新城家当主が理事になっている学校のひとつ、初等部から高等部まで付属している『昴城(こうじょう)学園』の高等部に香穂たちは通っていた。
2年生校舎の廊下を自分の教室に向かって歩いていた香穂は、ふと違和感を覚えて周囲を見回す。
(……なに?)
肌に突き刺さる殺気。憎しみと嫉妬に染められている視線。
異様な雰囲気を感じ取ったものの、周囲を見回しても生徒たちが廊下で雑談を交わしている様子だけがあって、それらしきものは見当たらない。
砂霧、と香穂は呼びかけて、声をかけられた。
「香穂?」
振り向くと、深雪が不思議そうな顔で立っていた。
香穂は呼びかけた名を押し込めて、代わりに「おはよう」と挨拶を交わした。
「はよ……。久しぶりだね」
「一週間ぶりでしょ。お疲れさま」
深雪は頷いて、眉を顰めると大きなため息を零す。その顔に疲労が浮かんでいるのを見つける。
「本当に……最近。高魔相手の仕事が増えたと思うの、気のせいかなー?」
明らかに様子を伺う口調で訊いてくる深雪に苦笑を返して、香穂は教室に入ると、自分の席に座った。その前の席である深雪も鞄を置いて、すぐに後ろを向く。
「良かったね。高魔の相手ができるほど、実力がでてきたって証拠でしょ」
香穂は鞄の中身を机の中に入れながら、深雪に押し付けた仕事の内容を思い出す。
元々、全国に散らばる精霊使いに依頼を送るのは新城家当主の役目だ。その依頼の情報を集めて、結果どうするかを判断するのも。故に、当主には精霊使いの能力を見抜く力、判断力、決断力が求められる。誤った決断を行なえば、それは人殺しにも繋がってしまうからだ。だが、最近はその判断を香穂が行なっていた。勿論、それを知っているのは新城家の人間と深雪、葉月だけで、口外は禁止されている。
それでも遠まわしに深雪が恨み言を愚痴るのには理由があった。
「実力ね……。てっきり誰かさんたちの仕事が全部回されてきてるのかと思ってたんだけど。そう、実力か……」
繰り返して呟く深雪の言葉に、香穂は視線を向けて小さく肩を竦めた。
「誰かさんの仕事が請けられるほどはまだまだ未熟者だから、そんな心配はいらないわよ。きっと」
皮肉に嫌味を含んで返された深雪は、それでも楽しそうな笑みを浮かべる。
負けるとわかっていても、深雪が軽口を言うのは、香穂と言い合えるその大切さを知っているからだ。香穂はよほど親しい者以外には、何を言われてもまったく相手にしない。香穂が黙り込んでしまうか、相手が一瞬で黙り込んでしまうような一言を口にするかのどちらかで、とても言い合うというものではない。
だからこそ、二人の言い合いには秋も葉月もけして口を挟むことはなかった。
「あ、おはよう。深雪ちゃん」
朝来るとき廊下ですれ違った担任に頼まれて職員室に行った秋が、両手いっぱいの資料を抱えて教壇の上に置くと香穂たちの傍にきた。
「はよう、秋くん。朝から災難だったね」
深雪の言葉に苦笑を浮かべて、秋はふといつも一緒の存在がいないことに違和感を覚えた。
「あれ、葉月は?」
「3年の先輩のところに行ってくるって。貸してたCDを返してもらうって言ってたけど」
「CD?」
ふと興味を覚えて、秋が「何の、」と聞こうと口を開きかけたとき、別の声がそれを遮った。
目の前にCDケースがかざされる。
「詩姫のですよ。知ってるでしょう?」
視線を向けると、葉月がCDケースを片手に立っていた。
そのケースを見て、秋が驚いたように叫ぶ。
「それって今話題の?! 入荷しても30分もかからずに売り切れたっていう、あの限定品?」
「そう。予約もできないから、ちょっとコネを使って手に入れたの」
ね、と深雪が意味ありげに片目を瞑って答えた。
「声が澄んでいて、綺麗なんだよね!」
秋の誉め言葉に、更に深雪も頷いて続ける。
「そうそう、透き通ってて。あの声は言葉でとても表現できないよね。顔も凄く美人だし……。他の歌手やモデルなんて足元にも及ばないわよ」
「彼女が自ら書く歌詞もまるで詩のようで。他とは違った感覚に惹かれるんですよね」
滅多に他人を賞賛しない葉月までもが、好意のある言葉を紡いだ。
デビューしてまだ間もなく一ヶ月も経っていないはず。それでも国内ではすでにトップ歌手であり、外国進出も間近といわれている。まさに、「詩姫」だった。
「秋も借りますか? 返すのはいつでもいいですよ」
「ほんと?! 聴きたかったんだ。ありがとう、葉月!」
秋は嬉しそうにCDを受け取って、感謝した。
「そういえば、香穂はそういうの興味ないの?」
疑問に思って深雪が視線を向けると、すでに香穂は机にうつ伏せになりぐっすり睡眠中の身となっていた。
夜が更けた頃。
香穂は訪れた公園の入り口近くに植えてある木々の前に立っていた。そのひとつ。確かにあったはずの桜の木が、残骸を残して消え去っていた。
「……やっぱり。破られてたね」
身を屈めて、唯一残っていた一本の折れている枝を拾う。かろうじて残ってついていた葉が、地面に落ちていった。
「気づかれない程度の結界は……、無理があるのはわかってたけど」
ふっと、香穂は小さく息をついた。
この場所にはこの桜の木を媒介として、結界が張られてあった。新城家が代々に渡って守ってきた結界だ。
“魔”がこの街に現れたときに反応するように ――― 。
以前、水使いの三月拓也が「なぜこの街が狙われやすいのか」と、秋に訊いていたことがあった。それは“魔”にとって明らかな敵である精霊使いの中心的存在、新城家を狙う者が多いからだ。昔はそれほど『新城家』を知る者は少なかったが、精霊使いたちが表舞台に現れ、活躍が目立ち始めてから世間にも、そして“魔”にも知られていくようになった。あまりに多くの“魔”が新城家を狙い、この街に侵入してきたとき、新城家の当主が張ったのがこの結界だった。妖魔の侵入を防ぎ、霊魔や高魔の侵入を報せる役割を持っている。そうすることで、新城家当主は事前の対処を行ってきた。
今この結界を知っているのは、現当主と香穂の二人だけ。
桜の木を媒介として結界を張ることで、能力を持つ者、また高魔という大きな力を持つ者でさえ、見破ることができないようになっていた。
「……動き出したって証拠か」
ふわり、と風が動く。
その風に伝えるように、香穂はひとり言葉を紡ぐ。その瞳に悲しげな光を宿して。
「どうなるかはわからない。まだ、決断できない。だから、もしものときは彼についてほしい。力を受け継ぐべき時かどうかは別にしても……。契約の果たされる時はもう……」
小さな声の呟きは、通り過ぎる風の中に消えていった。