第二章 高魔の玩具

四、浄化(1)
 深夜 ――― 。
 既に時計の短針が1時を示しているのを、今年の誕生日に買ってもらった腕時計で確認して、少女はため息をついた。

「あーあ、やっと終わった」
 高級マンションと呼ばれる建物の入り口で、思いっきり背伸びをする。
 肩に少しかかるくらいの黒髪が、夜風に揺れる。顔は整ってはいるが、綺麗というよりは、可愛らしいといった類に入るだろう。瞳は芯の強さをあらわすような光を浮かべた黒色。まっすぐ、といった印象を与える雰囲気があった。

「それにしても、お腹空いたね。葉月」
 そう言って少女が後ろを振り向くと、付き従うように一人の少年が立っていた。

 少女とは対照的に、綺麗な容姿を持っていて。けれど、色は瞳も髪も少女と同じだった。葉月、と呼ばれた少年は、その瞳に深い愛情と優しさを宿して少女を見つめている。
「深雪が仕事を終えたときにそう言うのはわかってたから、部屋の冷蔵庫にトマトサラダとカボチャのスープを作っておきましたよ」
 途端、深雪の瞳に嬉しそうな光が宿る。
「さすが、葉月! おいしいよね、あれは」
 簡単にトマトサラダといっても、ドレッシングには葉月特有の工夫がされていて、嗅覚を刺激するその薫りはもちろん、一度食べたら忘れられない味になる。一度レシピを強請ったけれど、「秘密です」と笑顔で交わされた。

「実はあのカボチャのスープは秋に教えてもらったんですよ。香穂さまもお気に入りだそうで」
「へぇ、そうなんだ。でも、香穂は秋くんの作る料理ならぜんぶ好きでしょ」
 親友の姿を思い出して、深雪はクスリと笑みを零した。「そうですね」と葉月も同意する。
 そんな話をしながら、二人がマンションの入り口に差し掛かったとき、ふと背後に気配を感じた。

「だれっ?!」
 二人は振り向いて、身構えながら闇夜に目を凝らす。

「……た、す…て、」
 うめき声が耳に届く。少し離れたところに、人が倒れていた。

 慌てて深雪たちは駆け寄る。葉月が倒れているその人を抱きかかえた。

「どうしたんですかっ?!」
 近づいてみると、同じくらいの年齢の少年で。口元から血が流れ落ちている。触れた服も所々が破れている上に、水で湿っていた。

(潮の薫り……?)
 ふわり、と。風に乗って漂ってきた匂いに葉月は眉を顰める。

「……葉月」
 名前を呼ばれて、隣で同じように少年の顔を覗き込んでいた深雪に視線を向けると、その瞳は驚愕に見開かれていた。
「この人……、拓也くんだよ」
 その言葉に、今度は葉月が驚きに息を呑む。
 ほとんど血に染められていたせいか、その顔を見た限りではわからなかった。言われて初めて気づく。

 確かに、彼は水月拓也(みなづき たくや)。
―――― 水使いだった。


 梅雨時期とはいえ、合い間に数日の快晴の日もある。運良く、その日は空を覆う曇り雲から解放されて、澄んだ青色が広がっていた。

 香穂と秋は学校帰りに同級生で、幼馴染でもある凪城(なじょう)深雪(みゆき)と風音(かざね)葉月(はづき)の住むマンションに寄った。同じく二人も風使いと付き人の関係だ。

「水月拓也って、水使いトップの水月家の跡取り?」
 葉月が麦茶を注いだコップを受け取りながら、秋は訊いた。
 深雪たちの手当てによって、命を取り留めたものの彼の意識は戻らなかった。病院に連れて行くべきかどうか迷ったが、受けた傷に『魔』の力を感じたこともあって、香穂たちに相談してから、と二人は判断した。
 『秋はリビングルームの方にいて』と、香穂に言われて、秋は大人しく従っていた。
 深雪も一緒に彼が眠っている寝室に向かったため、残された葉月と秋は状況について詳しい話をすることにした。

 「そう、その水月家です。それなりの力をもっているはずなのに、あそこまで酷く痛めつけられるほどとなると、妖魔、霊魔では考えられませんね」
 麦茶を口に含んで、飲み込んだ秋は思案するような表情で呟いた。
「……やっぱり、あの事件に関係してるのかな」
「あの事件とは?」
 不思議そうに問いかける葉月に、ひとつ頷いて、秋は口を開いた。
「今回、僕たちが当主から仰せつかった依頼なんだけどね。話しによると、各地で精霊使いが行方不明になってるらしいんだ。わかってるだけで、六組だけど、」
「私と秋が調査した結果では、現時点で十組ね」
 秋の言葉の後を引き受けて、別の澄んだ声が割り込んだ。

「香穂っ!」

 寝室から出てきた香穂は、秋の隣に座る。カウンター越しに立っていた葉月は素早くコップに麦茶を注いで渡した。少し後から出てきた深雪にも同じようにする。

「相変わらず、香穂は凄いねー。かすり傷ひとつ見つからないほど、完璧に治しちゃったよ」
 手放しで褒め言葉を口にのせる深雪に、小さく肩を竦めて香穂はちらり、と視線を寝室に向けた。
「ありがと。でもまだ、眠ってるみたいだけどね」
「では、話を戻しますけど。行方不明の原因は掴んでるんですか?」
 葉月が疑問を口にする。
 曖昧な頷きを見せて、秋は眉を顰めた。

「ひとまず、行方不明になった人たちの痕跡は辿ったんだけどね。彼らが消えたと思われる場所には微かだけど高魔の気が残ってたんだ」
「まあ。多少は使われたと思う妖魔や霊魔の気もあったけど」
 香穂の言葉を引き取って、ため息混じりに秋が続けた。
「でも、後が手詰まって。行方不明事件は全国で起こってるから、次に誰が狙われるかなんてわからないし」
 なるほど、と頷いて深雪はふと思いついて言った。
「だけど、どうするのかしら?」
 三人の視線が一気に彼女に向く。「えっ、だって」と焦ったようにその視線を受け止めて、深雪は不思議そうに言葉にした。

 「精霊使いを誘拐しても、まさか『魔』が身代金を要求するわけないでしょ。ってことは、ただいたぶって、奴隷にでもする?」
 葉月は深いため息をついた。考えるまでもなく、それは「あり得ないこと」だ。香穂は苦笑して、深雪の言葉を否定した。
 「それにしたって、愉しいのは一組か二組の段階までね。十組ともに同じことするなんて、『魔』としてのレベルの低さが問われるわよ。妖魔ならともかく、高魔はしないって」
 そうなると、またも最初の疑問に戻る。
 『精霊使い』を誘拐してどうするのか。
 沈黙を破って、先に口を開いたのはまたもや深雪だった。

「もしかして ――― 、行方不明になった精霊使いたちが実は皆、『魔』だった、なんて。霊魔や高魔が化けてたって可能性もなきにしもあらず…って、あれ。どうしたの。秋くんも葉月もため息なんてついちゃって。ね、香穂?」
 矛先を向けると、香穂は動きを止めて、視線をあらぬ方向に向けていた。その瞳には意思の光は浮かんではいなかった。
「香穂? ちょっと、なに放心してるの?」
 肩を揺すられて、ハッと香穂は我に返った。
「……え? あ、ごめん。なんでもない、なんでもないよ」
 不思議そうな顔をする深雪に慌てて謝る。故意に意思を飛ばしたわけでもなく、慌てた様子の香穂は珍しかった。
「あまりにも馬鹿らしいコトを口にしたんで、呆れられたんじゃないですか?」
 葉月が冷たい視線を深雪に注ぐ。
 ぐっ、と言葉に詰まって、深雪は抗議するように葉月を睨んだ。

「凪城らしい答えだけど、あいつらの目的はそんなんじゃないよ」
 二人の間に別の声が割り込んできた。視線を向けると、寝室のドアに寄り掛かって、少年が苦笑を浮かべながら立っていた。
 椅子から立ち上がって、深雪が声をかける。
「拓也くんっ、もういいの?!」
 水月拓也は頷く代わりに、軽く左手を挙げた。
 葉月は彼に椅子を勧めて、香穂たち同様に麦茶を注いだコップを差し出した。それを受け取って、ぐいっ、と飲むと拓也は一息ついた。
「ああ。傷も治ってたみたいだし。身体も健康そのものだ。凪城が治してくれたんだろう? ありがとう」
 素直にお礼を口にする拓也に、首を横に振って深雪は隣に座っている香穂を紹介した。
「私がしたのは応急手当だけよ。そこまで完全に治療したのは、彼女 ―― 新城香穂さんよ」
 香穂が軽く頭を下げると、拓也は改まったように慌てて挨拶をした。
「あ、そうだったんだ。初めまして、俺は水月拓也。水使いだ。治してくれて、本当にありがとう」
「どういたしまして。私は風使いよ」
 丁寧な挨拶に好印象を受けながら、香穂はそう言った。
「僕が付き人の神風秋です」
 そう続けた秋の言葉に、拓也の顔色が急に青白くなった。震える声で言う。
「俺の付き人は川音静(かわね しずか)っていうんだ。今は不在だけどね」
 不在、という言葉に、秋と香穂は視線を交わした。
 葉月が問いかける。

「その理由はいま話していたことに関係あるんでしょう? 『魔』の目的って何ですか?」
「はっきりとした目的はわからない。だけど、あいつら言ってたんだ」
 拓也は視線を夕日を受けて反射する窓に向けた。一度、きゅっ、と強く結んだ唇は言いづらそうに、その先の言葉を放つ。
「『我が主のために働け』ってね。…だから、手下か何かにするために攫ったんだろう」
 その言葉に、納得できないといった不満そうな顔で、深雪が言う。
「魔が? なんのためによ?」
 思い当たる答えを誰もが探し当てることができず、沈黙に支配される。
 秋はそれをため息で破って、小さく肩を竦める。視線を香穂に向けた。
 「だいたい魔の考えることがわかるわけじゃないから、それはおいておくとして。でも、手がかりはできたね」
 うん、とひとつ頷いて香穂は残り少なくなった麦茶を飲み干した。
 カラン。と氷が鳴る。

 「……そうね。手下にするにしても、欲しいのは『精霊使い』の方だと思う。だから、手元にいる付き人の『精霊使い』 ―― 、つまり水月さんだけど。一度逃してしまった手前もあるし、居場所がわかれば接触してくるでしょ」
 視線が拓也に集まる。
 ごくり、と小さく息を呑む音がする。拓也は震える唇で、強張った顔のまま口を開いた。
「静は ―― 、付き人は無事だと思うか?」
 ずっと気にかかっていたこと。
 自分を犠牲にして、「逃げてください!」と必死に叫んでいた付き人の姿は瞼に焼き付いて離れなかった。目覚める、その瞬間まで。夢にまで見ていた。嘘でも ―― 偽りでも、誰かの答えが欲しかった。
 そんな拓也の思いを読み取ったように、香穂はフッと息を吐き出しながら言う。

「無事、だけど」
 無事、の一言に拓也がホッと息をついたのを香穂はじっと見据えて続けた。
「その付き人を使って、あなたを手に入れようとするかもしれない」
「どういう意味だ?」
 訝るように問いかける拓也に、付け足すように秋が言った。
「協力して欲しいんです。僕たちは今回の事件を解決するように依頼されてて」
 理解したのか、拓也は苦笑を浮かべて「もちろんっ」と頷いた。秋が差し出した手をしっかりと、握る。

「高魔相手で俺がひとりで敵うとも思えない。静を助けるためにも、俺の方からお願いするよ」
 握手を交わす二人に、深雪が嬉しそうに微笑んだ。ちらり、と香穂は視線を送って、深雪に言う。

「深雪たちも気をつけてね。彼を狙った魔がこの町に来たってことは、私たちも対象に入るかもってことだから」
「わかってるって。でも、危なくなってもこの町には当主がご健在でしょ」
 霊魔ぐらいなら深雪たちでも簡単に相手ができるだろう。だけど、高魔となると難しい。
 軽口を言ってはいるが、自分の実力を理解している深雪の発言に、香穂はクスリ、と笑みを零した。悪戯心が沸き起こる。
「お義父さまは夫婦で一週間の温泉旅行に出掛けたけどね。それまで、高魔が来なければいいけど」
 深雪はムッと、頬を膨らませる。
「……香穂。私をいじめて楽しい?」
 その答えを笑顔だけで返すと、深雪は拗ねるように言った。
「いいわよ、いいわよ。もし私が捕まって手下になったら、毎晩だって香穂の枕元に出てきて泣いてやるからっ!」
 一斉に笑い声が起きる。
 幽霊じゃないんだから、と苦笑して。香穂は安心させるように言う。
「心配しなくても、現れたら風の精霊が教えてくれるでしょ。すぐに手助けに行くから」
 安堵に胸を撫で下ろす深雪から、視線を時計に向ける。短針が6時を指し示していることに気づいて、香穂は秋に言った。
「そろそろ帰らないと。木村さんが待ってるね」
「うん。あの、拓也さんも僕たちの屋敷の方に来てもらって ―― って、拓也さん?」
 拓也の顔色が真っ青になっていることに気づいて、秋が訝るように名前を呼んだ。
 信じられない、と拓也は目を見開いて言う。

「も、もしかして。新城って ―― あの、新城家? ってことは、君は跡継ぎの……」
 戸惑う拓也に頷いて秋はふわり、と笑みを浮かべる。
「同年代なんです、遠慮は要りませんよ。ね、香穂?」
 その言葉に、香穂は同意するように肩を竦める。
 まだ衝撃からは抜け出せないようだったが、秋の笑顔に促されるかのように拓也は困惑しながら頷いた。
「あ、ああ。わかった……」
 それでも、拓也の脳裏には『新城家』の情報が浮かんでいた。
 『精霊使い』を纏める一族。『風使い』でありながら、その能力は火・水・地のそれぞれの頂点にいる者たちさえ凌ぐ、と言われている。まして、跡継ぎは本来ならひとつしか使えない精霊を全て従えているらしい、との噂もある。また、気難しいそれぞれの頂点に立つ者、全てが認めているらしい。
 そういえば、拓也の父親である『水月家』当主も手放しで褒めていたことを思い出した。あの、気難しい父が。
 改めて、香穂を見た拓也は、確かにその容姿の美しさには目を見張るものがあるけれど、とてもそんな雰囲気があるとは思えなかった。

「またね、深雪」

 香穂はそう言うと、ごちそうさま、と氷だけが残るコップを置いて、玄関の方に足を向けた。秋もその後に続くのに、我に返って拓也も追いかけた。
「お邪魔しました」
 そう言って、秋も拓也を連れて外へ出た。


 香穂たちを送り出した深雪は、玄関口で両手を握り締める。
「よしっ、気を引き締めていくわよ。葉月っ!」
 気合を入れなおす深雪に、苦笑を浮かべる。それでも葉月は頷いて、ふとぽつりと呟いた。
「……でも、静さんは立派ですよ。主人を逃がすことができたんですから」
 拓也が高魔から逃げることができたのは、付き人のおかげだと言えるだろう。
 その言葉に、深雪は眉を顰めた。切なげに。
「私はイヤ。捕まるにしても、殺されるにしても一緒がいい。もちろん、もしもの場合は、だけど。葉月…、付き人に代わりはいても。葉月の代わりはいないよ?」
 まっすぐに見つめてくる深雪の視線を受けて、葉月は自然と頬が緩むのに気づいた。
 彼女が自分の主人でよかった、と。何度も思ってきたことを改めて思った。

】 【】 【