■明快な動機と呆れた真実■
明日、ユリーナの知りたかった真実がわかるよ。
そう言って、納得できないといった不満そうな顔をしているユリーナを置いて、侯爵邸に与えられている自室へと戻った。自分の屋敷も持っていたが、余程の用事がない限り、戻ることはしない。まして、ユリーナがこの屋敷にいるのなら、同じ屋根の下にいたいという気持ちもあった。
「……まったく、僕はこんなに素直なのに」
ため息混じりに呟いて、首元で結んでいたタイを外すと無造作に椅子に放った。
いつだって素直にユリーナに言葉をかけているのに、いつも冗談にとられてしまう。マックスにとってそれは不思議でたまらないことだった。
ふと、昼間ユリーナが口にした言葉を思い浮かべた。
『でも、私には傷ついても、癒してくれる大切な人がいるから ―― だから、傷つくことになっても目を逸らしたくないって思えるの』
それでも、と。マックスは脳裏に浮かんだユリーナに向かって、言う。それでも、傷ついて欲しくない。人は傷つくことで、心がどこか擦れてしまうことを否めない。今まで、マックスはそういった人たちを多く見てきた。傷つけば、人は変わってしまう。良い意味でも、悪い意味でも。
ユリーナには、そのままでいてほしい。変わらないでいてほしい。だから、ユリーナを傷つけるような真実を暴く気にはならなかった。害があるわけじゃない。降りかからない火の粉なら、放っておく。
けれど、ユリーナは納得しなかった。
それなら仕方ない。放っておいて、ユリーナが勝手に動けば危険な目にあわせることになるから。さっさと解決して、後は ―――― 信じるしかなかった。
この十数年間、変わらなかったユリーナの心を。
まっすぐに見つめてくる意志の強い光を浮かべたブラウンの目。脳裏に刻まれているそれに、マックスは息をついた。
窓に歩み寄り、締め切られていたカーテンをわずかに開けると、ユリーナの部屋の明かりが消えた瞬間だった。
―――― そういえば。
マックスは侯爵邸に戻ってきたとき、ちゃっかりユリーナの帰りを待ってその腕の中へと飛び込んでいた小動物のことを思い出した。
マックスと顔を合わせないようにしていたが ――― 。カーテンを戻して、ぐるりと部屋の中を見回す。
視線は机の上で止まった。
何もなかったはずのそこには汚らしい封筒がいくつか、バラバラに置かれていた。端々に、恐らく小動物のだろう。小さな牙の跡がいくつかあるのはご愛嬌とでも言うつもりだろうか。元は新しく綺麗だったはずの、白い封筒を開けて、マックスは次々に読み始めた。
やがて、ポツリともらす。
「こんなものを残しているうちは立派な犯罪者だとはいえないな」
最も、突発的ともいえるこの事件を犯した者が、そんなものを目指しているとも思えないが。どちらにしても。
―――― これで証拠もそろった。
マックスはもう一度、ブルーの目をユリーナの部屋がある方向に向けた。
★☆★☆★
青年は苛立ちをあらわすように、親指の爪を噛んだ。
(なんでこんなことになったんだ?)
思い返しても、自分の過ちは見つからない。途中までは確かに上手くいっていた。
あの男のせいだ。
あの男が、気紛れを起こしさえしなければすべて上手くいっていたんだ。
「死んでも、俺の邪魔をする気か?」
忌々しげに言い捨てる。舌打ちしそうになるのを何とか堪えて、思考を巡らせた。
何とか今の状況を打破する方法を。未来はひとつしかない。栄光と賞賛に輝く未来。最早、それしか目に入らない。
ふと、昨日の出来事を思い出した。そこで出会った一人の少女を ―――― 。
「既成事実さえ作ってしまえばどうにでもなるさ」
身分も問題ないどころか、たちまち将来が開けてくる。この状況を裏返すには、うってつけの素材だ。
そうと決まれば、急がなければ。
椅子と対になっている机の引き出しを開ける。白紙の便箋を取り出して、ペン先を黒インクで浸し、書き始めた。
五分と経たないうちに書き終えて、内容を確かめる。
青年はふっ、と笑みを浮かべると、便箋を折りたたみ、同じ白い封筒に入れた。
★☆★☆★
ユリーナは周囲を見回して、ため息をついた。
手元には一枚の紙。
地図が書かれていて、丁度ユリーナがいるこの場所を示す所は四角で囲まれ、斜線が引かれてあった。
『突然の手紙で失礼します。どうぞ、伯爵夫人のことで相談に乗っていただけないでしょうか。もしよろしければ、地図で示す場所でお待ちしております。外聞もありますので、どうかおひとりで、他の方には内密にお願い致します』
地図に添えて書いてあった言葉。
早朝に届けられた手紙に、緊急を感じてユリーナは慌てて出かけてきた。
内密、とも書かれてあったから家の馬車は使わずに、そっと屋敷を抜け出して乗り合い馬車でここまできたけれど。
(……本当にここで間違ってないわよね?)
もう一度、地図に視線を落とす。
首都と言っても、その館は外れにあった。
周囲は森に囲まれていて、自然が溢れているようにみえる。だが、あくまでもそう見えるだけで目の前に立つ館は自然を堪能するためというよりも、隠れて密会するためにひっそりと建てられた、そういったほうが似合うような気がした。
「やっぱりマックスについてきてもらえばよかったかな……」
あまりに似つかわしくない雰囲気を前にして、ユリーナは弱気な言葉をもらした。それを自覚して、首を横に振る。
「マックスに頼るなんて、どうかしてるわ」
ひとりだって、だいじょうぶ。
言い聞かせるように思って、手の平を握り締める。そのまま、館の扉を叩いた。
数分と経たずに扉が開いて、ユリーナを呼び寄せた本人が姿を現した。彼はユリーナに気づくと、にっこりと微笑んだ。優雅に挨拶を繰り出す。
「お越しいただいて有難うございます、ユリーナさん」
ユリーナも見知った顔にほっと胸を撫で下ろした。場所は間違ってなかった。
笑顔を浮かべる。
「こんにちは、アレンさん。お手紙を受け取りましたわ」
「ええ。来て頂いて助かりました。どうぞ中へ」
伯爵夫人の従弟であるアレンに促され、ユリーナは頷いて館の中に足を踏み入れた。
外観から見るよりも、意外に館の中はとても綺麗に片付けられてあった。
「あまりに辺鄙なところにあったので、驚いたのでは?」
通された部屋のソファに座っていたユリーナは周囲に向けていた視線を慌てて向かい側にいるアレンに戻して思わず「そうですね」と素直に頷いていた。
え、と。驚いて目を見開くアレンに、慌てて否定する。
「あっ……、ご、ごめんなさい」
思わず脳裏に浮かぶ「社交辞令」という言葉。わかっていても、ユリーナは慣れていなかった。こういう時はマックスの外面を羨ましく思うときがある。勿論、その何十倍も苦々しく思うことのほうが多いけれど。
「素直な方ですね。貴女のような女性には今までお会いしたことがないですよ」
嬉しそうに言って、アレンはソファから立ち上がると、ユリーナの隣に移動した。
近づく距離とアレンの重みの分だけ傾くソファに、ユリーナは居心地の悪さを感じる。思わず、身が竦んでしまう。
居心地が悪くて、ユリーナは慌てて口を開いた。
「あの、伯爵夫人のことで相談って、何かあったんですか?」
即座に切り出された本題に、アレンは眉を顰めた。
(年頃の娘なら、もう少し頬を染めて照れるなどの仕草を見せるものだが。)
予想通りではない反応にアレンがそんなことを思っているとは気づくはずもなく、ユリーナは伯爵夫人を心配した。マックスと警察で伯爵の真相を聞いてからずっと、伯爵夫人のことが心配で気にかかっていた矢先にきた相談で、もしかしたらそのことではないかとユリーナは思い切って口を開いた。
「もしかして、伯爵さまと……、その、女性関係のことで不安になっているとか……」
ぴくりとアレンの動きが止まる。だがそれもユリーナが気づかないほど一瞬で、不可解そうにアレンは顎に手を当てる。
「……伯爵さまの女性関係ですか?」
その声が震えているように聴こえるのは、気のせいかしら、とユリーナは「ええ」と頷きながら訝った。
「気分を害さないで聞いて下さいね。昨日、実は伯爵様には女性といざこざが持ち上がっていたことを知ったんです。警察の捜査では、それについては一時中断ということになっていたらしいんですけど……」
そこまで言ってから、ユリーナはハッと息を呑んだ。アレンの顔がこれまでにないほど厳しい顔つきをしていた。慌てて、付け加える。
「あ、でも誤解はしないで下さいっ! それは伯爵様でなく、別の人がその身分を偽っていたって ――― 」
「それは僕を脅しているんですか?」
言葉を遮られて言われた言葉が理解できず、ユリーナは頭の中でその言葉を反芻する。
(……って、えっ?!)
わけがわからず、パニックに陥る。
「どういう……」
聞き返そうとしたとき、アレンが懐から銃を取り出した。その銃口を躊躇いなく、ユリーナに突きつける。狙いは、心臓に向けられていた。
「どっ、どうしてっ?!」
伯爵夫人のことで相談に乗りに来たはずが、どうしていきなり銃を突きつけられる羽目になるのかまったくもってわからない。
混乱の極致に立たされたまま、ユリーナは叫んだ。
「……とぼけるなよ」
アレンは目を細めて、静かな口調で言った。
「あんたは全てを知って、俺を脅しにきたんだ」
――― 全てを知って?
今のユリーナには全てどころか、なにひとつわかっていなかった。
「まあ、いいさ。既成事実さえ作ってしまえば、あんたもその口を噤むしかなくなるだろう?」
愉しそうに口元を歪めて、アレンは言う。
さっきまでの彼とは想像もつかないほど、別人のようなその姿に、ユリーナは恐怖を覚えた。『既成事実』―― その言葉に寒気が走る。
「冗談じゃ……きゃあっ!」
銃を側にあったテーブルの上に置き、アレンは素早い動きで抵抗しようとしたユリーナの身体をソファの上に押し倒した。
「大人しくしてろよ。騒ぐと……」
「撃つよ」
「そう、撃つ……っ?!」
自分とは違う声が割り込んできたことに、アレンはハッと息を呑んだ。
ユリーナに押しかかっていた身体を起こそうとして、後頭部に押し当てられているものの存在に気づく。同時に、カチリと安全装置がはずされる。
「マックス!」
アレンの後ろで銃を身構えている青年の姿を認めて、ユリーナは驚きとともにその名前を呼んだ。だが、マックスはその声に答えることも、視線を向けることもせず、アレンに注意を払いながら言う。
「まず、ユリーナから離れてもらえるかな?」
友人にお酒でも飲みに行こうか、と容易く誘っているような気安さで、マックスは言った。
引き金をひくだけの状態で狙いをつけられているアレンは、両手を挙げたまま、「わかった」と頷いて、ユリーナから離れた。そのままマックスに促されて、向かい側のソファに座る。
ユリーナは慌てて身体を起こして、少し乱れた髪やドレスを整えた。
「……ここにいるってことはその女から聞いたのか?」
アレンは最早、体裁を整えるでもなく、足を組んで皮肉な笑みを浮かべながら、ユリーナを顎で示した。
ぴくり、と。マックスはユリーナにしかわからない程度に片眉を上げ、小さく肩を竦める。
「黙って来いって言う手紙を受け取って、ぺらぺら話すようなユリーナだったら僕も苦労はしないんだけどね」
「どういう意味よっ!」
聞き捨てならなかったユリーナは、ムッとした顔でマックスに食って掛かる。けれど、相手にはされなかった。
「追い詰められた犯人の動向なんて、推理するまでもなく、明白だろう。まして、浅はかで単純な犯行しかできない犯人なら尚更だ」
挑発するようなその言葉に、アレンはハンッと鼻で笑う。
「犯人? 何を証拠に ――― 」
「まあ、確かにあんたは直接手を下したわけじゃない。だから、そんなに余裕でいるんだろう」
マックスは、興味がないような口調で言って、手に持っていた銃を弄ぶ。
それでも、視線はアレンを見据えていた。
「ちょっと! マックス! どういうことなのっ?」
ずいっと身を乗り出してくるユリーナをちらり、と。一瞥して、マックスは息をつくと、ようやく口を開いた。
「実際に伯爵を殺したのは、伯爵夫人だよ」
その言葉に、ユリーナは開いた口が塞がらなかった。
――― どうして。
あんなに、愛し合っていた夫婦がどうして。伯爵夫人のあの悲しみに満ちた顔は偽りだったというつもりだろうか。
マックスは気遣うような光を浮かべて、絶句したままのユリーナを見た。だが、それも一瞬で、ユリーナが我に返るまでに視線をアレンに戻す。
「あんたは伯爵の身分を偽って、何人もの女性を騙し、金銭を奪ってきた。もちろん、その中には伯爵夫人もいた。あんたは伯爵夫人に金の無心をしていたんだろう。従弟という繋がりもあって伯爵夫人は断れなかった。だが、彼女が動かせるお金にも限界がある。そのうち、伯爵が気づいてしまった。そして……」
マックスは感情の色が見えない声で淡々と説明していく。アレンの顔は見る見るうちに血の気が引いて、真っ青になっていた。
「殺すつもりじゃなかったわっ!」
不意に叫び声が部屋の中に響いた。
三人の視線が一斉に向く。部屋の扉の前に、伯爵夫人とレイモンドの姿があった。
「……っ、なんで!」
動揺を露にして、アレンは立ち上がった。
「なんであんたがここにいる?」
不満そうにマックスは伯爵夫人の横に立っているレイモンドに問いかけた。
「今朝方、伯爵邸を訪れたら、夫人の顔色が悪かったんですよ。理由をお聞きしたら、アレン君の姿が見えないとかなり焦っていてね。こうして心当たりを探しにきたというわけですよ」
レイモンドは肩を竦めて答えた。だが、そんな二人のやりとりにかまうことなく、伯爵夫人はアレンの傍に駆け寄ると、涙を浮かべて言った。
「……私、自首するわ」
「黙ってろよ! 証拠なんて何もないんだっ」
「そんなこと関係ないっ!」
二人のやりとりを遮ったのは、ユリーナだった。
「……本当に、伯爵夫人が?」
言い争うのをやめて、伯爵夫人はユリーナを見る。その瞳には、悲しげな光が浮かんでいた。
「確かに、私たち夫婦は恋愛をして、結婚したわ。とても幸せだった……」
昔を懐かしむように、目を細めて言う。「でもね」と、それを振り切るような口調で伯爵夫人は続けた。
「恋人としてのあの男は最高でも、夫してのあの男は最低だった。結婚して暫らくすると、浮気を始めたの」
自嘲気味に笑みを浮かべて言われた言葉に、ユリーナは小さく息を呑む。お披露目パーティーでのマックスの言葉が脳裏を過ぎる。
『伯爵の腕にかけてる奥方の手はまるで汚らわしいものを触ってるかのようにほんの少ししかかけていない。それに、伯爵のほうもね。さっきからちらちらと別の女性に視線を向けてる。』
あの時は、マックスの冗談だと思っていた。
「その浮気に、この男がつけいったってわけだ」
「違うわっ。彼は私のことを想って……」
「どういうことですか?」
思いがけない言葉に、ユリーナは驚いて問いかけた。
「彼が騙した女性は伯爵の浮気相手よ。伯爵からだと手紙を送って、お金を騙し取ったの。私を騙す伯爵が許せないからって。でも、伯爵本人に何かすると、私に害が及ぶからせめて……」
「でも、伯爵がその事実に気づいてしまった」
どういうこと、とユリーナが疑問に満ちた目でマックスを見る。彼は全てを見透かした青い瞳にどこか冷たさを感じさせる光を宿したまま伯爵夫人を見ながら、続けた。
「結局、あのパーティーのときの事件の全貌はこういうことになるんじゃないかな?」
浮気相手を騙していた男がアレンだと気づいた伯爵と、伯爵夫人はアレンのことで言い争いになってしまった。恐らく、そのときにはずみで階段から突き落とす結果になった。確かにここまでは不幸な事故だとも言える。
だけど、打ち所が悪くて亡くなった伯爵を前に夫人は機会だとも思った。
これで彼の財産を自由に使えるからね。アレンにお金を使っても文句を言う人がいなくなったわけだ。ところが、ここで問題がひとつ。結果的にとはいえ、夫人が突き飛ばしてしまったという事実がある以上、外聞は避けられない。その原因さえ突き止められて明るみに出てしまったら、アレンにも火の粉が及ぶ。
彼が目指しているハートン大学の入学も諦めざるを得ない。
あそこは格式ある伝統の大学だからね。スキャンダルになった男を受付はしないだろう。だから、犯人を怪盗紳士だと偽った。
「まあ、彼女の誤算は、ユリーナが小さな親切をしてしまったことだろうね」
揶揄するように言われたユリーナは、「どういう意味よ?!」とマックスを睨みつける。
今度はマックスもにっこりと笑って答えた。
「よく言うよね。小さな親切、大きなお世話」
「マックス!」
それまで黙っていたアレンがふと、皮肉げに口の端を持ち上げて、言う。
「何にしても俺が女たちを騙したって証拠はない。彼女にしても所詮は事故 ―― アクシデントの結果」
「残念ながら」
アレンの言葉を遮って、マックスは懐から取り出した数枚の封筒をテーブルの上に放り投げた。