタンを留めていく姿を見てなにをしていたかわからないほどマックスは愚鈍じゃない。
父がいない間に母が幾人もの男性を部屋に招き入れたことは知っていた。それでも、目の前で突きつけられた事実に愕然となる。
声も出せずに、立ち尽くしていると、ボタンを留め終わった母は怪訝な顔をしてマックスに視線を向けた。
『どうしたの、マックス?』
まるで悪気のない、いつもと同じ彫刻のような顔つきに、吐き気がこみあげてきた。襲いかかってくる、嫌悪感。
『マックス?』
触れようと伸ばされる手に、恐怖を感じた。
(――いやだ、触るな!)
父以外の男に触れた手で。
あと少し――。
はねのけようとした瞬間、『マックス?』割り込んできた声に、今にも触れようとしていた手は降ろされ、マックスはほっと胸を撫で下ろした。
『あら、あなた。帰っていらしたの?』
珍しい――言外にそんな含みのある口調で、母――レティシアはマックスの後ろに現れた父に顔を向けた。
『ああ、今ね』
短い返事をしながら、ぽんっと頭に乗せられた手のひらに、思わずびくりと肩がふるえる。
『マックス、どうしたんだ?』
違和感を覚えたのか、父の声に探るような響きを感じ取った。
恐る恐る顔を動かして見上げれば、じっと見つめてくるレティシアの青く冷たい瞳とかちあう。感情の浮かんでいないその瞳に呑まれそうになって、思わず唾を飲み込む。彼女がなにを言いたいのか悟って、胸が痛んだ。
『どうし――』
『なんでもないよ』
振り返って、にっこり微笑む。
見下ろしてくるレティシアのものとは違う、やわらかな光を宿す青い瞳が心配そうに見つめてきていた。久しぶりに帰ってきた父親を心配させたくなくて言った言葉はけして、レティシアのためのものじゃない。
胸の内でそう言い訳をして、笑顔を浮かべたけれど、父は少し考え込むように押し黙り、ふと苦りきった表情で息をついた。
何か言われるだろうか、そう危惧して身構えるものの、父はそれ以上なにも言わず、視線をレティシアに戻して話しかける。
『……レティ、話があるんだ。少し、出掛けないか?』
いつも彼女と話すときの父はわずかな躊躇いを見せるのに、今日に限ってなぜか穏やかな口調だった。レティシアは少しばかり目を見開いて驚いた顔つきをしたけれど、すぐに表情を消して『しかたないわね』と頷いた。そこには一欠けらの喜びもなく、いつもより余計に冷たさを纏っているように感じられた。連れ立って温室を出て行こうとするふたりに、慌てて呼びかける。
『待って、僕も――』
『マックス、すぐに迎えにくるから、おまえはここで待っていなさい』
後を追おうとしたマックスを扉のところで振り返って父が止めた。しゃがんでマックスに視線を合わせてくる。いつものように頭の上に大きな手の平がぽんっと乗った。
『必ず、迎えに来るからいい子で待ってるんだよ』
『あなた――』
父を促がそうとするレティシアの姿が目に入り、なぜか――自分でもわからない衝動的な気持ちが込み上げてきて、ついさっきまでは怯えていたはずの彼女に向かって、思わず縋るように問いかけていた。
『母さんは、母さんも一緒に帰ってくる?』
レティシアは一瞬、困惑するように眉を顰め ――それから、戸惑いがちにマックスの頬に手を伸ばしてきた。わずかに震えるその手に気づいて、今度は怖いとは思えずに、するりと触れられるままにする。
『もちろんよ。マックス。迎えに来るから、いい子で待ってなさい』
最後に離れていく、手。
あの感触が冷たかったのか、それとも――わからないまま。
結局、両親がマックスを迎えに来ることはなかった。ふたりが乗っていた馬車が転落し、事故に遭ったときいた。御者はおらず、父が馬を操っていたと。口さがない親戚達には、事故じゃなくてあれは、無理心中に違いないとさえ言われた。それを指し示すように、遺言書も見つかっていた。すべてマックスに遺すことと、後見人として侯爵と、セルアン氏の名が綴られていたらしい。そんなことは、マックスにとってどうでもよかった。
――――置いていかれたんだ。
ただ、そのことに絶望した。何かが抜け落ちてしまったように、心の中に穴ができ、埋まらないそれに、胸が苦しくなった。
迎えにくるって言ったのに。いい子にしてたら、迎えに来るって約束したのに!
冷たい土の中へと消えていく両親を見つめながら、悔しさに拳をぐっと強く握りこむ。じくりと手のひらに痛みを感じた。まるで棘が刺さったかのようなその痛みは鋭く、胸を刺す。
『ほら、あの子。親が死んだってのに、泣かないなんて、ほんと外見だけじゃなく中身までレティシアそっくりよねぇ』
『ザックもいくら美人とはいえ、あんな冷たい女とよく結婚したわよ。結局うまくいかなくて無理心中なんて……』
『いくら財産残すからって子どもひとり残していくなんて、ねぇ』
聞きたくもないのに、耳に入ってくる言葉の数々。
あの一瞬、母に感じたときの嫌悪感がより強くこみ上げてくる。それを抑えるように握り締める手も強くなった。
不意に手のひらに鈍い痛みを感じて、目を開ける。
明かりのない部屋の中で、目を凝らす。
そういえば、侯爵邸から珍しく自分の屋敷に帰宅し、部屋で休んでいたんだと思い出した。
(また同じ夢を見てたのか――。)
あれから別に生活は普段と変わりがなく、結局はユリーナに悲しんでいると、ほんとうは泣きたかったんだと気づかされるまで涙を流すことはなかった。
脳裏にまだ幼い頃の彼女の姿が浮かぶ。どんなに突き放しても、頑固にくっついてきた意地を張るときの表情。マックスが褒められるたびまるで自分の事のように嬉しそうに笑う顔。年齢を重ね、少しずつ大人になっていくにしても、怒ったときや恥ずかしがるときの顔も変わらず可愛くて。なによりも、いつだってまっすぐなユリーナの心がマックスには羨ましくて。
(ユリーナ……。)
なにも気づかないフリをしていれば。あのときの気持ちを忘れたままにしておければ。
このままずっと一緒にいて、幸せにしてあげられたかもしれない。
そう思って、不意に笑いがこみ上げてきた。幸せ?
馬鹿馬鹿しい。
父を愛せなかった、レティシア――母親と、そんな彼女を連れて、死を選んだ父親。絶望的な愛しか知らない自分が、ユリーナを幸せにできるはずがない。このまま一緒にいたら、いつか真っ暗な闇を抱えるこの心にユリーナを巻き込んで、彼女を変えてしまう。
それは最もマックスが嫌悪していることで。
「だから、僕じゃなくても」
ユリーナを、あの存在すべてを優しく包み込んで、笑顔でいられるよう守ってくれる相手ならだれでもいい。まして、この貴族社会であるハイデンホルムでいうのなら、貴族――たとえ、どんなに胡散臭い男であろうとも、王室と深い繋がりがあればなお一層、彼女は幸せになれるだろう。
そう思うほどに軋む胸の音に気づかないようにして、マックスは懐に入れていた手紙を取り出す。それは父親が勤めていた研究所からのもので。内容は、マックスの訪れを願うものだった。
ユリーナが向かうカレーナ領とは丁度反対の位置にあるこの場所は、ハイデンホルムと隣国との境にある小さな田舎にある。この首都からは馬を走らせても一週間はかかるし、この場所に向かうことは誰にも言っていない。気が向けば、そこで父と同じように自分も研究に没頭するのもいい。もしくは、そのまま世界を見て回る旅に出掛けるものいいかもしれない。ユリーナと距離を置くには丁度いい切っ掛けになるだろう。
きしり、と再び痛んだ胸に顔を顰めて、持っていた手紙を戻し、脳裏に浮かぶユリーナの姿を追い払うように首を振った。