秋たちは高校から少し離れた場所にある【リーファン】という喫茶店にいた。香穂がドアを開けた途端、鈴がリリーンと小さく鳴って訪れを報せる。
店の奥に座っていた秋が顔を向けて、軽く片手を挙げたのを見つけた。
「香穂、こっち」
そう唇が動いた。
傍まで行くと、秋の向かい側に座っていた雪広が驚いた顔で言う。
「早かったなぁ……。少なくとも、一時間はかかると思ってたよ」
香穂は小さく肩を竦めるだけにとどめた。美奈子が「……まあね」とため息のような頷きを返して、彼の隣に座る。香穂が秋の隣に座った瞬間、店員が姿を見せた。
見惚れるほどの美男美女が2組もいるテーブルへの好奇心がその顔に浮かんでいる。周囲からはその席は注目の的だった。
本人たちはそんな視線にまったくの無関心で、香穂はアイスティーを。美奈子がホット珈琲を頼むと、雪広は疑問を口にする。
「でも、よくここがわかったな」
確かに高校からは近いが、この喫茶店までの道筋は少し入り組んでいて複雑だった。
雪広でさえ、意識していなければ気づかずに通り過ぎていたところだ。けれど、香穂はなんでもないことのように答えた。
「精霊が教えてくれましたから」
雪広の問いに、香穂はにっこりと笑った。その短い言葉の裏に『どうせ美奈子さんに聞いて知ってるんだろうし、精霊使いってことを考えればわかるでしょ?』という意味が含まれていることに気づいたのは恐らく砂霧だけだろう。
「そ、それでどうだった?」
気づかない雪広は、ただその笑顔に動揺する。照れながら、美奈子の方を向いた。
美奈子はそんな雪広を一瞬だけ睨んでから、香穂に視線を移す。結局、美奈子は何も見ることができなかったから。
香穂は二人に話すというより、秋に聞かせるために口を開く。
「寮のほうに霊気が流れてたから、そこを調べてきたの。春山悠奈。鹿島女子高の一年生ってことになってるけど、恐らく90年以上は生きている霊魔ね」
「90年生きてて、何で高校生?!」
ぎょっとしたように美奈子が声をあげた。慌てて、雪広が彼女の口を手の平で塞ぐ。
「魔は好きなように姿を変えられるんですよ。何百年と経っていても、若いままでいられるんです」
秋はできるだけ簡潔に説明した。
なるほど、と納得した二人は香穂に先を促す。
「彼女がまだ人として生きていたときにね」
香穂は淡々と『春山悠奈』の過去について語りだした。
悠奈は16歳の頃、付き合っている男がいた。男は成人していて、二人は両親を亡くしていたから、一緒に暮らしていたみたいなの。けど、その男は貧乏だった。一日に二度ご飯が食べられるかどうかで、それでも幸せだったみたい。写真があったの。その男と一緒に笑ってる姿のね」
そこで香穂は一旦言葉を止めた。
注文していたものが運ばれてきたからだ。
目の前に置かれたアイスティーで唇を湿らせる。店員が下がると、話しを続けた。
「ある日、事件が起こったの。男が勤めるバイト先でレジからお金が盗まれたのよ。貧乏だったうえ、働き者でたまたま店長から目をかけられていたことで、他の店員から疎まれていたのね。それで、皆で結託して……」
「彼のせいだということにしたんだね」
秋が後に続く言葉を引き取って口にすると、香穂は頷いた。
「男は店を辞めさせられ、その噂もあって町では男を雇う人は誰もいなくなった。男は無実の罪を押し付けられた苦しみと人々からの冷たい視線に耐え切れなくなって自殺を図ったの」
悠奈を一人残してね、と呟くように言って、香穂は小さく肩を竦めた。
ふと気づけば、秋の目に痛ましげな光が宿っている。香穂は苦笑が浮かびそうになるのを堪えて、三人の間に下りた沈黙から解放されるのを黙って待った。
「……それで彼女も自殺したの?」
最初に口を開いたのは美奈子だった。手に持っていたコーヒーカップを受け皿に戻して訊く。
「似たようなもの。でも彼女は死ぬときに彼を追い詰めた人間たちを酷く恨んだみたいで、その声を聞きつけた高位の魔がいたのね。その魔が彼女を霊魔にしたってわけ」
その言葉に反応したのは秋だった。
驚いたように言う。
「待ってよ、香穂。じゃあ、彼女は“想い”に支配された霊魔じゃないってこと?」
「そう、今まで会ったことのある霊魔とは少し違うね。でも、霊魔は霊魔よ」
香穂は念を押して釘を刺す。
(優しいことはいいけれど ―――― 。)
秋の瞳が揺れたのを見つけて、思わずため息が零れそうになるのを視線を逸らすことで堪えた。
「それで、霊魔にされた彼女は復讐を考えなかったのか?」
雪広が思案するような表情を浮かべて、口を挟んだ。
『復讐』――― 。普通なら考えるだろう。力を持っていれば活用したくなるのが人間の常だから。
アイスティーに添えられているストローでグラスの中を香穂はゆっくり回した。カラン、と氷の音が鳴る。
「……町をひとつ消し去ってましたけど」
ギョッ、と三人の顔が驚きに染まる。雪広が声をあげる。
「そんなことができるのか?!」
「ま、それくらいなら」
小さく肩を竦めて、どうでもよさそうに香穂は短く答えて続けた。
「それから彼女はそのときの姿のまま、過ごしていくしかなかった」
長い時間が経つうちに ――― 。
香穂の言葉の先を、秋が確認するように言う。
「魔の意識が強くなっていたんだね?」
「人と魔の意識の葛藤。それがときに人を殺し、ときに生命力を奪うだけですんだりしてたのよ」
香穂は頷いた。
「……手遅れにならないうちに、浄化してあげないとね」
秋の言葉に返事はしないまま、香穂は立ち上がった。それに気づいて、秋も財布から代金を取り出して、伝票の上に置く。
我に返ったように美奈子が言った。
「あっ、送っていくわよ!」
「いいですよ。二人で帰りますから」
慌てて立ち上がろうとする二人を押し止めるように、秋はにっこりと笑った。まるで天使を見ているかのようで ――― 。
その微笑みに二人が捕らわれている隙に、香穂たちは店から出て行った。
雪広が呆然と呟く。
「何であんなに二人とも笑顔が可愛いんだろう……?」
うっとりとした表情で、美奈子も同意するように頷いた。