■ 不器用な愛を君に託す ■
きゅるる……。
むきゅ、きゅう、きゅうぅん。
むにむに、と何かしらで頬を押される感触が煩わしくて、手で追い払う。
――うるさいわ。もう少し寝ていたいの。眠いの。起こさないで。
きゅきゅ、きゅぅん、きゅうう、きゅーっ!!!
ぐにゅぅっ。
何度目かに頬がおもいっきり押される。
「……フェネック、おなか空いたの?」
だったら、カイナにお願いすれば――……!
いつも通りにそう思って意識が浮上する。瞼を開けると真っ先に心配そうに目を潤ませているフェネックの顔が飛び込んできた。尻尾の動きもどことなく元気がない。
ユリーナは天蓋つきの寝台のうえに寝かされていたらしい。上半身を起こして周囲を見回すと、カーテンが引かれているから全体的に部屋の中は薄暗いが広々としていた。さりげなく置かれている絨毯や棚、机や壁に飾られている絵画、調度品のすべてがセンスのいい高級品で纏められている。
ただゲストルームとかじゃない。明らかに屋敷の主人の部屋――それも執務室というより、個人的な。
「どうして、こんなところに……」
言い掛けて思い出した。
椅子から立ち上がった途端に途切れた意識。支えられたときの香り。お兄様の言葉。
思い出すと同時に血の気がなくなっていくように感じる。
『すまない。』――どうしてあんなことを言われたのかわからない。わからないけれど、ユリーナが今しなきゃいけないことは、ひとつ。
「フェネック、マックスのところに行くわよ!」
こんなところで寝てる場合じゃない!
寝かされていた寝台から慌てて降りてふかふかの絨毯に足をつけた途端、驚愕に息を呑む。
「えっ、うそ……」
ドレスを身につけるときのコルセットのきつさがない。なにより、いま着ているのは薄衣。それも寝るときに身につけるはずのナイトドレス――。
確かに眠っていたんだから間違いじゃない。けど。
(え。なんで。どうして――?!)
思わず、寝台にあった薄い上掛けを引き寄せて、身に纏う。
「どっ、どっどうしよう、フェネック! マックスのところに行かなきゃ! でもこんな姿じゃ――って、私なんでこんな姿なの?!」
ますます混乱するユリーナの膝の上にフェネックが飛び乗った。『落ち着いて!』とでも言うように、きゅるっ!と鳴き声をあげる。
「お、落ち着いてなんて――」
「なにもしてませんよ、まだ」
くすくす、と楽しげな笑い声が暗がりの中に響いて、ハッと視線を向ける。
怪盗紳士が閉ざされた扉に寄りかかって立っていることに気づいて、ユリーナは眉を顰めた。フェネックも敵を見るかのように尻尾を高くあげ、牙を見せて威嚇する。
ふたり―ひとりと一匹―の様子に彼は笑いを堪え、軽く両手をあげて見せた。
「そんなに警戒しないで。貴女を着替えさせたのは殿下お付きの侍女ですよ。言われたんです、貴女の心の天秤を傾けるには、既成事実を作るしかないと」
「っ、なん――?!」
「正直、最初はそうしてしまえ、と思いました。貴女を手に入れられるなら、どんな手を使ってもって思ったんです」
扉から離れてゆっくりと近づいてくる。
その真剣な眼差しが怖くて、反射的に首を振った。
「いやよ! 冗談じゃないわっ!」
「冗談ではありませんよ、もちろん」
フェネックの低いうなり声が響く。
ユリーナは纏っている上掛けをぎゅっと握りしめて、怪盗紳士を睨みつける。
紳士だと思ったのに。こんな形で裏切られるのが悔しくて、悲しくて――。いつもなら助けてくれるマックスがいない。彼はいつだってユリーナが危なくなる前に傍にいてくれるし、助けてくれていた。今はユリーナ一人で切り抜けるしかないのに、こんなに怖くてたまらない。
「――ですが、どうやら容易い気持ちで貴女を傷つけることができないほど、私は本気で貴女を愛しているみたいです」
ため息混じりに吐かれた言葉に、一瞬息が止まる。
困惑しているユリーナに言い聞かせるようにもういちど、彼はゆっくりとした口調で言った。
「貴女を――傷つけたくない」
近づいてくると、ユリーナの頬に優しく手のひらをあてる。
まるで宝物を扱うかのように、そっと。
「マリアさんは幸せではなかった。国王の我が儘のために愛する男と引き裂かれ、子を身ごもった。その出来事すべてを忘れ、愛する男と一緒になったとしても、なにもなかったようには――心からは幸せになれなかったはずです。殿下も私も不幸の出来事故に生まれてきました。その不幸を再び作り出すことなどできるはずがない。私は先王や現王とは違います。愛する貴女を不幸の連鎖に引きずり込めないし、貴女には幸せに――心から笑っていてほしい。その手助けが私にできるなら、そうしてあげたい」
真摯に語る姿に、胸が温かなもので満たされていくのを感じながらユリーナは小さく首を振った。頬に触れる彼の手を優しく握る。
「母は幸せだった。それはほんとう――ただ、兄がいたらもっと幸せだったってそれだけだと思うわ。私もそう。マックスが傍にいてくれれば、一緒にいてもらえれば幸せなの。ただ、兄もいて、その親友のあなたもいて、そうしたらもっと幸せになれるわ」
父がいて、祖父もいて、私もいた。――母は幸せだと言っていた。あの言葉はきっと嘘でも言い聞かせていたわけでもない。ただ母は、兄も幸せにしたかったのだ。不幸の末に生まれてきたのだと思わせたくなかった。生きていれば、幸せに思うことができるのだと教えたかった。だから、迎えに行ったに違いない。
すべてを受け止めるために。
「たとえ離れていても、なにがあっても、私はお兄様の味方よ。たとえ世界中が敵に回っても、私だけはお兄様を信じるし、愛するわ。――だから、むりやり引き留めておく必要はないって。そう、伝えてほしいの」
でも今は、ユリーナにはしなくちゃならないことがある。
決意を込めて見上げた先で、怪盗紳士は呆れたように苦笑して、手を離した。
「ドレスがそこのドレッサーにかかってます。私は馬車の準備をしてきますので、殿下に見つかる前に急いで着替えておいてください」
「――ごめんなさい」
背中を向けた怪盗紳士に反射的に口にしていた。
準備をしてくれることに対しての言葉だったはずなのに、思いもかけずその言葉が重く部屋の中に響く。
一瞬動きを止めた彼は、すぐに笑いをこぼした。
「こういうとき、淑女は"ありがとう”と言うものですよ」
そのまま、入ってきた扉を開けて出て行く。
パタン、と閉まった扉を見つめて、ユリーナはようやく緊張がほどけるかのように、ため息をついた。
◇
――ほんとうに、バカじゃないのか。
息子としてあまりにも不器用な両親の愛を前に、どうしようもないやるせなさが浮かんでくる。
ただ”愛してる”という言葉を告げるのが、どうしてこんなにも難しいのか。告げるよりも、回りくどくてわかり難くて。
だけど、同時に気づく。
自分がユリーナに告げていた愛の言葉がどれだけ軽かったか。信じてもらえなくて当然だ。
「……父はこれを母に見せたかったんだ」
事故はほんとうに事故でしかなかった。難しく複雑に考えていたのは、マックス自身だ。
置いていかれたわけじゃなく、父はふたりだけで母に伝えたかった。自分の想いを――。大切にしている研究で、母を愛していると素直に言葉にできない代わりに――それとも、なかなか言えない想いをこの研究を見せた後にいうつもりだったのかもしれない。
5年〜6年、10年じゃないその期間には、マックスの知らないふたりの何かがあったのかもしれない。たとえば、5年ごとに想いを告げる、とかなんとか。だって、その冷たい容貌とは裏腹に、母は温室を大切にしていたくらいに花が好きだった。花詞がすらりと出てくるくらいにはロマンチストだったことは知っている。
その母のためにこの研究をしたというのなら、それくらい父は考えたはずだ。これは推測じゃない。
この研究とふたりの性格を鑑みての論理的結論で――。
それが男が言葉にしたことだと思い出して、マックスは笑いたい衝動に駆られた。
(もう、滅茶苦茶だ――。)
「レティは子どもの頃からほんとうに感情を表すことが苦手でな。あの容貌も重なって、周囲からはよく氷の華と言われていたよ。だが、俺とあいつだけは知ってたんだ。感情表現が乏しいからといって、感情がないわけじゃない。そうだろう? あの朴念仁を一途に愛し続けることができたんだ。だが、レティのすべてをザックは受け止めていたんだよ。どちらも伝えあうことが下手すぎて、遠回りしてたんだろうけどさ」
――本心を容易く言葉にできないのはマックスもユリーナも同じだ。
本音ではあるけれど、真剣には伝えられなかったマックスと、幼なじみの関係を守りたくて素直に応じてくれないユリーナ。このまま、両親のようにすれ違って最期の最期に――なんてのは、バカバカしすぎる。
「この花を見たら、母と父はなにか変わったかな?」
絶対零度のなかで咲き誇る、白い花々。一本一本が凛とした高貴な雰囲気を纏っていて、その美しさに見惚れずにはいられなくなる。
「きっかけにはなっただろう。ひとってのは厄介だ。なにかきっかけがないと変わろうなんて思えないだろうからな。ザックも変わろうとしたんだ。おっと、これは推測じゃないぜ。この研究を境にあいつの研究スケジュールは真っ白だったからな」
肩をすくめて、男は愉しげに笑う。
それはきっと、彼が父にした質問の答えだったのかもしれない。
『――ほんとうにレティシアや息子を愛しているのか?』
「だれかを守るためには、愛するためには、変わらなきゃいけないこともあると、俺は思うぜ。ひとってのはは変わることに臆病になる。だからすれ違っちまうけど、そのために言葉があり、行動する身体と頭があるんだろ」
こつん、と頭を小突かれる。
不意打ちのそれをマックスは今度は避けずに甘んじて受けた。代わりに、皮肉気に口元を歪める。
「あんた、まるで愛の伝道師みたいなこというんだな」
一瞬驚いたように目を丸めた男は、同じようにニヤリと笑って、マックスの前にある氷の、更にその奥に美しく咲き誇る白い花に視線を向けた。
「俺はレティとザックがくっついたときから、愛の奇跡について研究してるからな」
「ばかみたいだ!」
「――言ったろ。そういったバカバカしい研究を俺たちは真剣に愛してるってさ」
あくまで男は真剣な表情で言う。
体格や言動、外見とはいっさい不釣り合いな言葉に、思わず噴き出してしまう。
こんなに可笑しい気分になったのは、ユリーナに悪戯を仕掛けたとき以来で、そう思い出すと、とても長い間彼女に会っていない事実が重く圧しかかってくる。
(あぁ、ユリーナに会いたい。)
純粋にそう思う。手を離したのは、二度と会わないと決めたのはマックス自身なのに。
会いたくて会いたくてたまらない。
「……この花はどのくらい咲いてるんだ?」
「そうだな、去年のデータからだと2、3日でまず、花が萎れて同時に氷が溶けていく仕組みになってるらしい――って、おい! どうした?!」
マックスは男の言葉を最後まで聞かずに、踵を返していた。
もどかしく軍手を脱ぎ捨て、冷却室を飛び出し、白衣も脱ぐ。躊躇している時間はない。
研究室を飛び出して、適当な木に結んでいた手綱をはずし、馬に飛び乗る。
今までこんなに急いだこともない。
思えば、あのとき久しぶりに帰宅した父も同じ気持ちだったのかもしれない。いつもは帰ってきたらすぐ書庫に向かう父が母を捜しに温室まで来たことも。すぐに母を連れだしたことも、珍しくて。母も気づいていて、素直に父についていった。
もしも事故に遭わなければ――あのふたりは、何かが変わっていたかもしれない。もう変えられないけれど、マックスとユリーナは違う。まだ、間に合う。
馬を急がせながら、ユリーナのことを考える。
真剣だと伝えよう。今までも本気だったけれど、根本的なものが違う。からかったり、誤魔化したりするんじゃなく、ユリーナの気持ちも真剣に聞いて、まっすぐ受け止めよう。
たとえ振られても、幼なじみの関係が壊れても、もう逃げない。
“愛してると――”伝えて、それから。
キィ――ッ!!!
ふと、車輪が軋む音が聞こえたような気がして、ハッと我に返り前方を見る。
崖の内回りを曲がろうとしていた馬車がスピードに耐えきれず、車輪がはずれようとしていた。そのまま、斜めに傾き、猛スピードで走っていたマックスの前に塞がり、慌てて手綱を引こうとして――。
「きゃあっ、止まって! 止まってってばっ! ちょっとっ、止まってぇー!」
響き渡る声。
聞き覚えのあるその声に、まさか、と息を呑む。
(こんなところにいるはずがない――。)
そう思いながらも、胸によぎる予感に、止めようとした馬を走らせる。巻き込まれないよう、馬車の座席に追いついて見ると。
「マックス?! なんでっ……??」
馬車の座席にいる女性と目が合った。
「ユリーナ??!」
――幻影?
じゃなさそうだ。一瞬で、現状を把握する。
このままだと、あと少し走ったら馬車は横転してしまう。
マックスは斜めに走り続ける馬車の横に急いで並びつけた。
「飛び移るんだ、ユリーナ!」
「なっ、」
「受け止める! 何があっても受け止めるから、信じろっ!」
驚愕に息を呑むユリーナに叫ぶ。
そうしてる間にも、バランスがとれない馬車は曲がりきれずにまっすぐ崖側に走っていく。このままだと馬もろともに崖に落ちるか、車輪がはずれて横転し、馬と座席のつながりがはずれてユリーナの座っている座席だけが落ちるか。どっちにしてもユリーナは助からない。
そう考えただけでゾッとする。迷っている時間はない。
「ユリーナ!」
マックスがそう叫んだ瞬間、逡巡していたユリーナは覚悟を決めた目でマックスを見た。
彼の好きなユリーナの澄んだ瞳。そこに写る彼は、今までにない真剣な顔をしていることに気づく。
今まではそれが怖くて逃げ出してばかりいたけれど。
ユリーナの手が座席の縁を強く握ったのがわかった。
瞬間、
「マックス!」
距離が足りないのはわかっていた。
だからマックスはユリーナが跳んだと同時に馬の横腹を蹴り、同じようにユリーナに飛びつく。そのまま彼女を腕の中に囲い込んだ。
すぐに背中に強い衝撃を受ける。それでも、ユリーナをぎゅっと抱き締める腕に力を込めた。