第三章 詩姫の罠

一、前奏(2)
 カントリー風の色調で纏められている部屋の中で、机に向かって椅子に座っている少女は、不機嫌そうな雰囲気を隠すこともなく、頬杖をついてため息をついた。
 ため息を吐き出すと、ひとつに結ってある黒髪も揺れる。
「イライラする……っ」
 ため息だけでは発散できなかったのか、呟きまで零れた。
 どんな表情をしていても、その顔は美しく整っている。
(それは雨のせいですか? それとも先ほど、読んでいらした手紙のせいですか?)
 頭の中に響いてきた心地よい砂霧の声に、頬杖をつくのを止めて「どっちも」と短く答えを返しながら窓の外に視線を向けた。
 窓を打ちつける雨は、今日で一週間になる。それは曇ったまま、降ったり止んだりと、まるで晴れることを忘れたかのようだ。その天気に左右されるように、香穂の感情も揺れていた。

 それにしてもここまで不機嫌になる主は最近ではとても珍しく、その原因が気になって砂霧は会話を続ける。
(誰からだったんですか?)

 ひとつため息をついて、香穂は机の引き出しを開ける。一枚の白い封筒を取り出した。
「……最近ご活躍の‘詩姫’からよ」
 香穂の唇から紡ぎだされた名前に、砂霧はハッと小さく息を呑む。
 伝わってくる明らかな動揺を感じ取って、香穂は苦笑する。
「驚きすぎ、砂霧。今、秋がここにいたらバレてるよ。お前の存在」
 笑いを含んでの忠告に、(申し訳ありません……。)と、謝罪が返る。香穂は白い封筒から二枚のチケットを取って、ひらひらと揺らす。
「招待状が入ってた。期日は明日だって」
 二枚、という枚数に、言葉に出されなくともその含みを察して、砂霧は問いかける。
(秋さまと、行かれるおつもりですか?)
 香穂は答えないまま、椅子から立ち上がる。そっとドアのところまで歩いていくと、鍵をカチリ、と閉めた。

(香穂さま?)
 唐突な香穂の行動に、砂霧は戸惑うように声をあげる。聞かれたくない話しをするだけなら、結界だけで十分だ。人の気配もわかるし、声が外に漏れることもない。
「危険分子を野放しにできないしね……。そうはいっても、秋を連れて行けるわけもない」
 鍵をかけたドアに背中を預けてもたれると、香穂はにっこりと笑った。拒否を許さない、威圧を込めて。
「でも、二枚あるのはもったいないし。嫌がらせには嫌がらせで対処しないと私らしくないって思うでしょ。ねっ、砂霧」
(…………えっ?)
 最後に名前を呼ぶその声に含められたものに、砂霧は嫌な予感がわきあがった。
 そんな砂霧に気づいているのか、いないのか。恐らく前者であることは間違いなかったが、人の嫌がることには相応に喜ぶ主人が天使のような笑顔で言う。
「久しぶりだね、二人っきりのデート。嬉しいなぁー。思いっきりおめかししていこうっと」
 先ほどまでの不機嫌はどこへやら。
 退屈しのぎに選ばれたと悟った砂霧は、何も言えずため息しか零せなかった。


「謀りましたね……」
 コンサートホールで前列の中央というプレミアとも言える席に座りながら、整った美貌をもつ女性が居心地悪そうに身を竦ませて呟いた。
 あと2センチほどで床に届きそうなほど長いソバージュのかかった艶やかな黒髪、対象に色の白い肌。ふっくらと形のいい唇。瞳だけは隠すように、サングラスをかけていた。だが、露になっている部分だけでも、その女性がどんな芸術家でも表現できないほどの「美」をかねそろえていることだけはわかる。それはスタイルにも表されていた。
 また、何よりも彼女を包む雰囲気は不思議なものだった。見ているだけで惹き付けられ、好意を持ってしまう。けれど、近づきがたく、一度見たら忘れられないほどの印象があるにも関わらず、彼女がいる場所から離れたら途端に忘れてしまう。そんな印象を周囲に与えていた。

「なんのこと?」
 そんな美女の隣にいても、なにひとつ見劣ることのない香穂が正面に視線を向けたまま、とぼけるような口調で返す。
「まったく……、ここまでする必要があったとは思えません」
 傍にいられない彼女にとって、香穂の隣にいる砂霧は挑発するだけの要因でしかない。

 ため息混じりに言う砂霧をちらりと一瞥して、香穂はその答えは返さないまま腕にはめている時計を見た。針は19時を示そうとしている。
「そろそろ始まるね」

 呟いて、同時に椅子に深く座る。その動作に気づいて、砂霧は今までのように頭の中に直接話しかけようとして、今は自分も同じ場所に現れていることを思い出した。慌てて、小声で訊く。
「どうされたんですか? どこか具合でも……?」
 気遣うように言う砂霧に、小さく首を振って香穂は同じように声を潜めて言った。
「公演が終わったら、起こして」
「……何しにいらしたんですか?」
 呆れたように砂霧が言う。
 それでも眠気が襲ってきた香穂は起きているつもりもなく、半ば夢心地に答えた。
「彼女に忠告するため。あとは、」
 傍にいる砂霧を見せびらかすため、と後半の言葉は直接、砂霧の脳裏に送られた。そのまま、もう何も聞かないとばかりに夢の中へ落ちていった。

 眠りに落ちた香穂の横顔を見つめながら、砂霧はため息をつく。結局はこの方の思考なんて読めるはずがない。
 代わりに砂霧は、今から始まる公演を集中して聴くことに決めた。


 そう ―― そして、幕は上がった。



 控え室には、話し声が外に漏れないよう、結界が張られてあった。
 そこに通された香穂は、不機嫌な表情で勧められた椅子に座っている。
「お気に召しませんでしたか?」

 軽やかな口調で問いかけたのは、先ほどまで公演の主役で歌っていた女性。
 見た目では二十才半ばで、やはり整った美貌をしていて、大人の熟された雰囲気を持っていた。まっすぐに伸ばされた黒髪には、光り輝く宝石たちが散りばめられている。
 香穂はその問いかけに答えず、手に持っていた白い封筒を彼女に投げつけた。
「そんなことはどうでもいいよ。こんな招待状をいきなり送ってくるなんて、どういうつもり?」
 封筒を受け止めて、女性は細く整った眉を顰める。
 「どうでもいい」と彼女に言われるのは慣れているが、痛む胸はいつもどうすることもできなかった。それでも感情そのままをぶつけることはできずに、せめてと拗ねるように言う。
「私は貴女を呼んだつもりはあっても、彼女を呼んだ覚えはありません」
 当たり前のように隣に座っていた彼女の姿を思い出して、改めて吐き気を覚えた。
 砂霧 ―― 、できるならその名前諸共に、存在を抹消してやりたい。

 不機嫌な表情だった香穂の口元が緩む。笑みが浮かんだ。公演が終わり、この控え室に向かう途中で断りもなく異次元に姿を消した砂霧を思い出して。
 恐らく、気を使ったのだろう。主よりも、この‘詩姫’の名を持つ女性に。断固とした命令でなければ、出てはこないだろう。気配さえも完全に消している砂霧の行動が、香穂には面白かった。
「……?」

 急に笑みを浮かべた香穂に訝るような視線が向けられる。

 ああ、とほんの一瞬、砂霧のことを思い浮かべたばかりに忘れていた目の前の存在を思い出す。
「でも、招待状は2枚入ってた。誰を連れてこようが私の勝手でしょ?」
 お前に砂霧を非難する権利なんてない ―― 。そう含みを込めて、答えた。
 香穂の闇色に染まる瞳に、鋭い光が宿る。
「忠告しとく。余計な真似は自身を滅ぼすよ」
 女性と香穂との間には触れると切れそうな冷えた空気が漂う。その空気に押し潰されそうな威圧感を覚えて、女性の額に冷や汗が流れる。恐怖に支配されていく。それでも、緊張と恐怖で汗ばんだ手の平を握り締めて、女性は喉に痛みを感じながら掠れた声で懇願する。
「……ひとつ、だけ………教えて、ください…」

 用事は終わったとばかりに椅子から立ち上がり、踵を返そうとしていた香穂は面倒そうな視線を女性に向けた。
「何か…策でも興じておられるのか……、それとも」
 本当に我々を裏切るつもりでいるのか、と。信じたくない想いが、言葉に出せない女性に、それでも結局は女性が聞きたかったことがそれであることがわかっていた香穂は、肩を竦めて答えた。
「裏切るも、裏切らないも。初めから私に仲間意識なんてないよ」
 当然のこと、と言い切る口調に女性は息を呑んだ。

 香穂は踵を返して、控え室のドアノブを回しかけ、ふとその手を止める。呆然としていた女性は、それに気づいて香穂に視線を向けた。視線がぶつかる。

「もう一度だけ言っておくよ。手を出すなって。もし、また余計なことをするようだったら…」
 香穂は脅すように目を細めた。視線は女性に向いているが、その先にあるものを見つめるように。あえて、「誰に」とは告げない。シラを切らせるつもりも、自ら全てを曝け出すつもりもなかった。

「……余計なことをしたら?」

 今にも泣きそうな表情で、香穂の言葉を繰り返す女性に、意志の強い光を瞳に宿して、真剣な顔で告げた。

「殺すわよ」
 はっきりと言い切って、香穂は今度こそドアノブを回して開けると、控え室を後にした。


 再びドアが閉まり、緊張の糸が切れた控え室で女性は深く椅子に座り直した。重いため息が零れ落ちる。
( ――――― どうして。)
 困惑して、だがすぐにひとつの答えだけが脳裏に浮かんだ。
「きっとあの方は……、惑わされているだけなんだわ」
 現実に戻して差し上げないと。
 女性の唇がゆっくりと弧を描く。何かを魅惑するように、微笑む姿が鏡に映し出された。

 “魔”であるということを。他の誰よりも ――― 、逃げられないということを。教えてあげなければならない。
「すぐにお戻りになるとは思いますけど……」
 あの、自由で残酷な性をもつ ――― 、美しい悪魔のような方。
 畏怖と敬意、あらゆる好意をその身に受けながらも、誰にも興味を持つことがなかった、存在。なのに、今は ――― 。

「……あってはいけないことだわ」
 だから、計画は動き始める。
 罠は仕掛けたから ――― 、あとは結果を待つだけ。

 きっと、戻ってきた彼女は感謝をするはず。
 そう。そして傍にありたいと願うこの望みを叶えてくれる ――― 。

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