――― こん、こんっ。
ドアをノックして香穂は部屋の中に問いかけた。
「秋、入ってもいい?」
「うん、いいよ」
即座に返ってきた返事に、ドアを開ける。
秋は机に向かって座っていた。部屋の中に足を踏み入れて、そのまま机の側に置かれているベットの上に座る。
「宿題?」
「そう。現国なんだけどさ。香穂はもう終わった?」
とっくの昔にね、と。香穂は小さく肩を竦めた。
精霊使いと付き人は小学校を卒業するときまでに、高校までの知識は全て教え込まれている。学校で出される課題にそう時間を取られることはなかった。秋は宿題が出された4科目の中に、苦手な現国があったせいでいつもより時間がかかっていた。
集中して取り組んでいる秋の背中を香穂はじっと見つめる。
男の子にしては肌は白いほうだと思う。薄く染まった茶色の髪。触ると、さらさらなその感触が香穂は好きだった。顔は惚れた弱みとは言わず、恐らく客観的に見ても整っている。だけど、何よりも香穂が一緒にいて心地いいのは、秋に穏やかな温かさと。優しさを感じるから。
ずっと一緒にいたいと。――― そう思わせてくれる雰囲気が秋にはあった。
「……明日ね。お父様たちが戻ってくる予定だったでしょ?」
香穂が高校に入ってからは、会社の様子を見に行くという建前で、夫婦で外国や国内の各地の温泉を巡ったりしている両親はなかなか家には戻ってこない。一ヶ月ばかりの旅行に行けば、大量のお土産を持ち帰り、またすぐに旅行へ行くという日々を過ごしていた。
「今どこにいるんだっけ?」
「イギリスよ。一週間前くらいから」
そして明日戻ってくる予定だった。
飛行機まで予約して、到着時間には迎えに来るように言い渡されてある。だが、先ほどかかってきた電話を思い出して、香穂はため息混じりに秋に伝えた。
「さっき電話があって、予定変更だって。あと3日くらい滞在してから、フランスに渡って、イタリアやスペインも巡ってくるからって言ってた」
「……結局、いつ帰ってくるの?」
背中越しの問いかけに、香穂は首を横に振って答えた。
「さあ。でも、帰ってくるときは前もって連絡するって言ってたわよ」
両親の気紛れは、香穂にしても秋にしてもいつものこと。夫婦水入らずで楽しむことができる二人を微笑ましく思えばこそ、特に動揺することでもない。
―――― ただ。
「それで、どうしたの?」
不意にそう訊かれて、少なくとも秋のそんな反応は予想していなかった香穂は反射的に聞き返していた。
「それでって……え、なにが?」
戸惑う香穂の言葉に、秋は見ていた本を閉じて、手にしていたペンを置くと椅子から立ち上がって、香穂の隣に座った。
「何かあったって顔してるから、訊いてるんだけど」
見つめてくる秋に、思わず目を瞬かせる。
(平静は保ってるつもりだったんだけど ――― 。)
演じたことを見破られたことはなかった。いつも傍にいる砂霧でさえも。それをこうも簡単に……。
香穂の唇からため息が零れる。
「……秋はなんでもお見通し?」
苦笑まじりに言う香穂の頭をぽん、と優しく叩いて秋は笑った。
「一応、香穂に関しては誰にも負けられませんからね」
悪戯っぽく笑うその瞳には真剣な光が隠されていて、香穂も嬉しさに自然と笑みが浮かぶ。だが、それは切なさの入り混じった、どこか弱々しい微笑みだった。
「別にね、何かあったわけじゃないの。ただ…………」
足元に香穂の視線が落ちる。秋は静かに続きを待った。
「考えてた。秋と私が出会ったのは……どうしてだろうって。不意にね、そんなことが浮かんできて、そしたら頭の中から離れなくなって」
本当はずっと昔。十年程前に、初めて秋と出会ったときから、知りたかった答えのない疑問。心のどこかで ――― ずっと、知りたかった。
「……そうだね。出会った理由なんてないようにも思えるし。あるようにも思える。それこそ、考え方なんて人が出会う数だけ何百、何千通りもあるんじゃないかな」
秋はそっと香穂の肩に手を回した。その仕草に促されるように、香穂は秋の肩に頭を寄せる。
「でも、僕はきっと香穂に会いたかったんだよ。ずっと昔から。もしかしたら、僕が僕として生まれる前から。それだけを願っていて ――― 。だから早いうちから、僕は君に会うことが出来た」
僕の中では、きっとそれだけが全てだったんだ。
ただ、君に会いたかった。僕が深く愛することができる君に ――― 、会いたかった。出会った理由なんてわからないよ。ただ、僕にとってこの出会いは何を引き換えにしても変えることができないほどに大切なものだった。
秋の言葉が、優しく香穂の心の中に入り込んでくる。その包み込むような音に、目を閉じて香穂も頷いた。
「私も……、そう思う」
もし後悔をする何かが起こったとしても、秋と出会ったこと ――― 。そのことは絶対に後悔したくない。他の何かを後悔したとしても ―― せめて。
香穂は願うように。
――― 誓うように、改めて思った。