第二章 高魔の玩具

三、催眠(3)
 秋の怒りをやり過ごした香穂は、ひとまず自分たちがいる場所について拓也に説明した。
 この場所は『魔』たちが住む異次元で、高魔の作った結界内にいるということ。更に拓也を取り込もうとしていたその樹について話し始める。
 香穂が放った言葉に、拓也は戸惑った。

「霊魔って…なにが?」
「だから、この樹が」
 拓也の戸惑いも意に介さないように、香穂はただそう繰り返した。
 それでも信じがたくて、拓也はもう一度、確認するように問いかける。

「樹が、霊魔?」
 そんな馬鹿な、と目の前に立つ樹を見上げた。
 同じように隣で樹を見上げていた秋は、逆に納得したように言う。
「そうか。ここに足を踏み入れたときに感じた霊気は、この樹が発してたんだ」
 香穂はうん、と頷いた。

「秋は気づいてたのね」
「悪かったね! 俺にはわかりませんよっ!」
 拗ねるように拓也が言った。置いてけぼりを食らわされたような感じにされて、気に食わなかった。香穂は苦笑を零して慰めるように声をかけた。
「わからなくて、当然なの。この樹が発している霊気は本当に微かで、今にも消えてしまいそうなくらいだから。新城家当主でも気づかないかもしれないね」
 仮にも自分の父親を、「新城家当主」と他人事のように呼ぶ香穂に、不思議そうな視線を向けたが、すぐに気づいた。その、当主でもわからないほどの気を感じていたという秋と。その樹が霊魔だと言った香穂の力の大きさに。
 思わず、ごくりと喉を鳴らした拓也に気づかないのか、香穂は淡々と説明を続ける。

「この樹は、高魔に遊びで作られたものみたい。実験道具、ってところかな。そして育って、備わった能力が‘催眠を掛けること’」
「催眠?」
 あまりに些細な能力に、拓也は聞き返す。ただそれだけなら、高魔なんて簡単にできてしまうだろうに。
 そんな拓也の思いを読み取るように、香穂も頷いた。
「そう。『魔』に言わせれば、妖魔なんかよりも馬鹿げた能力で、役立たずなものよ」
 その声に冷たい響きが含まれる。
 香穂は頭上に見える木の頂点を見据えるように、スッと目を細めた。
「だけど、退屈だった魔はそれで遊ぶことに決めたのよ。この樹で催眠をかけた『精霊使い』を使って、どこまで ―― 遊べるかってね」
 心底ばかばかしい、と香穂は思う。
 長い寿命を持つ『魔』は退屈を紛らわせるためなら、思いついたことはどんなに些細なことでも、片っ端から行うだろう。所詮は暇つぶしの遊びだ。
(降りかからない火の粉だったら、放っておいてもよかったんだけどね。)
 だけど、香穂の頭の中ではすでに計画が動き始めている。それなりに役に立ってもらうために。

 「暇潰しや遊びのためなんかに……っ!」

 拓也の悔しそうな声に、香穂は我に返った。
 視線を向けると、拓也の握り締めている手が震えているのが見えた。秋は、痛ましげな顔で拓也を見つめている。それでも、香穂は心が冷めていくのを感じずにはいられなかった。今更、と思わずにはいられない。
「それが『魔』なのよ。人間の常識なんて通用しないの。もっとも妖魔や霊魔たちとばかりで実際に高魔と戦ったことがない人にはわからないかもしれないけどね」
 妖魔は本能ゆえに戦いだけに喜びをもたらし。霊魔はどこか理由がある。けれど、高魔は。長い寿命と限りなく溢れる力。できないことはないという自信。残酷な性格。そういったものから最早、人間を遊び道具としてしか扱わない。それ以上の価値を、認めたりはしない。妖魔のように、糧としてみる必要もないから。ただの、道具。
 『精霊使い』としてその知識があっても、実際に直面してこそ、思い知らされることが多い。
 香穂の言葉を聞いていた秋は、ふと思い出したように顔を向けた。
「そういえば、香穂。他に操られていた使い人たちは?」
「そうだっ、静は?!」
 その言葉に拓也も我に返って、声をあげる。
 香穂はスッと樹を指さした。「この中」、と当然のように答える。

「この中って……。でも、取り込まれてたのは水月さんだけだったじゃないか」
 秋は不思議そうに言う。
「水月さんの場合は完全じゃなかったから、半身しか取り込まれてなかったのよ。完全に催眠にかかってたら、この中にぜんぶ取り込まれてるって」
 「だから全員この中、」と香穂は繰り返して言った。
「どうやったら出てくるんだ?!」
 香穂は駆け寄って触ろうとした拓也を、寸前でその襟首を捕まえて制止する。はぁ、と。大げさなため息をついた。
「この樹は霊魔だって言ったでしょ。無闇に触ったら、攻撃してくるって」
 そのまま、とんっと後ろに下がらせる。
 不満そうな拓也の視線を背中に受けながら、香穂はフッと息をついた。
 本当は無償で動くのは気に食わない、というのが香穂の本音だった。計画通りになれば、他の使い人がどうなろうと構わない、と思う。けれど、視線を向けると秋が不思議そうな顔をする。その表情に浮かぶのは。
――― 信頼。

 香穂は諦めたような気持ちが湧き上がるのを感じた。
 視線を樹に戻して、見上げる。気持ちを整えて、一度だけ深呼吸をする。右手の平をそっと樹の幹の押し当てた。
 「おいっ!」焦ったような拓也の声が聞こえる。無闇と触るなといったあとの行動に、驚く気配が伝わってきた。静かに、と鋭く拓也を止める秋の声も。

『水使いの付き人。静。聞こえてるだろう。出てくるんだ』

 香穂が発したその声に、秋も拓也も息を呑んだ。
 纏う音が違う。使われた言葉遣いも。
 秋は、思わず「…あ、」と声を漏らした。その声音には聞き覚えがあった。秋が追ってきた高魔が発していたものと同じだった。
 驚く二人の視界の中で、樹の中から再び人が現れる。上半身からゆっくりと。
「しず…っ!」
 姿を見せた少女に、駆け寄ろうとした拓也を秋が引き止める。

 香穂は睫が震えてその、瞼が開こうとする前に闇の精霊を動かした。深い眠りへと誘うために。開きかけた目は、再び伏せられる。
 樹から、倒れこむように出てきた静を香穂は支えて受け止めた。

「なにをっ?!」
 不安げな表情で拓也は問いかける。
「もういいよ。これで、次に目を覚ましたときには催眠も解けてるから」
 そう言って、静を渡した。
 静を受け取った拓也はすやすやと、幸せそうに眠っている静の顔を見てホッと安堵に息をつく。ぎゅっ、と抱き締めると温もりが伝わってきて、不安定だった心が落ち着いていくような気がした。

「悪いけど、感動の再会は後にして。秋、水月さんたちを連れて先に向こうの方に戻ってね」
 後半は秋に視線を向ける。
 向こうの方、とは人間の世界のことで、秋は不安そうに瞳を揺らして香穂を見た。
「先に…って、香穂は?」
「私はまだやることが残ってるの」
「だけどっ!」
 普通の場所ではないここに、ひとり残していくことはできない。秋の目はそう言っていた。使い人の傍にいるのが付き人の役目。もちろん、それだけではないけれど。
 香穂はにっこり、と笑顔を浮かべた。
 そっと手を伸ばして、秋の頬に触れる。

「すぐに片付けて戻るから。約束する」
 どくん、どくん。
 秋の頬に触れた指先から、命の鼓動が伝わってくるような気がした。
( ―――― 時折、)
 焦がれるような衝動が香穂の中を突き抜けていく。
 甘い誘惑にふらり、と心が傾きそうになる。
「そうだね」
 秋が発した声に、ハッと我に返る。意識を向けると、秋は笑顔を浮かべていた。
「香穂は約束を破らないし。向こうで、待ってるよ」
 その言葉と笑顔に気が抜けたように衝動は収まって、香穂は一瞬だけ重なる秋の唇を受け止めた。
 優しい口付けから秋の想いが伝わって、香穂は衝動に突き動かされそうになった自分を自嘲する。苦笑が浮かびそうになるのを堪えて、言った。
「向こうに戻ったら、深雪たちと合流して話しを聞いて」
「話しって?」
「一気に高魔を三人も相手にするのよ。計画くらい立てておかなきゃね」
 悪戯っぽく笑う。
 秋は「わかった」、と確かな返事をして、拓也と静の二人を連れて空間を渡った。


(香穂さま、)
 秋たちの姿が消えると、香穂はとん、と力なく樹に背中を預けて寄り掛かった。砂霧の声に気遣うような含みがあるのに気づいて、香穂は言われるより先に言葉を放つ。
「 ――― 私はだれ?」
(香穂さま……。)
 砂霧が呆然とするのがわかった。小さく息を呑む音が聞こえたような気がした。
「時折、すべてどうでもよくなるときがあるの」
 ため息が零れる。
 それは、甘い誘惑。
 人間の血でも、ない。魔の残虐な行為にでも、ない。
(何よりも惹かれるのは ―――― 。)
 香穂は軽く頭を左右に振って、その意識を振り払った。

「さて、ぐずぐずしてられない。他の使い人たちも助け出さないと」
 不意に話題を逸らした香穂に、わずかに戸惑いながら砂霧はただ「そうですね」と短い返事で頷いた。
「一緒に破壊してもいいけど、秋に怒られるしね」
 そのときの秋の顔を想像して、思わず、口元が緩んだ。恐らくは暫らく口を聞いてもらえないどころではすまないだろう。
 苦笑する香穂の様子に、ようやく砂霧の気配が優しいものに戻る。
(周囲を包む結界は私が作りましょう。それと、助け出した使い人たちも、私が向こうへ送っておきます)
 香穂は小さく肩を竦めて「わかった」と小さく頷くと寄り掛かっていた樹から身体を起こして、向かい合った。両手の平を樹に向ける。
 すぐに、砂霧の張った結界を感じた。その瞬間、目を閉じて呪文を声に乗せる。

≪光の精霊よ。悪しきモノを滅ぼし、精霊を使うものを今ここより、救いだしたまへ≫

 手の平から、白光が現れて樹を包み込んでいく。
 香穂はそのままの状態から、ぴくりとも動かなかった。

 数分の時が流れて、ふと香穂が切羽詰ったような声をあげる。

「砂霧ッ、そ、そろそろ限界!」
(あと少しで、 ――― 終わりました!)
 砂霧が終わったことを告げると同時に、樹を包み込んでいた光が消えた。
 香穂が目を開けて両手を樹から放した途端、それまでどっしりと立っていた樹は、さらさらと砂のようになって、空気中に溶け込んでいった。
「……やっぱり純粋な光の波動を放出するのは、短時間でもきついね」
 ため息混じりに言って、香穂は「ふぅ、」と息をついた。
(大丈夫ですか? 無理はしないで下さい…と、言いたいですが。)
 それこそ無理ですよね。
 長い付き合いから香穂の性格を知り尽くしている砂霧は、最後の言葉を飲み込んだ。
「平気よ。まったく、秋にしても。義兄さまにしても。どうしてこう、心配性が多いかな」
(無茶をする方が大切な存在だと、知らずと心配性になるんですよ。きっと。その証拠に貴女の周囲には昔から心配性な方が多いですからね。)
 含みを込めて言われた香穂は、嫌そうに眉を顰めた。
「あれは心配性 ―― というより、異常な執着でしょ。私が興味を持ってるわけでもないのに。やぁよね。自分のことしか考えてないヤツって」
 香穂は自分のことを棚に上げて、そう言いきった。
 苦笑を零して、砂霧はこのままではいつまでも、脱線していきそうだと、話を戻す。
(さて、では私たちも向こうに戻りますか?)
「そうね。でも彼らの、慌てふためく姿も見たい気がするけど」
 色彩を纏う高魔たちの姿を脳裏に思い浮かべて、香穂は楽しそうに唇の端を上げた。

(香穂さま……。)
 咎めるように名前を呼ぶ砂霧を無視して、香穂は更に続けた。
「だってそうでしょ。気に入られて「色」を貰ったのはもうずっと、昔のことなのに。今もそうなんだってふんぞり返ってる。たいして害がないから、みんな放っているだけなのに、気づきもしないのよ」
 強い苛立ちを瞳に表す香穂に、同意して砂霧もため息混じりに言う。
(……あの方たちは、自分たちだけの世界に入り込んでいるのでしょうね。)
 香穂も頷いた。浮かんだ苛立ちを消すように、いったん目を閉じる。
「そのままね、自分たちだけの世界にいればよかったのよ。まったく、余計な手を出してくれるんだから」
 気を落ち着かせるために、香穂は大きく息をついた。
「まあ、ここで言ってても仕方ないわね。砂霧、後は計画通りによろしく」
 先に向こうに戻ってる、と。ひらひらと、手の平を振る。そのまま、秋のいる場所へ空間を渡った。


 香穂が空間を渡って数分の時間を待つと、砂霧は樹のあった部屋を包み込んだ自らの作り出した、結界を解いた。

 途端、高魔たちが異変に気づく。
「申し上げます。精霊使いたちを入れていた実験用の、霊魔樹が何者かによって抹消されていましたっ!」
「なにっ?!」
 玉座に身を座らせていた高魔が、驚き立ち上がった。藤色の髪が揺れる。
 それまでの愉しげな雰囲気は一転、ひんやりとした冷たい空気と緊張が部屋の中を支配した。
「ならば、なに者かがここに侵入したと?」
 白色の前髪をかきあげて、女性が尋ねる。訊きながらも、そんなことはあり得ないという表情をしていた。
 異変に気づいて報告をした高魔も、その目で確かめたものの、まだ信じられないという顔つきで、頷くしかなかった。確かに、霊魔樹の存在は部屋のどこにもなかったのだから。
「私も信じられませんが、確かです。多少、人間の気配が残っているのですぐに追いかけようと思いますが、いかがしましょう?」
 命を待つように、高魔はじっ、と言葉を待った。
 顎に手をかけて思案するような仕草をした藤色の高魔は不意に、唇の端を上げる。
「……ふむ。私も行こう。どうやって我々に気づかれずにここへ侵入したのか気になる。それに実験台とはいえ、私の作った樹を壊したからには、それなりの罰を与えねば」
 愉悦を含んだ笑みを零しながら、高魔が言った。「ならば、私も」と女性の高魔も後に続く。

 高魔たちが姿を消した後、何らかの力が動いたのか、その建物と結界は粉々に壊れた。後に残ったのは、どこまでも続く暗闇の、世界 ―――― 。


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