■仮面をつけた男■
あの怪盗紳士が遂に人を殺した ――― 。
その事実は新聞の一面を見事に飾って、首都中を揺るがせた。
ある者は、「とうとう…」という気持ちになり、ある者は「あの怪盗紳士が、そんなはずない…。何者かの陰謀だ」と騒ぎ立てる始末。
新聞社を始め、警察にまでも朝から押しかけてくる連中が大勢いたという。
それは事件現場にもなった、侯爵邸においてさえも。
「……困りましたわね」
侍女の一人が窓際に視線を向けて、ため息をついた。
紅茶を飲んでいたユリーナは侍女の視線を追っていって、一気に不機嫌になった。
そこでは、どうやって登っているのか、屋敷を取り囲む壁の上でカメラを構えている男たちの姿があった。庭師のホルズがそれに気づいて、箒で追い払う ――― そんなやりとりが朝、ユリーナが起きてから数十回となく繰り返されていた。
「ホルズさんももうお歳ですのに、あんなにされては腰を痛めてしまいますわ」
深いため息を落とすと、侍女は用事を済ませるために部屋を出て行った。
ユリーナと、向かい側のソファに寝そべって欠伸交じりに新聞を読んでいるマックスだけが残される。
「本当にどうにかしないと……」
思案に耽りながら呟くユリーナに、ちらりとマックスが視線を投げる。
「その必要はないよ」
感情のこもらない声で、マックスはそう言うとソファから身を起こした。
冷たく感じるその言葉に、ユリーナは驚いた。
「どういう意味?」
「……自業自得だから」
一瞬、ユリーナは絶句した。
マックスは深い青色の瞳にユリーナをうつして、淡々と口にする。
「怪盗紳士が人を殺していようがいまいが、犯罪者は犯罪者。疑われて当然。リムダン伯爵も裏では相当、悪いことをしていたみたいだからね。恨まれて殺されても仕方がない。二人とも自業自得。しいてあげれば、僕たちは巻き込まれただけ。何とかする義理はないし、周囲の騒動も放っておけばそのうち治まるよ」
そう言うと、飲みかけの珈琲を一気に流し込んで、マックスは読み終えた新聞を折りたたんだ。興味はないとばかりにテーブルの上に置かれたそれを見て、ユリーナの胸がチクリと痛む。
(わかってる。わかってるけど ――― 。)
視線を逸らした先で、庭師のホルズが痛む腰を抑えて、それでも懲りずに壁に群がる人たちを追い払っている姿を見つける。
昨夜見たリムダン伯爵の奥方が泣いていた姿が浮かぶ。
なにより ―――― 。怪盗紳士だと名乗る男は自分と一緒だった。
事実を黙っていて、関係ないとばかりに素知らぬ顔をしているのは自分らしくない。
ユリーナはそう心に決めると、勢いよく立ち上がって玄関に向かう。
「どこに行くわけ?」
「リムダン伯爵の奥様のところよ。このままなんて納得できないもの!」
毅然として言うユリーナに、仕方ないとばかりにマックスはため息をつく。
恐らく、自分の推測が正しければ、間違いなくユリーナはこの事件の結果に傷つくことになるだろう。それくらいなら、犯罪者に罪を擦り付けて、一応の解決にしてしまえと思っていたのに。
最も一方ではそれでユリーナが納得するはずないとも思った。だからこそ、あの小動物を動かしたのだから。あくまで保険のつもりで。
マックスは立ち上がると、ユリーナの後を追いかけていった。
開いている窓のわずかな隙間から風が入り込んでテーブルの上の新聞をはためかせる。一面には『リムダン伯爵と奥方の純愛、悲しき結末?!』といった見出しが書かれていた。
――― ガタン、ゴトン。
沈黙が続く馬車の中。道を走る音だけが聞こえる。
密室と化している空間で、その重さに耐え切れなくなったようにユリーナは不満げな表情を浮かべ、斜め向かい側に座るマックスに視線を投げた。当然のようにそこに座って本を読んでいる姿が、なぜだかユリーナの気に障る。
「……マックス、どうしてついてくるのよ?」
本を読んでいたマックスは顔をあげて、当たり前のように言う。
「理由はたくさんあるけど、比重が一番多いのはお目付け役だからかな」
「結構よ!」
ムッとしてユリーナは叫んだ。
幼い頃でもあるまいし。お目付け役なんて必要ない。
「じゃあ、」
「婚約者だからなんて冗談を言ったら、今すぐ馬車から放り出すからね!」
マックスの言葉を先回りしてユリーナが言うと、彼はパタンと読んでいた本を閉じた。
青く澄んだ目にまっすぐ捉えられて、ユリーナの身体がびくりと強張る。
「……な、なによ?」
それでも気丈な態度を見せるユリーナに、静かな口調でマックスは話しかけた。
「ユリーナ、昨夜の浮気を心配してるなら気にしなくていいよ。僕は信じてるから」
一瞬、ユリーナの思考が凍りつく。
(…………浮気?)
思いもよらないマックスの言葉に、昨晩の光景が思い浮かぶ。
レイモンドとのことを言っているのだろうか ――― 。
つまり、マックスの今の言葉を分析すると、彼以外の男性と一緒にいたことに気が咎めて、ついマックスにあたっていると。
ぶるぶる、と握り締めていたユリーナの手が小刻みに震える。
「そっ、そんなわけないでしょ―――――ッ!」
馬車の中、ユリーナの叫び声は響いたけれど、しっかりとマックスは両耳を塞いでいた。
結局、誤魔化されたことにユリーナは気づかないまま、馬車は目的地まで走り続けた。
★☆★☆★
―――― 夫の遺体はまだ、警察にありますの。
訪れたユリーナたちを屋敷の中へ迎え入れてくれた伯爵夫人はそう言って、寂しそうに微笑んだ。
「本当に伯爵夫人には申し訳なく思っています。パーティーに出席くださったためにこんなことになるなんて…………」
悲痛な顔を浮かべるユリーナにソファから立ち上がった伯爵夫人は近寄ってその手をそっと握る。
「お気になさらないで下さい。悪いのは犯人 ―― 怪盗紳士ですわ。けしてユリーナさんのせいではありません」
力強い口調の言葉に罪悪感は消えないまでも、慰めを掛けられて、ユリーナは優しい伯爵夫人に感謝をした。
ふと、隣を見ればマックスは相変わらず飄々とした態度で珈琲を飲んでいる。勿論、伯爵夫人が視線を向けていないことはわかっているのだろう。ユリーナの咎めるような視線に気づいたのか、マックスは音も立てずにカップを皿の上に戻すと、悲しげな表情を一瞬で作った。
「昨夜のことを思い出されるのは大変お辛いと思いますが、いくつかお聞きしたいことがあります。よろしいですか?」
気遣うような声音とともに、美しい顔に労わるような表情を見せられて、優しく問いかけられる。それで今まで頷かなかった女性をユリーナは見たことがなかった。ユリーナから離れて、マックスの正面のソファに座り直した伯爵夫人も例外なく、うっとりとマックスの顔に見惚れるように頷いた。
心の中でユリーナは(詐欺師!)と悪態づく。
「伯爵が倒れられていたとき、怪盗紳士が夫を突き飛ばして逃げていった、と言いましたよね。なぜ、怪盗紳士だとわかったんですか? 誰も彼の顔を知るはずがないのに」
その言葉に、夫人は思案するように ――― あるいは思い出そうとするかのように眉根を寄せた。
誰も、と言う言葉に一瞬ユリーナはぎくりとなった。ちらりと視線を向けたマックスは、すぐに戻す。
「実は ―― 、お二人にだから話しますけれど、夫を突き飛ばした男は仮面をつけていたんです」
「仮面……?」
思ってもいなかった言葉に、ユリーナが息を呑む。
伯爵夫人は「ええ、」と頷いて続けた。
「今回の侯爵様主催のパーティーに怪盗紳士の予告状が届いたことは周知のことでしたでしょう」
ユリーナは初めて聞いた事実に驚いて、マックスの顔を見た。
予告状のことは内密にされていると思っていた。知っているのは、ユリーナ本人とマックス。侯爵と警察だけだと。
「秘密はどこかしら漏れるものですからね」
悪戯っぽい笑みをマックスは浮かべる。
それはまるでユリーナにも聞かせるような言葉だった。
夫人はマックスの言葉に同意して言う。
「そう。――― それで、その仮面をつけて黒いマントを羽織った男が怪盗紳士だとすぐにわかりました。仮装パーティーでもないのにそのような姿をする男は他にいませんわ」
思わずユリーナは立ち上がって、訊いた。
「それなら伯爵夫人は、仮面とマントをつけた男を見ただけで、その男が自ら怪盗紳士と名乗ったわけではないんですね?!」
その勢いに押されるかのように夫人は戸惑った表情で頬に手をあてて頷く。
「そう言われれば、そうかもしれませんけれど。でも、警察の方々も私の話しを聞いたら、怪盗紳士に間違いないと……」
その言葉にユリーナはソファに座って息をつく。
確かにあの時、怪盗紳士だと名乗る男に実際に会っていなければ、ユリーナ自身もそう思い込んだかもしれない。
「どちらにしても、今回のことは事故だったのですわ。運悪く夫は階段から落ちたのですから」
そう言葉にした夫人の眦に涙が浮かぶ。
そっと、マックスはポケットから白いハンカチーフを差し出した。
「優しいですわね」
ふわりと微笑んで、夫人はそれを受け取ると涙を拭いた。
「運悪く ―― ですか」
マックスは感情のこもらない口調で夫人の言葉を繰り返した。
長年の付き合いから、ユリーナは知っていた。マックスがそんな言い方をするときは決まって何か引っ掛かっているときだ。
ユリーナが問いかけようとしたとき、扉を叩く音が鳴った。
夫人が許可の声をかけると、ひとりの青年が姿を見せる。
「 ――― 奥様、ただいま戻りました」
扉の前でそう言った青年は、ブロンドの髪と、ブルーの瞳をしていて、整った顔つきだったが、その顔色は幾分か青ざめていた。
「待って。紹介するわ」
すぐに踵を返して部屋から出て行こうとした青年を呼び止めると、夫人は傍へと招く。
「彼はアレン=ソート。私の従弟で、ここで働きながら学校に通っているんです。弁護士になりたいと、来年はサウスにあるハートン大学を目指していますの」
その大学の名前はユリーナも聞いたことがあった。
父親の卒業した大学で、講習の依頼が時々きていた。弁護士を目指している若者は大抵この大学を目標とするらしい。ただその門はかなり狭いらしいが ――― 。
「優秀なんですね。ユリーナ=セルアンです」
ユリーナが名乗ると、アレンは驚いたように目を見張った。
「あの、セルアン弁護士の ――― ?!」
「えっ…、ええ。父は確かに弁護士ですが……」
戸惑いながら頷くと、アレンはどこか興奮したように口を開いた。
「弁護士を目指しているものにとっては、セルアン氏は憧れの存在 ―― 、もはや伝説上の存在ですよ! 絶対に不可能だと言われる裁判をあっさりと翻して、数え切れないほどの人たちを救ったという」
英雄です、と惜しげもなく言われる賞賛の言葉に、ユリーナは父に対して誇らしげな気持ちとくすぐったい想いを感じた。
「ご令嬢にお会いできるなんて、光栄です」
そう告げるアレンに対して、マックスも挨拶するために一歩進む。
「僕は ――― 」
「彼は幼馴染の、マックス=フォワードです」
幼馴染、という言葉を強調するように、ユリーナが遮ってマックスを紹介した。ふと気づいて、伯爵夫人が言う。
「あら、婚約なさったのではありませんでしたの?」
冗談じゃありません、と答えようとしたユリーナを仕返しとばかりに今度はマックスが遮った。
「ユリーナは照れ屋なんです」
にっこりと、なぜか嬉しそうに微笑むマックスの姿が惚気ているように見えたのか、夫人とアレンは納得した。
「 ――― まあ、初々しいのですね」
くすりと、微笑む夫人に、ユリーナは「違います!」と出かかった言葉を飲み込むしかなかった。