■怪盗紳士と事件の始まり■
ユリーナは扉の前で思案していた。
記憶が正しければ、ここは祖父の執務室。使っていないときは鍵が掛かっているはず。
けれど、確かに追いかけていた青年はこの部屋に入った。
遅れて後を追ったユリーナは部屋に入る姿を見ることは出来なかったが、パタン、とこの扉が閉まる音を聞いた。
(どうしよう……?)
勝手に入るのは気が引けるものの、それでも誘惑には勝てずに一瞬の躊躇いの後、ユリーナは思い切って扉を開けた。
ふわり。
開けた瞬間、風を感じる。
部屋の奥の窓が開いていて、カタカタと音を立てていた。
「うそ………」
まさか、窓から逃げたの?!
信じられない気持ちで窓に駆け寄る。この部屋は三階にあって、下を覗けば当然ながら地面はとても飛び降りられる距離にはない。
ユリーナが呆然と窓から下を見ていると、不意にパタン、と扉の閉まる小さな音が聞こえた。訝って振り向くと、扉に寄りかかってユリーナの追っていた青年が立っていた。
「どなたかお探しですか?」
クスクス、とおかしそうに笑いながら青年が言う。
唐突な出現に一瞬、ユリーナは言葉を失った。
それを見て取ると、青年はもたれていた扉からぐらりと背中を起こして、優雅な物腰で恭しく礼をとった。
「これは失礼。驚かせてしまったようですね」
言葉とは裏腹に、青い目には悪戯が成功した子供のような煌いた光が浮かんでいる。
ユリーナはハッと我に返った。
「あっ、あなたが怪盗紳士ね?!」
開口一番、そう言葉にするユリーナに驚いたように青年は目を見張った。
「怪盗紳士? 私が?」
寝耳に水とばかりに聞き返されて、ユリーナは眉根を寄せる。
視線が合った瞬間、直感的に彼が怪盗紳士だとそう思った。だから、追いかけてきたのに。
青年の驚きように、ユリーナは自信をなくした。
「…………違うの?」
不安そうな表情を浮かべるユリーナを見つめる青年の瞳に何かを楽しむような光がよぎった。
やがて、笑みを含んだ声で告げる。
「ご名答、と言っておきましょうか。まさかこんなにも早く見破られるとは思っていませんでしたが」
「なっ…!」
からかわれたっ!
そう気づくと、途端にユリーナの感情に火がついた。
「一体どういうつもり?!」
「なにがです?」
「あの予告状に決まってるでしょ?」
苛立った口調で言うユリーナに対して、青年 ―― 怪盗紳士は変わらず冷静に返した。
「あの通りですよ。貴女の身柄を頂きに参りました。というわけで、ご一緒していただけると助かります」
微笑みを浮かべて手を差し出してくるその姿を、ユリーナはキッ、と睨みつけた。
「冗談じゃないわ!」
「もちろん、私は本気ですよ」
「どうして私が泥棒を助けないといけないの?! 盗むのがあなたの仕事でしょっ?」
ユリーナの放った言葉に、怪盗紳士は沈黙する。重くなっていく空気に耐え切れないようにユリーナは更に言葉を紡ごうとしたが、逆に怪盗紳士が堪えきれなくなったように笑い出した。先ほどまで浮かべていたような上品な微笑みではなく、本当に楽しそうに ――― 。
それを見て、ますますユリーナは不機嫌になった。
「ちょっと!」
腰に手をあてて、文句を紡ごうとするユリーナになんとか笑いをおさめた怪盗紳士が言う。
「……これはこれは、面白いお嬢さんですね。確かに、貴女の言うとおり。
では、お仕事をしましょう」
じりっ、と。
怪盗紳士はユリーナの方に足を進めた。反射的にユリーナは後ずさる。けれど、後ろは窓ですぐに行き詰った。
(もうっ、マックスは一体何をしてるのよっ?!)
何も言わずに来たばかりか、祖父が止めるのも聞かずに追いかけてきたことは棚に上げて、ユリーナは心の中でマックスに文句を言う。
だが、勿論それで助けに来てくれることはあり得ないし、自分で逃げようにも、唯一の逃げ道である扉は怪盗紳士のちょうど向こう側にあって、避けて行けそうにはない。
そう思案を巡らせてる間にも、怪盗紳士は近づいてきていた。
「そ、それ以上、近づいたら大声出すわよっ!」
精一杯のユリーナの脅しに、怪盗紳士はクスッ、と微笑む。
「そうなると少しばかり手荒い行為を受けてもらうことになりますね」
「……っ!」
怪盗紳士の青い目がまっすぐユリーナを捕らえる。
また一歩、足を進めた怪盗紳士に堪えきれず、ユリーナは大声をだそうと口を開けた。
「キ……」
「キャアアアアアアアッ!!!!!!!」
耳に響く悲鳴に、ユリーナは呆然となる。
「今のは……」
「わっ、私じゃないわ」
そう答えながら、ユリーナは悲鳴の聞こえてきた方向を探ろうと視線を動かした。途端、また叫び声が聞こえる。
「だっ、誰か ―――― っ! か、怪盗紳士がっ!!!」
続いて聞こえてきた言葉に、思わずユリーナは耳を疑う。怪盗紳士に視線を向けると、彼もまた驚いた表情を浮かべていた。
「……怪盗紳士ってひとりじゃないの?」
呆然と問いかけるユリーナに目を合わせて、怪盗紳士は苦笑する。
「私だけのはずですけどね」
困惑する彼の横を通り過ぎて、ユリーナは駆け出した。止める様子もなく、怪盗紳士も後に続く。
騒ぎは、一階のホールへ向かう階段で起こっていた。
叫び声を聞きつけて、すでにそこには多くの人が集まっている。ユリーナが周囲を取り囲む人たちを掻き分けて進むと、絨毯にうつぶせに倒れている男性と必死に男性を揺らす女性の姿があった。
「あなた! しっかりしてっ! お願いっ!」
「大丈夫ですか?!」
状況はいまだわからなかったが、ユリーナはとりあえず女性の傍に座って声をかけた。
視線を向けると、男性の頭からは血が流れ出していた。
「お願いっ、医者を呼んでっ!」
女性はユリーナに向かって懇願する。頷いて立ち上がろうとしたユリーナの肩をぽん、と叩いて、誰かが男性の傍に進み出た。
「私は医者です。あまり揺らさないで下さい。頭に異常があるといけません」
そう言いながら、男性の首筋に手をあてる。
ユリーナはギョッ、とした。
医者だと名乗った青年はさっきまで一緒にいて、自分を怪盗紳士だと言っていたのだから。
青年は暫らく手首の脈を測ったりしていたが、眼を調べるとやがて静かに首を横に振った。
死んでる ―――― 。
ユリーナの脳裏にそう、浮かんだ。
「嘘っ! あなたっ?!」
女性の悲鳴がひときわ高くなる。
「いやぁ ――――― っ!!!」
男性の身体に縋って泣き伏せる女性に、重苦しい雰囲気が周囲を支配した。