居間でテレビを見ていた香穂は、ふと気にかかって、傍で雑誌を読んでいる秋に視線を向けると話しかけた。
「秋? 明後日からまた、雨が降り出すんだって」
だが、返答はなかった。黙って、本に集中している。本当はそれだけでもおかしい。秋はどんな些細なことであれ、香穂の言葉に耳を傾けないことは今まで一度もなかった。
「……秋?」
今度は耳元で呼びかけてみた。
「……どうしたの?」
何もなかったように、秋はようやく顔をあげた。香穂は何もいわなかったフリをして、テレビを示す。天気予報はすでに終わっていた。
「雨が降ってくるって」
「そうだってね。嫌だよね。明日から雨なんだ……」
そう言って息をつくと、秋はまた雑誌に視線を戻した。
香穂は暫らくその様子を眺めていたが、やがて立ち上がり「おやすみ」と言って居間を出る。自分の部屋に向かいながら、先ほどの秋の返答に首を傾けた。
(…………おかしい。やっぱり秋の様子がヘン。)
雨が降るのは「明後日」からだって言ったのに、秋は「明日」と言った。まして、ちゃんと聴いていた素振りだったが、テレビの天気予報は今日からの快晴は最低でも一週間は続くと伝えていた。
(雨は降らないはずなのに ―――― 。)
似たようなことは最近ずっと、続いていた。
学校では次の日の時間割と間違えたり。時々ならまだしも、毎時間だ。そのうえ、間違えたことさえ覚えていない。家では仕事の依頼に対して、請けてもいない依頼のことを口にしたり、すでに終わってしまっている過去の依頼を終わっていないと持ち出してくる。更にその会話したことさえ数分後には忘れてしまう。
秋らしからぬ状態で、だけど葉月や深雪にも似たような傾向が見られていた。そうして、より強くなったあの不快な視線。学校ばかりでなく、最近は街の中や屋敷の中でも、“悪意”に満ちている視線を向けられるようになった。
香穂は部屋に入って、ドアを閉めるとそこに寄り掛かった。
「…………砂霧?」
幾分の躊躇いを含んだ口調で呼びかける。だが、返事はなく気配も掴めなかった。
昨日、一昨日あたりから、ずっと行方がわからない。いつもなら一度呼びかけただけで必ず返事があるのが常だ。黙ってどこかへ行くということも、ありえなかった。
それでも、誰が何のためにかは大体の想像をつけることはでき、またそこから砂霧の行方は把握できる範囲内にある。半ば確信できていて。それよりも、香穂が気にかかったのは、秋の様子。
「探ってみないとね」
真剣な表情で、だけどほんの少し楽しげな含みを込めて香穂は呟いた。
―――― 追いかけてくる。
暗闇の中、あてもなく走り続けている秋は、誰かが追いかけてくる気配に恐怖を覚えていた。
(怖い……。恐くてたまらない。)
追いつかれたくなくて、ただひたすらに走っていた。
『怖い? 誰が追いかけてくるの?』
不意に耳元で声が聞こえた。それを疑問にも思わずに、思考を巡らせる。
(だれ……?)
わからない。
追いかけてくるのが誰なのか。
ただ迫ってくる恐怖に、秋は逃げるしかなかった。
『それはあなたの……敵?』
( ――― 敵? 敵って?)
秋はまるで聞こえてくる声に導かれるように、問い返す。
『恐いもの。アナタを追いかけてくる存在のことよ』
その言葉に、秋は頷いた。まるで、何かに操られているかのように ――― ゆっくりと。
(そう、敵なんだ。僕は敵から逃げている。早く逃げないと追いつかれる。)
『追いつかれたら、どうなるの?』
ぴたり、と。逃げていた秋の足が動きを止める。
―――― 追いつかれたら?
「そうしたら、僕は……」
恐怖を覚えたその理由。
恐くて恐くて、逃げていたのは、追いつかれたときの結末を知っているからだ。そうだ。追いつかれてしまったら。
「喰われてしまうんだ…………」
呻くようにそう言葉を紡いだ途端、目の前にぼんやりとした明かりが浮かび上がる。
人の影をとったそれは、愉しげな哂いを零していた。
「そう……。アナタは食べられるのよ、この私にね」
その姿は、黒い髪に対照的な白い肌。美しく整った顔。 ――― 暗闇の中でも、見間違うはずがない。
ただひとりの、愛する人の姿。
だが、ただ恐怖だけに支配された秋は、その名を叫んだ。
「香穂 ―――― っ!」
「秋っ! ちょっ、しっかりしてっ!」
不意に名前を叫ばれた香穂は、ベットの上で眠る秋の傍らに急ぐと、身体を揺すって声をかけた。
その声に ――― 、秋がゆっくりと瞼をあげて、目を開ける。その瞳を見て、香穂は息を呑んだ。
( ―――― 意識がないっ!)
いつもの穏やかな光を浮かべている目はただぼんやりとしていて、焦点を
失っていた。
「……香穂?」
目の前の存在に、そう呼びかけると秋は手を伸ばした。
その動きを追って、香穂は目を見開く。秋の手はゆっくりと香穂の首に回された。そののんびりとした動きとは対照に、ぎゅっと力が手にきつく込められる。
「……しゅっ、しゅうっ……」
少しづつ、力が込められていく。首にかけられている手を外そうともがいてみても、まるで何かに操られているようにその力は強く、動かなかった。
(……意識を取り戻さないとっ!)
香穂は風を呼び起こし、一瞬だけ秋の目を塞いだ。
「うっ、」
秋が痛みに呻いた途端、その力が弱まって、香穂はそのまますぐに秋の唇を塞いだ。
ふたりの動きが止まる。
どれくらいの時間が流れたのか。先に動いたのは香穂で、唇を離す。
「……か…ほ…?」
秋の目に、いつもの優しい光が浮かんでいるのを見て、香穂はほっと胸を撫で下ろした。
意識がない者を目覚めさせるにしては、ほんの少し強引な手段であったことは否めなくて。一瞬のことではあったものの、そんな選択を取ってしまったことが香穂は悔しかった。それでも、秋には素振りさえ見せずに、ただ気遣って問いかける。
「だいじょうぶ?」
「あれ……、僕は……?」
状況がつかめずに戸惑う秋の顔を見て、香穂は目を細める。
恐らくいま、香穂の首を絞めようとしていたことも。香穂が口付けから強引に秋の意識を目覚めさせたことも、覚えていないだろう。
香穂はふっと、息をついて口を開いた。
「用事があって秋の部屋にきてみたら、もう眠ってたし。せめて寝顔でも見て帰ろうと思ったら、うなされてたの。様子を見てたらひどくなってきたみたいだから、つい起こしちゃった」
明るい口調で言って、おどけるように肩を竦める。その仕草に、秋は軽く首を左右に振った。
「……覚えてないけど。よほど怖い夢だったんだね。服が汗でびっしょりだ」
――― 覚えていない。
その言葉に香穂はただ「そう」と頷いて、そのまま夢のことには触れずに話しを変える。
「シャワーでも浴びてきたら?」
「そうだね。着替えてくるよ」
香穂の言葉を受けて、秋はベットから起き上がった。部屋を出て行こうとして、まだベットの端に座ったままの香穂を振り返る。
「そういえば、香穂の用事は?」
慌てて香穂は本来の目的を告げた。
「あ、うん。ほら、秋が葉月に借りてた“詩姫”のCDを貸してもらおうかなって。まだもってる?」
秋は頷いて、部屋の隅の棚に置いてあるCDラックから一枚のケースを取り出し、香穂に渡した。お礼を言って受け取って、香穂も部屋を出た。