■ 離ればなれのふたり ■
父は何の研究をしていたのか。
両親が亡くなって、侯爵の屋敷やセルアン邸で過ごすことがほとんどだったマックスは、自らの屋敷に帰ることは滅多になくなっていた。父の書斎も母が使っていた部屋も一度として足を踏み入れることもなかった。出入りしていたのは主に自分の部屋とぎっしりと本が詰まっている本棚が立ち並ぶ書庫だけ。それだって、小説から論文、紀行集などジャンルは様々で、研究内容がわかるような偏った分野のものは見つからない。
今更ながらマックスが興味を持ったのは、最近になって父が研究していた仲間らしきひとから手紙をもらったからだ。曰く、父の研究が開花しそうだから、その息子であるマックスにぜひ見てもらいたいというような内容だった。残念ながらそこにも研究の内容を示すような言葉は書かれておらず――。
最初は無視しようと思っていたが、ユリーナと距離を置くためにも、自ら訪れるのも悪くないと思いなおした。何かを考えていないと、彼女の後を追いかけていきそうになる。
ユリーナの面影が浮かびそうになって、マックスは今いる場所へと意識を戻した。
乗ってきた馬から降り、手綱を引きながら街道の先に目を凝らす。
一本道で砂利が敷き詰められたこの道は、確かに足場が不安定だ。片側は崖になっているし、更に死角になる曲がり道が多くて見通しが悪い。まともな道よりも事故に遭う可能性は高いだろう。
しかし――。
この道は、屋敷のあるハイデンホルムと研究所を結ぶ通り道だ。通い慣れているはずの父が誤って落ちるとも思えず、やはり自殺という考えが捨てきれない。
あのとき、僕を残して出掛けたのは、そうしたかったから。愛されていたら、一緒に連れていってくれただろうか。
一人残された事実だけがマックスの心を重くする。
これまでなら、ユリーナの言動や笑顔に救いを求めることができた。いつも傍にいてくれたから。いつも、一人にしないと後を追いかけてきてくれた。怒りながら、泣きながらも。
距離を置いたのはマックス自身で、今もそれは正しいことだったと何度も言い聞かせている。
(――これからは、独りなんだ。)
両親が死んだときも、一人残されたことを思い知らされたときも感じなかった孤独を改めて感じると、自分が生きていることに意味はないような気がしてくる。それでも、今はまだ目的がある。
父の研究が何だったのか、見届けること。
その先はわからないけれど――。
再び、連れていた馬に飛び乗り、手綱を握る。
馬を走らせながら、ユリーナは今頃どうしているだろうか、と無意識に考えていた。
◇
――……一週間。
指折り数えて、ユリーナは物憂げに溜息をついた。
カレーナ領の公爵夫妻に招かれた城に到着してからは時間の進みがとてつもなく遅く感じてしまう。外装が公爵夫人に合わせて造られていたように内装も花瓶ひとつとっても繊細な細工がされていて、見入らずにはいられないほど美しく、同時に可愛らしい。用意された部屋も、入った瞬間は扉のところでしばらくうっとりと見惚れてしまって、一生こんな部屋で住むことができたら、と思ったほど素敵だった。淡いグリーンに透かした花が描かれている壁紙。高価と一目でわかるものの、小さな薔薇のような形の花が散りばめられて愛らしく造られているいるタンスや机、椅子。本棚などの調度品。鮮やかな刺繍が縫われたレースがかかる天蓋付きのベッド。なにもかもが、小さな頃に絵本で読んだ挿絵に出てきたお姫様たちの部屋そのままで、憧れてはいたが、いざ自分がその部屋の主人となって佇むと、居心地の悪さを感じた。まるで見知らぬ世界を訪れてしまったかのような――。
そのもうひとつの要因は、公爵夫人のマナーの指導にもあった。
あのディナーのときとは別人のように、マナーの指導に当たるときの公爵夫人は厳しい。背筋を少しでも歪めようものなら容赦なく扇子でピシリと背中を叩かれる。挨拶のときの角度や裾の持ち方、腰の落とし方。食事のときの食前酒、オードブルからデザートまでのひとつひとつの食べ方。相手を退屈させない会話の流れなど、学ぶことは沢山あり、確かに上流階級には必要なものばかり。
そうは思うものの、祖父が侯爵とはいえ、父は弁護士でその教育方針は一般の子と同じようにのびのびと育てるというものから、ユリーナは自由活発に育ってきたために、はっきりいって上流階級のマナーを学ぶのは窮屈としか思えない。それも、公爵夫人に教わるマナーは、上流階級の中でも特別――そう、まるで王室にでも入り込むかのような完璧かつ、華麗なるマナーをマスターさせるかのような徹底振り。
ユリーナの生来持つ勝ち気な性格と、淑女になれていたら願い事を聞いてくれると交わしたマックスとの約束がなかったら、自分には必要ないと帰っていたかもしれない。
ほんとうは。
――帰りたい。
時折、ユリーナの心にそんな弱気がじわりと沁みだしてくる。
(マックスに逢いたい……。)
離れてみて、時間が過ぎていくだけ、その気持ちが募っていく。寂しいから、心細いからというだけじゃなく、ただマックスに会いたい。ユリーナにだけ向けられる無愛想な表情も、社交辞令も何もない彼の心そのままにぶつけられる言葉も、傍にいれば腹立たしい気持ちになる割合が高いものの、ユリーナにとって彼の傍にいることこそが自然で、なによりもいま、マックスを必要としている。
焦がれるように溜息をついた瞬間、扉が小さくノックされた。
返事をすると、城に着いてから、まるでマックスの代わり―そんなつもりないだろうけど―とでもいうように傍にいて、マナーを学ぶときのパートナーになってくれている怪盗紳士が姿を見せた。服装も身だしなみも隙ひとつない、紳士の装い。最初に会ったときからそれは変わらないけれど、身近にいるようになって彼が時折垣間見せる素の表情をユリーナは知ることになった。
息抜きだといって散歩に連れ出してくれるときの少年のような姿。少し疲れているから、とソファでまどろむ無防備な表情。
今まで、出会う以前からユリーナが描いていたどこか人間離れさえ感じていた怪盗紳士のイメージが壊れ、より身近に感じる。ユリーナが好んで読む小説に例えるなら、ヒーローの正体を知った、ヒロインというところで、戸惑っているのは、幻滅というより、そんな彼を前以上に好ましく感じるときがあることに気づいてしまったから。
彼は部屋の中に足を踏み入れると、ソファに座ってくつろいでいたユリーナの前に立った。慎重に距離をとっているのは紳士らしい気遣いで、ユリーナも教わったとおりに上座にある一人がけ用の椅子を勧め、侍女にお茶を頼もうとして、止められる。
「今から予定を変更して、外に出ましょう」
今日は確か、ハイデンホルムの由緒ある貴族たちの構成と歴史という頭の痛くなりそうな講義が待ち構えていたはず。窓を見れば晴れ渡った空が見える。こんな日に部屋にこもって苦手な授業を受ける気にはなれない。たとえ、それが淑女に必要な知識だったとしても――。
ユリーナは即座にうなずいて、ソファから立ち上がろうとした。ユリーナの返事がわかっていたように、怪盗紳士の手が目の前に差し出される。ソツのない動きに驚いて彼を見上げると、悪戯っぽく青い目が煌く。
「貴女に、見せたいものがあるんです」
咲き誇る花畑。光零れる森林の中にある透き通る水面を称えた湖。羽ばたく、白鳥の群れ。
この城で怪盗紳士に誘われて、様々な美しいもの。楽しいもの、面白いものを見てきた。怪盗紳士のその言葉は宝物みたい、とユリーナは思った。開けるときのどきどきする気持ち。なかを見たときの感動。
その一瞬は、今いる場所に対する寂しさを忘れてしまえる。だけど、ユリーナの喜びを自分の事のように見つめてくる瞳、その奥に潜む甘やかな熱。やわらかな微笑みが、いつか心に大切にとってあるなにかと入れ替わってしまいそうで、怖い。
「ユリーナ嬢?」
黙りこんでしまったユリーナに訝るような声がかかる。
ハッと我に返って、差し出された手に自らの手を重ねる。浮かび上がった気持ちを隠すように、にっこりと笑った。
「なんでもないわ。ごめんなさい、行きましょ」
ユリーナが言うと、一瞬だけ握られた手に力がこもる。それに気づいて怪盗紳士の顔を見上げた。探るように向けられている青い眼差しに息を呑む。
「――っ、」
なにかを言う前に、ユリーナの言葉は遮られる。
「そうですね、行きましょう」
ほんの一瞬のことが何もなかったように彼は頷いて、ユリーナを伴うと扉に向かって歩き出した。
何も言われなかったことにユリーナは安堵しながら、同時にそうしてくれた怪盗紳士の優しさにぎゅっと胸が痛んだ。
少し遠出になりますが、と言われて連れてこられた場所を見回して、ユリーナは懐かしい気持ちになった。侯爵の城から馬車に乗り、1時間ほど森の中を走らせ、途中でここからは歩きましょう、と促された。ところどころに咲く可愛らしい小さな白い花。野いちごの甘い匂いが漂う小道。背の高い木々、その隙間からこぼれ落ちる陽の光。まるで先行く道を照らし出すようなやわらかい光の中を、いま怪盗紳士と並んで歩いているように、幼いユリーナは母の手を握って進んでいたことを思い出す。あのときは何もわからないまま、なにもかもが新鮮なものとして目に飛び込んできた。楽しくて、嬉しくて、これから起こることすべてに対して期待に胸を膨らませていた。
茂みが続く小道を進んだ先に、広場のようなものがある。絨毯のように敷き詰められたシロツメクサの花が咲き誇っていて、幼いユリーナは歓声を上げた。今もまだ、変わらない光景に成長したユリーナはあの頃のまま感嘆し、目を輝かせる。
「フェネックと会ったのもここだったの!」
母はユリーナに此処で待っているように言ってどこかへ歩いていってしまった。一人残されたユリーナはシロツメクサで冠を作り始めた。お留守番をしているマックスへのお土産にしようと思って。
時間も忘れて夢中で作っていたときに、不意に鳴き声が聞こえてきた。きゅぅ……と、痛みを訴えるようなその声に、周囲を見回すと足を引きずって歩く小さなフェネックの姿を見つけた。
慌ててフェネックを保護して、戻ってきた母と一緒にお医者様の処に連れていった。
(そういえば――母はどうしてこんな所に? ひとりでどこまで行ってたのかしら?)
あの頃はフェネックの様子が心配でそんなことを気にする余裕もなかったし、単なる最期の母娘の思い出作りの旅行だと思ってた。
今思い出せば、フェネックのことをユリーナが話し出す前。この場所に戻ってくるときの母の顔はとても傷ついた目をしていた。悲しそうに顔を歪めて、今にも泣き出しそうな表情をしていたように感じる。ユリーナの顔を見た瞬間、そのすべてを隠すように、母はいつもの笑顔を浮かべたけれど。
「そうだったんですね。あのとき、貴女も近くに……」
ユリーナの話しを黙って聞いていた怪盗紳士がなぜか懐かしむような口調で言う。そのことにユリーナは怪訝な顔を向けた。懐かしむ口調とは違って、彼は痛みを堪えるように眉根を寄せている。
「あのとき、って、どういうこと……?」
ハッと我に返った彼は再びユリーナの手を取って歩き出した。白い絨毯の中を進んでいく。
「今はまだ私の口から話すことができません。すべては彼からの話しを聞いたあとにしましょう」
――彼?
疑問がわき起こってくる。同時に、その答えも浮かんできそうになってユリーナは恐怖を感じはじめた。
真実を知りたい、それはいつもユリーナの胸の内にある信念で、何も知らないまま周囲に振り回されるのはいやだった。ただ父たち、なによりマックスに守られてるだけ。彼らだけを傷だらけにして、宝物のように存在しているだけなんて。だからこそ、ユリーナは真実を知ることを恐れていたくなかった。
でも、やっぱり甘やかされていたのだと思う。マックスと離ればなれになって、しみじみ感じる。父のこと、母の話、そうして兄のこと。真実を知るたびに、不安になって怖くなって今にも足元が崩れ落ちそうになる。
今まではマックスが傍にいたから、手を繋いでいてくれたから、ユリーナの意地っ張りで強がりなところを優しい心で見守ってくれていたから、なにがあってもだいじょうぶだと信じられたのに。
少し先を歩く怪盗紳士の背中を見つめながら、同じ白手袋越しであっても繋いでいる手から伝わってくるぬくもりの違いに、逃げ出したくなる弱気な自分を思い知った。