■ 愛する君に捧ぐ嘘 ■
玄関先に止めてある黒塗りの紋章付き馬車を窓から見下ろして、ユリーナは溜息をついた。同じように隣で窓に前足を当てているフェネックがそれを聞いて、怪訝そうに顔をあげる。
「きゅぅ?」
フェネックをそっと抱き上げて、痛くならないように気遣いながら抱き締める。やわらかな毛が頬にあたり、日なたの優しい匂いがした。
「行きたくないわけじゃないんだけど……」
侍女のカイナによって準備された着替え一式はすでに運び込まれている。あとはユリーナが馬車に乗るだけという段階で、なんとなく胸騒ぎを感じた。社交界のマナーを学ぶわけだから、少なくとも一ヶ月以上は向こうにいる必要がある。母親と旅行には出掛けたものの、それほど長くこの屋敷を離れることは初めてで、考えてみればマックスとそんなに離れることも初めてだ。時間も、距離にしても。
もちろん、いまもまだマックスをぎゃふんと言わせる決意は変わらず胸にあるけれど、いざ行く段階になると寂しさがわきあがってくる。
不意にドアをノックする音が聞こえて返事をすると、父が複雑そうな表情を浮かべて部屋に入ってきた。仕事では弱い者の前面に立って弁護する優秀なひとなのに、プライベートではどこか呑気な調子を崩さず、穏やかさを纏っている父のそんな表情は珍しい。
「お父様?」
「準備はできてるんだろう。ちょっと話をしよう」
そう言って、部屋の中央にあるソファに腰を下ろした。促がされて、ユリーナもテーブルを挟んだ向かい側にある椅子に座る。フェネックを膝の上に降ろして、父の言葉を待った。窓から入り込んでくる日差しを受ける父の横顔は真剣でそんな顔をするとやはり、侯爵である祖父にそっくりだと思う。
『おじい様に似るのは嫌だって言うのよ。あんなにそっくりなのにね』
幼い頃、母がこっそり教えてくれたことを思い出す。悪戯っぽい表情で父のことを話す母はとても幸せそうだった。病気なんてその幸せに比べたら小さなことだとでもいうみたいに。だからユリーナは苦しんでいる母の姿はあまり覚えていない。亡くなる寸前まで、母は微笑んでいた。けれど。
『幸せだったわ、幸せだったのよ、私――ほんとうに』
そう繰り返していたのは、まるで自分に言い聞かせるみたいだと、思ったこともある。時折、何かを思い出すみたいにぼうっとしていたことを知っているから、なおさら。
「ユリーナ」
名前を呼ばれて、はっと我に返る。父が意を決したような顔つきでユリーナを見ていた。
「できれば、話したくないというのが私の本音だったからね。マリアの願いに反して、この瞬間まで先延ばしにしてしまった」
その口調は今もまだ、話さなくてすむのならそうしたいのだという気持ちが父の悲しげな瞳から伝わってくる。
父がどんなに母を愛していたか知っている。あれから十年という時が流れて、いくら周囲の同僚たちから再婚を勧められても、穏やかな瞳の中に深い慈しみの光を湛えながら、今も母が隣に立っているかのように「私が愛しているのはマリアだけなんだ」と恥ずかしげもなく、告げる。そんな父はユリーナにとって誇らしく、同時にそんなふうに愛される母が羨ましかった。いつか、自分もそんなふうに誰かに恋をしたい。誰かを愛していきたいと思った。
一瞬、脳裏に浮かんだ面影を頭を振って追い出す。
――それはさておき。
だから、父が言った母の意志に反して、という言葉が引っかかった。まだ母が生きていたとき、どんなことも二人は話し合って、譲り合いながら決めていたから。たいていは、母の思惑通りになっていたけど。
驚いていると、それを感じたのか、父は自嘲を含ませた顔で深く溜息をついた。
「今から話すことを言葉にしてしまえば、私はおまえもマリアも失うようで怖かったんだ。マリアを守れなかった私の――」
言いかけた言葉を止めて、緩く首を振る。それから父の、真剣な眼差しに射抜かれる。ゆっくりと開かれる口元をじっと見つめていると、衝撃的な言葉を聞かされた。
「ユリーナ。おまえには父親違いの兄がいるんだ」
「…………え?」
――いま、なんて?
一瞬、真っ白になった頭の中に、再び言われた言葉が浮かび上がってくる。
「兄?」
「ああ、父親違いの兄がね」
「私に?」
「そう言っただろう」
呆然と呟く私の言葉に、呆れ返った顔で呑気に頷く父を見て、それが嘘じゃないことがわかる。マックスじゃないけれど冗談を言ってからかおうとしている様子もなく――ってことは。
「なんですって?!」
思わずあげた大声に、いつのまにか父が耳を塞いでいる姿が目に入った。膝の上にいたフェネックも驚いて膝から降り、どこかへ行ってしまったけれど気にしてる余裕はない。
「ちょっと、お父様!」
身を乗り出して詰め寄ると、父は目線で静まるように圧力をかけてきた。渋々座りなおして、それでも父を睨みつける。あからさまな溜息をついた父は、耳を塞いでいた手を外すとそのまま組んで、膝に置いた。その薬指には今もまだ、母との結婚指輪が嵌められている。飾りのないシルバーリングに光があたって反射する様はどこか悲しげに見えた。指輪を恐らく無意識になぞっている、父の仕草も。
「……生まれてすぐ、おまえの兄は相手側に引き取られた。私も父も二度とマリアに関わらない条件でそれを認めてしまったんだよ。マリアにとっても、それがいちばんいいのだと言い聞かせてね」
嘘じゃない。父はこんな嘘をつくようなひとじゃない。
それがわかっても、ユリーナは納得できずにいた。
「お父様達は幼馴染だって。お母様にはずっとお父様だけだったって言っていたわ。それなのに、どうして……」
魔が差したとか、心変わりをしたとか。
あの母がそういう気分屋だとは思えなかった。父だけを一途に愛していたと信じていたのに。そのうえ、父や祖父が交換条件として兄を差し出したなんて。
根底にあるなにかが、ぐらぐらと揺れるのを感じた。眩暈がする。
――――吐き気が、する。
「理由はいずれわかる。だが、ユリーナ」
落ち着き払った父の姿を呆然と見返しながら、先に続く言葉を待つ。
「確かにマリアは私だけを愛していた。もちろん、私も彼女だけを愛していた。けれど、お互いだけしか見えていなかっただけに、今思うとそれが結局は彼女を傷つける羽目になったのだろう」
後悔の滲む声に、胸が苦しくなる。
溢れそうになる怒りや悲しみがごちゃ混ぜになってユリーナは心をもてあます。衝動に突き動かされるように、口を開いていた。
「お父様は、お母様を愛したことを後悔しているの?」
驚いたように目を見張って、父は「まさか!」と声を上げた。普段、穏やかなだけにその驚きが本音だとわかった。取り乱した自分を落ち着かせるように、ごほん、とひとつ咳払いをした父は、柔らかな眼差しを向けてくる。
「私はどんな運命にあったってマリアを愛したよ。しかし同時に私は彼女を心から幸せにしてあげることができなかった。そのことはとても後悔している。だからね、ユリーナ。おまえには後悔するような道を選ばないでほしいと願っているんだ」
「お父様――」
「だれかを愛し、幸せにするということはけして容易いものじゃない。だが、おまえなら怖れず、まっすぐにそうすることができると信じているよ」
――――どうして。
どうして、今そんな言葉を言われるのかわからずに困惑する。
混乱する頭の中で、ユリーナがどうにか言葉を紡ぎだそうとしたとき、再びドアをノックする音が聞こえた。返事をしたのは父で、ドアを開いたのはマックスだった。
「ユリーナ? 出発の時間だって、カイナが玄関先で待ってるよ」
呼ばれて慌てて立ち上がる。
「すぐ行くわ! お父様、その話はまた帰ってからゆっくり――」
今はなにをどう話していいのかわからない。ユリーナ自身、落ち着いて考える必要があった。それがわかったのか、いつもののんびりとした口調になって父が言う。
「そうだね。おまえはもう、行きなさい」
いつも通りの優しい顔。だけど、部屋を出て行くときドアを閉めようとして振り向いたユリーナには窓を向いた父の横顔がほんの少し寂しげだったように感じて、ちくりと胸が痛んだ。
◇
「元気ないね、ユリーナ。そんなに僕と離れるのが寂しい?」
玄関を出てから、馬車の前までぐずぐずとしているユリーナに、怪訝そうな顔でマックスが話しかけてきた。
「そんなんじゃ―――!」
咄嗟に言い返そうとして、マックスが微笑んでいることに気づく。他人の前で猫を被っているときならともかく、ユリーナの前でそんなふうに笑ったことなんてない。あまりに胡散臭くて、思わずいつものように睨み付ける。
「何考えてるの?」
「いや、特には。しばらく会えなくなるから、ユリーナには笑顔の僕を覚えていてもらおうかなと思って」
「とっくに普段のマックスが刻まれてるわよ!」
あまりに慣れすぎていて、逆に背筋に寒気が走る。
そんなユリーナの態度に、くすりと嫌味のない笑みが落ちる。それはどうしたって普段のマックスらしくなくて、違和感を覚えた。
ますます眉をひそめ、疑わしい視線を向けるユリーナをかわすように、マックスは彼女の手を取り馬車のなかへと促がそうとする。
「ちょっと待って、マックス。私、話したいことが――」
「帰ってきたら、聞くよ」
父が言った兄という存在をマックスに相談しておこうと口にすると、それを遮るように馬車の扉を閉める。開け放した窓からユリーナは不満そうに彼を見た。
いつもはきちんと話を聞いてくれるのに――。
出発を急がせようとする彼の態度に気づくと、不満が急に不安に変わる。
ただマナーを学ぶために一ヶ月カレーナ領に向かうだけのはずなのに、父はまるで永遠の別れのような態度を見せてくるし、マックスは――彼も明らかに普段と違う。
思わず窓から身を乗り出して、ユリーナは確認する。
「……私、ただ一ヶ月留守にするだけよね?」
「まあ、それくらいで君がマナーを学べるとは思えないけどね」
「でっ、でも! それくらいで帰ってくるのよ?!」
「――当然だろう。どうしたの、ユリーナ?」
なにがと問われると、なにかを言葉にできないほどユリーナの中では漠然としかしていなくて。それなのに不安で、胸が苦しくてわけがわからない。高まった感情が堪えきれずに涙を溢れさせようとする。マックスが目を大きく見開いた。驚きと困惑が青い瞳に宿る。
「なんで泣くの?」
「―――わからないわよ!」
零れ落ちようとする涙を自ら拭って、感情が爆発するままに答えた。
「なんで怒るの?」
わからない、今度は言葉までもが胸につかえて、息さえもできなくなる。理由がわからなくて、それなのに不安で。今までこんなふうに感じたことがないから、どうしたらいいのかもわからない。
いつものマックスなら呆れた顔で「変なユリーナ」と言ってくるのに、まるで慰めるような優しい声がユリーナの耳に聞こえてきた。
「帰ってきて、ユリーナが立派な淑女になれてたら、1つだけどんな願いも叶えてあげるよ」
いつもとは違うけれど、それはまだ幼い頃、ユリーナが本気で泣き出したときに心底困ったマックスが持ち出していた特別な魔法の言葉だった。
『泣き止んだら、1つだけどんな願いも叶えてあげるよ』
たいていは無茶な願い事をしたような気がする。だけどどんな手を使っても、マックスは叶えてくれた。いつからかユリーナが本気で泣くこともなくなって、マックスもその言葉を使うことがなくなった。懐かしいその言葉に、渦巻いていた不安が薄れる。
「ほんとうに?」
「僕はユリーナに嘘はつかないって知ってるだろう」
じっと見つめてくる表情は、ユリーナに向ける普段通りのマックスで、だからこそ安心して笑顔を浮かべることができた。
「うん! じゃあ、行ってきます!」
「はいはい。いってらっしゃい」
たちまち笑顔になったユリーナの百面相に、呆れたように肩を竦めてそう言うと、マックスは軽く片手を上げる。
それを合図にしたかのように、馬車が走り出した。
ユリーナが乗った馬車を名残惜しげに見送っていたマックスは、扉近くで同じように見送っているセルアン氏を振り向いて、わずかな苛立ちを含んだ声で問いかけた。
「どういうつもりですか?」
「父から話は聞いていたからね」
珍しく見え隠れする彼の感情の起伏に、しかしセルアン氏は動じることなくその青い目を見返しながら肩を竦める。有能な弁護士然とした態度はマックスを幼い頃から知っていることも合わさって崩れることがない。それ以上に、彼はのんびりとした印象を与えるだけに、毒気を抜かれてしまう。
マックスは一瞬現してしまった苛立ちを飲み込んで、代わりに確かな口調で告げた。
「僕のユリーナへのお目付け役は終わったといったはずですよ」
幼い頃に頼まれていた、ユリーナのお目付け役。
――もう、彼女に自分はいらない。必要がないだろう。幸せにできないのなら、一緒にいる意味もないのだ。だから、手を放した。恐らく、もう二度と会うこともなくなる。
「マックス君。私はユリーナに幸せになってほしいだけだよ」
それはマックスも同じ気持ちだ。だれより、ユリーナには幸せになってほしいと願っている。
堪えきれない何かが感情となって現われようとする前に、マックスは自分も旅立つ準備をするために屋敷へと歩き出す。その背中に、セルアン氏の視線を感じていたが彼は立ち止まることはしない。
「……もちろん、君にもね」
投げかけられた言葉に温もりを感じても、ユリーナの手を放した今は、自分の幸せなどどこにもなく、幸せになる価値さえもあるとは到底思えなかった。