■ ハイデンホルムの恋人たち ■
――マックスに会いたい。
ユリーナを突き動かしているのはただ、その想いだけだ。
行ってくださいっ、怪盗紳士は剣を受け止めながらそうユリーナに向かって叫んだ。
(どうして――?)
あれから動きやすいドレスに着替えて、怪盗紳士の案内で馬車小屋まで忍び込み、あとは乗って逃げるだけだったのに。
なぜかお兄様が剣を抜き放って、ユリーナたちの進む道を塞いでいた。
「おまえも、俺をひとりにするのか?」
明るかった目には暗い炎が揺らめいていて、今にも飛びかかってきそうな剣呑な雰囲気を纏いながらも、とても寂しそうな表情を浮かべているように見える。たった独り、見知らぬところに置いて行かれた子どものように、今にも泣き出しそうで。
違う、と言い掛けて、馬車の手綱を隣に座っていたユリーナに渡して、怪盗紳士が降りていく。
「申し訳ありません、殿下。私にはあなたの妹君を傷つけることなどできない」
「傷つけるんじゃない、なぜわからない、レイ! 必要なんだ。おまえも、ユリーナも!」
血を吐くような叫び。
『行かないで、おかあさん!』
お兄様の縋るような瞳がそう言っているようだった。拒絶されて帰っていく母の後ろ姿をそんな表情で見ていたのかもしれない。
王室でもお兄様は大切にされていた。愛されていた。だから、思うがまま母に抱きつけなかったに違いない。そうすれば周囲を、愛してくれている人を傷つけると――。
わかっていても、母が恋しいと思ったときもあったはずで。生まれてきた経緯を知って傷つかなかったわけでもなくて。幼い子どもが母親の手を取れないことがどれだけ深い傷をつけるか、ユリーナにはわからない。それでも、ユリーナに執着する兄は間違っている。ユリーナは母じゃない。
ユリーナにはユリーナの大切なひとがいる。だれよりも、傍にいたいひとがいる。無条件に兄だけを愛することはできない。傍にいることができない。だから。
手綱をギュッと握りしめる。
「お兄様。私――会えてよかった。この世界に血の繋がりのあるあなたに会えて良かったと思うわ。どこにいても、たとえもう会えなくても、あなたが幸せであるようにいつも祈っているし、なにかがあったときは私がいることを忘れないで。なにがあっても、世界中が敵に回っても、私はお兄様の味方だから」
「ダメだ! ユリーナ、行くな!」
お兄様が剣を振りかざす。
怪盗紳士はそれを自らの剣で受け止めると、ユリーナに向かって叫んだ。
「早くっ、行ってくださいっ!」
ユリーナは彼に向かって頷くと、手綱を動かした。
「ユリーナ!」
切望する、悲鳴のような声を耳に残して。
がむしゃらに手綱を動かし――で、どこをどう走ったのかわからないまま。
気づいたときには、車輪が軋んだ音を立てていて、道は砂利だらけの山道で、片側は崖――。
きゅぅん、きゅーん。
ぺろぺろ。きゅぅん、ぺろぺろ。
頬を舐められるくすぐったさに気づいて、目を開ける。
――真っ暗だわ。
じゃなくって。
意識がはっきりしてきて、状況を思い出した。
慌てて顔をあげて、マックスを見る。落ちたときにはしっかりと抱き締められていた腕はあっけないほどに容易くはずれた。
「っ、マックス!」
ユリーナが起きあがると、彼の身体はごろりと転がった。
その力のなさと閉じられたままの目。返事がないことに、みるみる血の気が引いていく。
「マックス! ちょっ、やだ! 死なないで!」
(打ち所が悪かったというの……?!)
ぴくりとも動かない身体に取り縋る。
「なっ、やっと会えたのに! マックス! 返事して! 怒るわよ!」
嘘でしょっ、
――――なんで。
それこそ、ほんとうに死ぬ思いで会いに来たのに。
こんな――こんな結末……。うそ。
涙が溢れて、流れ落ちて、マックスの頬を濡らす。ぴくりと、彼のまつげが震えた。
「勝手に殺さないでほしいんだけど……」
ゆっくりと見えてくる深く青い瞳に懐かしさを覚えて、ユリーナはほっとした。同時に怒りがふつふつとわき上がってくる。
「なによっ、生きてるならちゃんと返事しなさいよ!――このばかっ!」
「相変わらずだね、ユリーナ……っ、」
起き上がろうとしたマックスは急に顔を歪めて咳込む。
ああ、骨が何本かいったかも……、そうつぶやく言葉に、血の気が失われていく。
「心配ないよ、たいしたことじゃない。ユリーナの顔こそ今にも死にそうだ」
いつもの飾らない不躾なマックスの言葉に、間違いなくマックスだと感じる。
なんでこんなところに、と言い掛けたユリーナの言葉は急に背中に回った力強い腕に遮られた。
「――会いたかった」
耳元で、今まで聞いたことがないくらい真剣に囁かれた言葉に驚く。今までも聞いたことがあっても、こんなに切実に、本気だとわかる想いの込められた声で聞いたことはなかったような気がする。
「ユリーナに会いたかった」
「――うん。私ね、迎えにきたの! マックスを迎えにきたのよ!」
マックスの背中に腕を回して抱きつきながら、彼の腕の中で見上げながら言う。
一瞬、ぴくりと身体が震えて止まる。何を言われたのか考え出したマックスはすぐに悪戯っぽい表情になった。
「僕がどこにいるかもわからなかったのに?」
確かに、偶然こうして会うことができたけれど、マックスがどうしてこんなところにいるのか、ユリーナにはわからなかった。この崖沿いはハイデンホルムとは反対方向にある。
そうだけど――。でも。
「いいの。マックスがどこにいたって、いつでも私は迎えに行ってあげる! 独りになんてしないもの! してあげないっ!」
幼い子供の頃のように宣言して、約束する。
昔なら、そんなユリーナをからかって、冗談にして信じなくて、逃げ出して。一方的な押し付けしかしなかったマックスが、目の前で悲しげに顔を歪める。
「こんなに髪をくしゃくしゃにして――」
「ひっ、必死だったんだもの!」
慌てて髪を撫でつけようとして、その手をマックスに取られた。
「……やっぱり君は淑女になんてなれないね。プリンセスには……させられない」
マックスが身体を離す。少しできた距離で、見つめ合う。いつもは感情があまり浮かんでいない青い瞳が今はより深く、熱でとろけそうに潤んでいて、ユリーナはその目に戸惑う。
「マックス?」
「ユリーナ、愛してる」
何度も耳にした言葉。
だけど、今までにない真剣で、心が込められている言葉に、息が止まりそうになる。
「愛してるよ、ユリーナ」
止まっていた涙が、堪えきれずに溢れてくるのを感じる。
初めて――マックスの言葉が心に響いて。一方的な押しつけじゃなくて、心からユリーナを想って言ってくれているのが伝わってきた。
ユリーナは胸が熱くなる。苦しくて苦しくて――嬉しくて。
返事をしたいのに、言葉が出てこない。
何度も何度も頷く。何度も――。
そうしてほんの少し、嗚咽が治まったときに、マックスに精一杯の笑顔を向けて、抱きついた。
「知ってるわ、マックス。私も、あなたを心から愛してる!」
幼馴染の関係は終わってしまうけれど。
――それでも、ユリーナとマックスの関係が終わるわけじゃない。
また、新しい一歩を踏み出していける。別の形で、もっと強い絆で――。
「ハイデンホルムに帰ろう、ユリーナ」
そう促すマックスに頷いて、ユリーナも繋いでいる手を強く握り返した。