■ 天秤を傾ける方法 ■
研究所は森に囲まれた中にあった。
市内になかったことを意外に思いながら、マックスは馬から降り立ち、目の前の白い建物を見上げた。出入り口はひとつのようで、白塗りの木材で造られた建物にあり、奥には銀色の屋根に覆われたドーム型の建物が続いている。ハイデンホルムでは見たことがない形だ。
馬の手綱を側にあった木に適当に結び付け、玄関に立つ。
『呼び鈴→』と書かれているボタンを見たマックスは、しかし押すことなく扉に手をかけて引いてみた。カランカラン、と鈴の音が鳴り響く。
「……やっぱり、ザックの息子だな。呼び鈴と書いてあるものを無視するか、ふつう」
背後から呆れたような声がかかり、マックスは振り返る。
「それは失礼。呼び鈴とは書いてありますが、押せとまでは書いてなかったもので」
後ろに立っていたのは、ひとりの中年の男だった。口髭と顎鬚の境がわからないほどたっぷり蓄えたひげ。げじげじの眉。青い目に金髪とハイデンホルムの特徴をもって、表情には口調と同じく呆れたような苦々しいものを浮かべている。食料品らしいものを袋に抱えていることから、買い出しに出ていたのだろう。戻ってきたところでマックスを見かけ、どうするか行動を見守っていたらしいが、気配に敏い彼はそれにはとっくに気付いていた。だからこそ、あえて呼び鈴を押さなかっただけ。
「手紙を下さった父の同僚の方ですね。はじめまして」
初対面の人間に対しての社交性を思い出して、マックスはいつも通り挨拶をする。
ユリーナを手に入れることができなくなった今、それに意味を見出せなくなってはいるが。
案の定おざなりになっているマックスの言葉を男はふんっと鼻を鳴らすことで応じた。
「あいつが息子を猫っ可愛がりしていた理由がわかったよ。あんたの鼻持ちならない性格はレティシアにそっくりだ」
しみじみ言う男の言葉にマックスは困惑する。
性格の捻じ曲がっているところは母に似ているのかもしれないと自覚はあった。驚いたのは、父が自分を可愛がっていたという言葉だ。しかも男の言葉は、まるで自分が母に似ているから可愛がっていたように聞こえる。確かに父からは邪険にされるような扱いはされたことがない。父と息子としての世間一般の関係ではあったようには思うが、だが男の言葉が真実なら研究所にばかり入り浸らず、もっと家に帰ってきてもよかったはずだ。
季節のイベントでさえも戻ることがなかった父の姿を思い出して、いつもあの屋敷の中で独りだった幼い頃の自分が胸の中でギュッと手のひらを握りしめながら訴えてくる。
「あなたは母も知っていたんですか?」
男はマックスの問いに答えるより先に彼の横を通り過ぎ、マックスが引いたままでいる扉をくぐった。マックスはそのまま男についていく。
「そりゃぁ、ザックとレティシア、俺は世に言う幼馴染ってやつだったからな」
慣れたように先を進む男の口調には諦念が混ざっているように聞こえる。
幼馴染。――知らなかった。
そういえば、父と母の話を聞くことは初めてだ。どうして二人は結婚したの、そんな無邪気な話を聞けるような余裕はとてもじゃないがなかったから。
「研究一筋の専門バカのザックとそんなあいつに夢中のレティシア。俺はいつだって二人の間を取り持つのに苦労してたのさ。それなのに二人してさっさと逝きやがって」
簡易的なキッチンがある部屋に入ると、彼は持っていた荷物をカウンターテーブルにどさりと置いた。一番上にのっていたリンゴを手に取りマックスに放り投げる。受け止めるのを見るわけでもなく袋のものを手早く片付け、「コーヒーでいいな」と呟いて、カップを取り出した。
片手鍋にお湯を入れて、火をかける。
一段落したところで、改めて彼はマックスに振り向いた。
「……母が父に夢中だった?」
思わず、そんなバカなこと、と言いかけて口をつぐむ。
思い出すのは母の冷たい容貌。喜怒哀楽――常にユリーナが向けてくるようなまっすぐな感情はたとえ父の前であっても浮かんでいた記憶はない。何をしても喜ばないし、なにをしても怒らない。それがマックスの母で、だからいつしか彼は両親のために何かをすることを諦めていった。再び、その感情を与えてくれたのはユリーナを初めとする家族だった。小さな花でも、ひとに踏みつけられたあとの物でも、マックスがあげれば彼女は満面の笑みで喜び、マックスが困ったふうを装うと本当に一生懸命心配し、悪戯をすればユリーナの両親や侯爵に叱られて反省すると、甘いお菓子を渡され、許されることを知った。母のようにすべての感情を失わないですんだのはユリーナたちがいたから。
「そうさ。俺たちは10歳のころに出会って、そのときからレティシアはザックが好きだった。ずっとアプローチかけ続けて、プロポーズもレティシアからで、やっと結婚までこぎつけたんだからな。あいつも男を見る目はなかったんだろう、あんなに美人で選り取り見取りだったのに」
「……父は悪い男じゃありませんよ」
「もちろんだ。だが、恋愛や結婚向けじゃなかった。そうだろ? 結婚してもあいつはほとんどこの研究所に入り浸ってた。俺が帰れって言っても無視してたくらいにな。そのうち、レティシア自身も歪んでいったんだろ。ザックを振り向かせるために浮気を繰り返し、それでも彼女は顧みられることもなかったんだからな」
美しい容貌を持っていながら、愛する男と結婚までしたのに家に帰ってこない夫に彼女はなにを感じていたのだろうか。寂しさ? 苦しさ? ――どうすることもできない絶望感。
母こそが父を裏切ったと思っていたのに。
軽い眩暈を覚えて、マックスは側にあった椅子に座った。とたん、コーヒーカップが差し出される。
「俺も心底疑問に思って我慢しきれず、一度ザックに聞いたよ。滅多に家に帰らないけど、お前は本当にレティシアや息子を愛してるのかってな」
立ったまま自分のカップからコーヒーを啜る男を見上げる。男の目に映る自分の顔がまるで縋り付くような表情をしているみたいで、すぐに視線を逸らした。
聞こえてきたのは胸に秘めたものを吐き出すかのような重い溜息で、マックスが視線を戻すと、彼は軽く肩をすくめて天井を仰いだ。
「……やっぱりか」
「なにがですか?」
納得するように頷かれて、怪訝な顔を向ける。
「実は俺、あいつらの葬式に行ったんだぜ」
唐突な話題転換に疑問を持ちながら、男の話に記憶を探る。
両親の葬式の時――。
覚えているのは、親戚の心無い言葉や視線。ユリーナの小さな手のひらから伝わってきた、温もり。セルアン家のひとたち。確かに父の仕事仲間だったというひとも来ていたけれどすぐに帰って行ったし、そのなかに男はいなかったはずだ。
「そこで男の子が立ち尽くしてたんだ。置いて行かれた子どもそのままの顔で、寂しげに、苦しげに。俺は気になってたよ。両親を亡くしたんだから寂しいのはわかる。だが、苦しげにしてたのはなんでだ? 俺が思うに、あんたはザックがレティシアを道連れに自殺でもしたんじゃないかって考えてたんじゃないか。あんたはザックに自分だけ連れて行かれなかったことを苦しんでたんだろ」
「あなたの思い違いです。両親がとつぜんいなくなれば、子どもは誰だって自分のせいじゃないかと苦しむものですよ」
「そうかもな。俺が今しゃべってんのは単なる俺の推論に過ぎないさ。だが、それをもとに、俺の知ってることから導き出される結論は、ザックは自殺なんて考えちゃいなかった」
確かに、父が母よりも研究を大事にしていたとしたなら、愛されていないと思い込んで自殺をする理由がなくなる。むしろ、その理由に相応しいのは――……絶望していた母。
「だからといって、レティシアの自殺も考えられねぇな。あいつは自分が死ぬくらいなら、ザックのやつを叩きのめすくらいはやるさ」
マックスがたどりついた答えを否定するように言われた言葉は、両親を知っているからこそのもので、真実味があった。だが、根拠はない。マックスの根本を揺るがせていたものを今さら何の証拠もなしに信じることはできない。
疑わしい眼差しに気付いたのか、男は呆れたように肩をすくめ、「ついてこいよ」と促してキッチンを出ていった。
男の後に続き廊下に出たマックスは、壁にかかっている賞状や写真に気づいて、眺めながら歩く。
この研究所がハイデンホルムの歴史の中でも古い部類に入ることや、大きいものではないが国に貢献しているところであることがわかる。新聞や文献に出てくる研究者や研究内容が載せられていた。大成したものではなく、カテゴリーを当て嵌めるなら、マニアックな分類だと思っていたものだ。だからこそ、面白いとも感じて読んでいたが、まさか父親が勤めていた研究所だったとは。
両親が死んでから、その死がマックスを苦しめるようになってからは、あえて目を逸らしていた。父のしていたことも。母の想いも。ふたりに関わるあらゆることから。マックスにとって世界のすべてはユリーナだけだった。彼女が存在し、傍にいて手をつないでいてくれたら、他にはなにもいらないと断言できていた。
――だけど、ユリーナを幸せにすることは、そんな狭い世界に留まっているだけの自分にはできない。
幼い頃のまま、ふたりだけの世界にはいられないと、あの男(怪盗紳士)の存在で思い知らされた。ユリーナには彼女自身の、マックスにも彼自身の、向かい合わなければならない世界がある。
「最初は単なる薬剤の研究だったんだが、それが思わぬ効果を生み出すと知ったとき、あいつの研究は途中から方向転換したんだ。まっ、本人は効果の領域を探るためだなんていうわかりやすい言い訳をしてたがな」
からかうような口振りには、かすかに懐かしむような感情も滲みでているように感じられる。
「その研究の成果が今頃になって実ったのは……」
「今頃ってわけでもねぇ。あいつは詳しい説明をくれなかったから、俺が前回現れるまで気づかなかっただけだ。ただ、最初に見られて、前回、そして今回の期間を計算すっと5〜6年に1回だろうな」
中途半端に貴重だな。
10年に一度とでもいうなら、素直に感動できるものを。
こぼれてきそうになるため息を呑み込んだときに、男が立ち止まった。
壁にかけている白衣と二の腕までありそうな長い軍手を取り、マックスに投げて渡す。
着ろ、と視線を受けて、とりあえず白衣を羽織り、軍手をつけた。ビニール性のごわごわした感触が慣れずに気持ち悪い。
マックスが身につけたのを確認して、男は正面のドアを開いた。
ドア自体は一見普通のものに見えたが、開いた先にはガラス戸がはめられていて、そこから見える異様な光景に驚いた。
「ここが、この研究所の実験室だ。驚いたろ」
「……無節操なだけだと思う」
素直にこぼれた感想に、かわいくねーとこめかみを小突いてくるのを察して、さっと避ける。
奇妙に顔を歪めて、だがなにも言わずに男はついてこいとばかりにガラス戸に向かい足を進める。ガラス戸の横に数字が描かれたパネルがはめられていて、いくつかの数字を押し終わると同時にガラス戸が左右に分かれて開いた。
レトロな外見に比べて、研究所の中心は最先端の機能が使われているらしい。
「この研究所にはあなた以外の人はいないんですか?」
てっきり研究所内のどこかにいるのかと思ったが、歩いてきた廊下にも、中心といえるこの研究室内にも他の人の気配がまったくない。
「あぁ、もともとこの研究所は教授って呼ばれてた年齢不詳のじーさんと俺と、あいつ、それからもう二人若いので全員だ。じーさんとあいつが死んじまって、若いの二人は故郷に里帰り中。っことで、今はいちおー責任者の俺一人だな」
「……ずいぶん、いい加減な研究所みたいだ」
「おまえ、わずかにあった猫っかぶりがなくなってるぞ」
呆れたように肩をすくめる男はどうでもよさそうな態度で、中に入り込んでいく。
主に緑色の色彩が目に飛び込んでくる。図鑑で見た植物が並んでいて、南部地方の熱帯植物に似たものが多いことがわかる。だが、そっくり同じというわけではなさそうだ。
人間の顔ほどの大きさの葉が花びらのように開いている。大人が3人は入れそうな太い緑の幹が頭上高く、今にも天井に届きそうな勢いで伸びていたり。大きさが通常では考えられないほどのもの。
一体どんな研究からこんなものが……っていうか、くだらないものばかりじゃないか。
疑問を通り越して、呆れが浮かぶ。
「こんな研究から、あれだけ国に貢献できるだけの病気の薬が開発できるのか」
「よく知ってるじゃないか。ま、内部事情を特別にバラすと、あれはこういった俺ら本来の趣味ともいえる研究費を国からもらうための、立て前的研究。実際のところ、俺たちはこういう研究こそに愛を感じてる。見た瞬間にばかばかしいって言われる、抱えてる問題がひっじょーにちっぽけなもんだ、って実感させてくれる実に平和的な愛ある研究にね」
これまでの怠そうな口調とは違って、熱がこもっている言い方には、わずかになにかを懐かしむ響きがあるように聞こえた。
どおりで、父親の書斎にあった本から研究内容を把握するのが難しかったはずだ。この研究所では一点に絞られているものではなく、その研究内容はどうやら幅が広いものらしい。
温室を進んでいくと、もうひとつテントのように三角屋根の小部屋が立てられていた。ちいさなもので、窓一つない灰褐色の建物。
「冷却室みたいなもんだ。で、この扉の先におまえの父親の研究結果がある。俺にはばかばかしいものだが、あいつや――レティシアには意味があったのかもな」
肩をすくめ、マックスに先を促した。
★☆★☆★
――迎えにくるって、言ったんだ。
さっきまで兄とともにいた素晴らしい薔薇園を、綺麗に磨かれた窓ガラス越しに眺めながら、ユリーナは一度だけ聞いた彼の弱音のような言葉を思い出していた。
両親を失って泣けずにいた彼を想って痛めた胸に堪えきれずにユリーナが泣くと、ようやく縋るように抱き締めてきながら、マックスは泣いた。そのときたった一言、彼の口からこぼれ落ちた言葉。
彼に対して冷たい態度で接していた母親も、あまり館には帰ってこない父親にも、けして責める様子を見せず、なにもかもを我慢して諦めたように装っていたマックスが初めて両親を責めるように口にした一言を忘れることができずにいる。
「……準備ができましたよ」
振り向くと、怪盗紳士がティーセットを運んでくるところだった。
「あなたが用意したの?」
「まさか。下準備だけさせて、貴女と二人で話したかったので私が運んできただけです。さぁ、どうぞ座って」
茶目っ気たっぷりの笑顔で促されて、彼の引いてくれた椅子に座る。カップに注ぎ、テーブルにそっと置いてくれた。
「有難うございます」
彼自身も自分の分を注いで向かい側に座り、カップに口を付ける。
「でん……お兄様とあなたはどんな関係なの?」
まだ慣れずにいる兄という言葉に、怪盗紳士は優しく微笑んでカップを置いた。「そうですね、」と説明を迷うようにテーブルに視線を落としていたものの、やがて青く澄んだ瞳がユリーナの姿をまっすぐに映し出す。
「先王の隠し子が私です。もっとも、先王に現国王以外に子がいるはずがないので、実際には存在しない子、存在してはいけない者、ですが」
「それって――」
現国王は一人っ子として、世間一般には知られている。その弟ってことは、お兄様の叔父に当たる。それにしても、現国王が確か御年64才で、彼はどう見ても、20代前半か半ばくらい。40才差?
まさか、と声に出しそうになったけれど、怪盗紳士の真剣な様子に、慌てて呑み込む。
「この城でひっそりと育っていたのが私です。そこで殿下と会いました。暗闇の中にいた私を殿下はあのあっけらかんとした性格で光の元に引っ張り出してくれるんです。最初は抵抗しましたよ。殿下のように両親に愛され、次期国王の地位が約束され、何もかもに恵まれている彼がとても憎かった。私は存在してはいけない子でしたから、最初から両親もおらず、周囲も恐る恐る世話をするといった感じで、国王の地位に近いはずなのに最も遠い。ほんとうに、正反対の位置にいる殿下が憎くて反発ばかりしていました」
過去を懐かしむように目を細め、そこまで言って彼は一息つく。
「――ですが、殿下もまた、私と同じく複雑な事情を抱えていることを知ってしまいました。それでも彼は自分を卑下することなく、常に自らの立場で何がしたいかを考え、楽しげに動いて――ほんとうに、ばからしくなってしまったんです。誰かを羨み、妬み、憎しみしかもてない自身が。自分で孤独を選択し、周囲に対して僻みしか持っていなかったことが、とてもばからしくなってしまった」
クスッと悪戯めいて笑う姿に、ユリーナも思わず微笑んでいた。
そういった考えに至るまでに二人の間にはいろいろあったのかもしれないけれど、一人の人間の考え方を前向きに変えてしまった兄を素晴らしいと思うし、複雑な境遇に立っていても兄はけして不幸だったのではないと感じる。
「それで今は兄の手助けを……?」
「共犯なんですよ。殿下も私もそういった境遇から貴族が嫌いでした。ですが立場上はそれを表に出すこともできないので、自分たちの立場に安心して権力やお金を振りまいている貴族たちで遊ぶことにしました。それで生まれたのが、怪盗紳士というわけです」
遊びとはいえ、実際は力を得るまでなんでもしましたよ。
殿下と二人、素性を隠して犯罪者のいる刑務所に潜入して――もちろん、私も殿下も幼い頃から城下に降りて喧嘩をしてましたし、護衛術も様々習っていましたから襲われても撃退して、気づいたら犯罪者たちのボスになってたり。
思いがけない言葉にユリーナが目を見張ると、パンパンッと手を叩く音が聞こえた。
「おいっ、そこまでにしとけ。そんな話をしてユリーナが逃げたらどうするんだ?」
「逃げられないように、話してるんですよ」
にっこりと微笑んで言われて、ユリーナの背筋にひやりとしたものが流れる。
怪盗紳士の隣に座った殿下は呆れたように肩をすくめた。先ほど二人で話していたときの真剣なものとは違って、明るい光を宿した目がまっすぐユリーナを見る。
「こいつの言うことはほどほどに聞いとけばいい」
「ひどいですね。私は真剣です。逃げられてもいい相手なら表面上だけの話しかしませんよ」
ねっ、と同意を求められても、困ってしまう。
――もしも。
最初から殿下と兄妹として育っていたなら、兄と仲のいい彼とも幼馴染として育って、もしかしたら初めて恋に落ちるのも彼で、好きになっていたかもしれない。もしかしたら、これから三人で過ごせば、この時間が当たり前になっていくのかもしれない。
『僕は君が好きだから』
とても信じられる言葉じゃなかったけれど、確かにあの瞬間、胸が高鳴った。
無表情だったし、何の感情もこもっていないように思えたけれど、恥ずかしくて嘘だといつも言い聞かせていたけれど、彼が嘘だけはつかないことはわかっていた。まだ、幼馴染の関係に甘えていたかった。
『唇へのキスは愛し合う恋人同士のものだよ』
それは間違いなく、いつも素直になれないユリーナにとっての最大限の愛情表現で、たぶんマックスもそれはわかっていたはず。だけど、彼はユリーナをからかうことで逃げた。
――そう、マックスは逃げ出したんだわ。
好きだといいながら、ユリーナの気持ちには向き合わず、一方的に。強引に。自分勝手に、振り回すだけ振り回して、逃げ出した。
ハッと、脳裏にマックスと別れたときの場面が浮かぶ。
いつもと違って優しい笑顔。何でもかなえてあげるよ、という幼い頃の魔法の言葉。ユリーナを甘やかすすべては、置いていくときの手段だった。
(もしかして!)
マックスにとっては最後の別れだったのかもしれない!
「――私っ」
別れたときの胸騒ぎを思い出して、座っていられずに立ち上がる。
まだ何も伝えてない。素直に、マックスが好きだと伝えきれていない。離れていくなんてイヤ! 逃げ出すなんて、マックスを逃がすなんてイヤだ!
「ここで失礼を――」
今すぐ追いかけないと!
そう思って立ち上がったとたん、急にぐにゃりと視界が歪んだ。
咄嗟にテーブルに手を突いてバランスをとる。
「……えっ?」
足から力が抜けていく感覚に、助けを求めようと兄を見て――。
「すまない、ユリーナ。おまえの天秤を傾けるには――……」
思いもかけず耳元でそう声が聞こえたけれど、最後までは聞き取れなかった。
意識を失う瞬間、抱き留められる感覚がまるで、捕らわれてしまうかのようで。
――マックス!
◇
「なぜ、こんなことを……」
意識を失ってぐったりしている彼女を抱き留めている友人にため息混じりに問いかける。
「このままだと、おまえは負ける。ユリーナの心の天秤は完全にあの男に傾いてる。俺という要素、おまえの真心を乗せたって揺らぎはしても、傾きはしないさ。レイモンド、それでも俺にはユリーナしかいないんだ」
最初に出会ったとき、太陽のような男だと思った。そこにいるだけで明るくまっすぐな気性で周囲を魅了し、取り込む。陰などひとつもない心根のなかに唯一隠れていた、歪んだ執着。彼の心を壊してしまいそうで口には出せないが、それはまるでふたりの母親を欲した国王に似ている。
――もしも。
自分がユリーナを欲していなかったら。本気じゃなければ。
私がいる、ただそう言って彼を宥めればいい。たとえ地獄に堕ちるにしても最期まで共にいる、と誓える。だが、知ってしまったから。
彼女が傍にいる居心地の良さを。得られるはずがないと諦めていた愛を。自らの中にわきあがる、熱い気持ちを。
たとえ、どんな手を使っても。
彼と同じ気持ちでいる自分がいることを、偽ることはできない。彼女を返したくはない。渡したくは、ない。
「ハルミナ公爵が許すとは思えませんが……」
「父と同じ過ちを犯そうとしている、そう言われそうだな。だが、ユリーナ自身が選んだ道だと言えばいい。彼女が選んで、俺たちの傍にいると決めたと」
「天秤をむりやり傾けるんですね」
「できるか、レイ?」
差し出されたユリーナをそっと、受け取る。
腕の中にいる彼女は温かで、愛おしく。何も知らずに眠る顔は、穏やかで。
自分の中の天秤がかたり、と傾く音が聞こえたような気がした。