■ 怪盗紳士の求婚 ■
カレーナ領は、首都ハイデンホルムから西の程近い場所にあり、王族が直接持っている土地だった。生い茂る森の陽に透ける翠の葉やその隙間から零れ落ちる光を受けて煌く湖。水面には鴨が泳ぎ、時折魚が跳ねる音が聞こえる。鹿が渇きを癒しにきているときもあると聞くこの場所は主に王族やそれに近しい貴族たちの避暑の別荘地として訪れる者を迎えている――そうだ。カレーナ領に行くことが決まったときに、マックスがそう教えてくれた。
「ユリーナ様、見てください! 素晴らしいところですわ!」
嬉しそうにはしゃぐ声をだすのは、今回ユリーナ付きの侍女として従っているカイナだった。本来彼女はセルアン邸の唯一の侍女として父やユリーナの身の回りの世話を請け負っているのだが、父が貴族の令嬢と一緒にいる身で侍女の一人もつけないわけにはいかないだろうと言い、一緒に来ることになった。
「キュルル!」
楽しそうにしている彼女に応じたのはフェネックで、やっぱり屋敷にいるよりも自然こそが嬉しいのかその様子は普段より浮かれているように見える。そんなふたり―一人と一匹―に対して、いつもなら同じ、かそれ以上のはしゃぎようを見せるはずのユリーナは、なんとなく沈む気持ちを持て余していた。
別れ際の父やマックスの態度がどうしても引っ掛かる。いつもユリーナの気を逸らすとき、マックスは大抵怒らせるような言動をするにも関わらず、昔の方法で慰めてきた。
(同じように離れることに不安を抱いたから?)
マックスらしくないと言ってしまえばそうかもしれないけれど、何か大事なことを見落としたような居た堪れない気持ちになる。やっぱりハイデンホルムを――マックスの傍を離れるべきじゃなかったかもしれない。少なくとも、彼があんな態度をするのを見た今は特に。
一度そう思ってしまえば、強い心の揺れを感じて、ユリーナは引き返そうと決める。
「ちょっと、馬車を――」
引き返して、とユリーナの言葉は不意をついた馬車の動きに遮られた。
ピタリと止まった馬車に眉を顰める。窓の外はまだ森の風景が続いていて、公爵に招かれた屋敷に着いたとは思えなかった。カイナも不安そうな様子を見せ、御者に声をかけようと閉められている内窓に手をかけようとして、急に扉が開いた。
「失礼します、私が同乗してもよろしいでしょうか?」
そう丁寧な言葉遣いで許可を求めてきたのは、怪盗紳士だった。
「っ、あなた!」
思わず声を上げて、すぐにいつもの怪盗紳士と様子が違うことに気づいた。高級素材だと一目でわかるシルクのシャツにやわらかなクリーム色のジレ。恐らく特注品に違いないと気づけるほどに彼のすらりとした体躯を包む上着。すべてが白い装いで、緑に染まる森の中では異質な存在のはずなのに、それすらも自らの背景として溶け込ませてしまう。まるで彼がこの場所で登場することがあらかじめ決まっていた物語の王子様であるかのように。
最も、以前にレイモンドと名乗った彼が怪盗紳士という胡散臭いものであることを知っているユリーナは、うっとりと目を蕩けさせるカイナを目の端にいれながら、警戒心丸出しで「冗談じゃないわよ!」と拒絶しようとした。なにせ、自分の目的はユリーナを攫うことだと、堂々と告げられたのだ。一緒に―密室と化す―馬車に乗ったらどこに連れて行かれるかわかったものじゃない。
けれど、ユリーナが口を開こうとした瞬間、蕩けるような熱い目で彼を見ていたカイナがハッと何かを見つけたように視線を止まらせ、顔を強張らせたことに気づいた。
「ユ、ユリーナ様……この方は」
「え?」
やばいっ。
彼の胡散臭さを知っているユリーナはどう説明すればいいのか迷う。いくら友達みたいな存在だといってもカイナは侍女で、お世話している令嬢に近づく怪しげな存在に警戒心を抱かないわけがない。もちろん、怪盗紳士なんて紹介するのは言語道断だろうし、じゃあ街の医師? こんな身なりをしているひとが医師というのも疑わしい。どうせなら白衣のひとつやふたつ着てたら堂々と説明できるのに――。
困惑しているユリーナの思考を止めたのは、意外にもカイナが発した言葉だった。
「王族の方がどうして――」
「は? 王族?」
聞き慣れない単語を耳にして、ただ言葉だけが頭の中を通り過ぎる。
カイナが視線を止めている場所を辿っていくと、彼のタイピンが目に入った。
――――白薔薇の紋章。
そういえば怪盗紳士の予告状が入った封筒にも薔薇があった。あれは赤だったけれど。
バラ、……薔薇。白薔薇。その意味は?
ユリーナはようやく意味を解釈した。途端―――。
「なっ、なんですって――――?!」
ユリーナの絶叫は、馬車を飛び出し、森の中に響き渡って、動物達の優雅なひと時を見事に破壊していった。
「どーしてっ、王族が街で怪盗紳士なんてものやってるのよ!」
密室化した馬車の中で怪盗紳士とふたりっきりになったユリーナは、いまだ驚きを拭いきれないまま、疑問を口にする。ここが馬車じゃなかったら肩を掴んで揺すってさえいそうな勢いで。
ちなみにカイナは怪盗紳士が乗ってきた馬車に移動してもらっている。身分を明かされ、しかも貴族以上の地位にいるひとにユリーナと内密な話があるから、と言われてしまえば侍女である彼女は従うしかない。ユリーナもどんなに不満はあったとしても、聞きたいこともあればそれに頷くしかなかった。
「――え?」
向かい合って、やっぱり優雅な姿勢で座る怪盗紳士は、困惑したように首を傾げた。とぼけているのかと一瞬ムッとしかけたユリーナは、目を細める。それに苦笑して彼は首を振った。金糸の髪がさらりと揺れる。
「すみません。先ほどの影響が続いていて、正常に聞き取れませんでした」
まだ、わんわん響いてるんですよね、と耳を軽く手のひらで叩く姿は皮肉ってるのか、事実なのかわからない。
それでも罪悪感が胸を過ぎって、ユリーナは声を落とし再び質問する。
「本当に王族なの? それともその格好も変装かなにか?」
世間を賑わせる怪盗紳士だ。王族に変装するのも容易いに決まってる。
疑わしげな眼差しを向けるユリーナに彼は肩を竦めて、白い手袋の指に嵌められた指輪を抜き取った。それを彼女に渡す。指輪を眺めて、ユリーナはルビーの宝石に刻まれている薔薇の紋章を見つける。透き通り、奥に咲く一輪の美しい薔薇。前に、彼から贈られたのも薔薇。
「あなたの前で変装してもしょうがないでしょう。本当に私は王族ですよ。それはその証拠です。王族のみが持つ、薔薇の刻印。最も、直系が持つものとは少し形が違いますけどね。怪盗紳士として使用しているものは更に単純な構造と化し、色も変えてはいます。まぁ、見る人が見れば私だと知らなくても王族のものだとわかるようにはしていますよ。そうでなければ意味がありませんから」
「どういう――」
秘密を話す子どものように、楽しげな笑みを浮かべて彼は続けた。
「貴族と王族の力は均衡であらねばならない。――それは国政を支えるためには必要な条件です。しかし、今このハイデンホルムでは貴族の権力が強まってきてしまった。並行するように、反王族派も増え続けているんです。そうはいっても、王族が堂々とそれを糾弾するわけにもいかない」
そこで登場するのが怪盗紳士です。
反王室派の証拠を見つけ、罪を暴いて自滅させる。更に、王族が見張っているという暗黙の脅しにもつながります。もちろん、あくまで王族の扱う紋章に似たものを使っているというだけで、怪盗紳士が王族だと証拠もないのに追及はできないですからね。貴族への牽制には丁度良かったんですよ。
「どうして、あなたがそんなことをする必要があったの?」
王族であるひとが危険なことを自ら犯すことが信じられなくて、ユリーナが率直に訊くと、それまで楽しげな表情をしていたのに、青い瞳がわずかに陰りを帯びる。
「――私でなければならなかったんです」
口調にも自嘲が混ざる。
その響きがあまりにも悲しく聞こえて、ユリーナにはそれ以上の質問ができなくなった。二人の間に沈黙が落ちる。
開け放されたままの窓から風が入り込んで、彼の金糸の髪をさらりと揺らしていく。澄んだ空の様な青い眼差しが甘く揺らめいて、ユリーナをまっすぐ見つめてきた。心がざわりと波立って息苦しくなる。
「最初は単なる好奇心で、貴女がどんな女性か興味がありました。ですが、今は純粋に貴女に惹かれています。ユリーナ=セルアン嬢。どうか、私と結婚して下さい」
「――っ?!」
冗談でしょ、と言うよりも先に、彼の瞳が本気だと告げていることに気づいて驚きと共に飲み込んだ。怪盗紳士の言葉を疑うことも、騒ぎ立てることも、真剣な空気が漂う今はどうしたってできない。
そう感じてはいても、ユリーナには返す言葉も浮かばなかった。なにせ、結婚を申し込まれるなんて初めてで。
困惑して黙り込むと、怪盗紳士は優しい眼差しで見つめてくる。
「驚かせてしまいましたか?」
「わっ、私……あなたが怪盗紳士で王族だっていうことも、いま知ったばかりでほとんどなにも知らないのよ? それで結婚なんて、どうして……」
もちろん、貴族社会の中では相手のことを知らないまま、家柄だけで選ぶ政略結婚が多いことはわかってる。親同士で決めて、結婚式当日まで相手に会わない場合だってある。だけど、ユリーナは違う。心から愛し合って結婚した両親にずっと憧れていたし、政略結婚を強いるような身内はいない。むしろ、ユリーナには心から愛する人と結婚してほしいと望まれている。
そう思ってユリーナの胸がずきりと痛んだ。今は愛し合って結婚したと思っていた両親も、――マックスさえ、遠く感じてしまう。
「求婚が早過ぎることはわかっています。ですが、私の気持ちが貴女にあるのだということを先に知っていてほしかった」
本気だということを。
優しい眼差しの奥にある真剣な光に呑まれそうになる。
膝の上においていた手を彼の大きな手に包み込まれて、手袋越しに伝わってくる温もりに、どきりと胸が高鳴った。
これまでマックスに冗談交じりの口説き文句は言われることが多々あったけれど、あれは冗談だという免疫ができていたからユリーナもかわすことができていたが、こんなふうに真剣に異性に迫られたことは一度としてない。
向けられている熱のこもった視線にどう返せばいいのか戸惑っていると、怪盗紳士は苦笑を浮かべてユリーナの手を放した。
「残念、今はタイムリミットみたいですね」
「えっ?」
ユリーナが疑問を口にする前に、馬車の揺れが止まった。
「公爵の城に着いたようですよ」
怪盗紳士の言葉を裏付けるように、馬車の扉が開かれる。
自然の爽やかな風が入り込んできて、ユリーナは思わずほっと息をついていた。自分が随分と緊張していたことに気づく。
馬車を先に降りた怪盗紳士が差し伸べてくれた手に自らの手を添えて、ユリーナも馬車を降りる。
王城のどっしりと存在感のある凛々しいものとは違って、こじんまりとした可愛らしい城が目に入った。外壁には、蔦が伸びていて、アクセントのように白い花が咲いている。門に続く小路に入るところには黄色や白、淡いピンクの小さな花々があしらわれているアーチがあった。
女性で花が好きなら一目で心奪われてしまいそうだと思いながら、怪盗紳士とともに歩く。優しく吹いてくる風に乗ってハーブの香りまで届いてくる。
「この城は公爵が夫人のために作らせたものなんです。花が好きな彼女のために、四季を通じての花を見ることができるし、ハーブも植えているので匂いでも楽しめるようにしたそうですよ」
怪盗紳士の言葉で、公爵夫妻の仲のいい姿を思い出す。年老いても互いを気遣っている二人の様子に温かい気持ちになった。
マックスと自分だと、いつまでたっても子どものような口喧嘩ばっかりしていそうだ。突拍子のない彼の行動に振り回されながら、食って掛かる自分を想像して、頬が緩んでしまう。呆れながらも、怒鳴りながらも、きっとユリーナは楽しんでいる。
「ユリーナ嬢」
ぴたりと、怪盗紳士の足が止まって、ユリーナも少し距離をおいて足を止める。
振り向いた彼の青い目は切なさを湛えた光を浮かべていた。
「貴女とマックス君が過ごした時間は私と貴女が出会った時間と比べものにならないくらい長いのはわかっています」
まるでユリーナの心を見透かしたようにマックスのことを言われて驚く。
「ですが、ひとが恋に落ちるのは時間ではないでしょう。私に一度だけでいい。機会を下さい」
「っ、けど、私はマックスを……」
いつの間に距離を詰めていたのか近づいていた怪盗紳士が言いかけるユリーナの唇にそっと人差し指をおいた。ハッ、と見上げた視線の先で怪盗紳士の瞳が懇願するように揺れる。
「この城では彼の名前を口にしないで。できるだけ思い出さずに、私と過ごして下さい。この城の中でだけ。私のことを知って、それでも貴女が彼を選ぶというのなら、私は諦めます」
そう言って怪盗紳士は悲しげに瞼を伏せた。
ユリーナの心は決まってる。
素直にはなれなかったけれど、幼い頃から彼女の心はマックスにある。
それでも、切羽詰っているように感じる怪盗紳士の様子に、容易く拒否することは躊躇われて。それに少なくとも一ヶ月は結局この城に滞在しなければならない。
だったら、怪盗紳士の挑戦から逃げたくない。――自分のためにも。
「……わかったわ」
怪盗紳士の目を逸らすことなく、まっすぐ見つめ返して、ユリーナはそう返事をした。