第三章 詩姫の罠

二、幻曲(3)
 再生ボタンを押して、香穂は椅子に深くもたれる。
 暫らくして、すぐに美しい歌声が部屋の中に流れ始めた。
(やっぱり……、原因はこれか)
 流れる歌声に、香穂は確信を持つ。
 歌には強い暗示の力が込められていた。憎悪、嫉妬、あらゆる負の感情を撒き散らすもの。普通の人間なら素直に暗示にかかってしまうだろう。けれど、秋たち精霊使いは、精霊の力が暗示に反発し、変な形でかかってしまった。それが「忘却」という結果を秋にもたらしてしまったらしい。

「……馬鹿ね」
 悪態が香穂の口をついて出る。
(こんな暗示なら、すぐに解けるというのに ――― 。)
 彼女の真意がわからない。何を考えているのか。
――― それでも、受けた屈辱は返してやらなければ。
 握り締めていた手を香穂はゆっくりと開いた。爪が食い込んで、その手の平は青白く染まっている。
 さっきの秋との光景が脳裏に浮かぶ。秋に首を絞められて、その意識を強引に取り戻したときの恐怖を震える手が表していた。
(いつか、――― いつか。)
 そう思って、ハッと我に返る。自分までも部屋の中を満たす歌声に誘われそうになったことに気づいて、苦笑する。
「さっさと、こんな暗示は解いてしまいますか」
 香穂はそう言うと同時に、力を奮った。
 精霊の力ではなく。自らの抑えている能力を行使して。

―――― その瞬間、屋敷の中に悲鳴が広がった。
 香穂は考えるよりも先に部屋を出て、声の聞こえた場所へ向かって走る。風の精霊が香穂を誘導した。

 着いた部屋の障子を空けて ――――
「な……っ、」
 最初に目に飛び込んできたその色彩に香穂は、言葉を失った。

 目を奪われる。鮮やかな、赤 ――― 。むせ返るその匂いに、それが人間の血であることに気づいた。
 くらり、と眩暈を覚える。

「木村さんっ!」
 部屋の中央で香穂に背を向けて立っている女性に気づいて、名前を呼ぶ。
 その血が、彼女のものだと思った。だが、彼女が振り向いたとき、その手に真っ赤に染まる刃物が握られているのを見て、衝撃を受ける。
(まさか ――― っ。)
 彼女の傍に、ひとりの女性が仰向けに倒れていた。
 最近、入ったばかりの新人で挨拶に来たひとりだと思い出す。

「……香穂さま?」
 呆然とした顔つきで、焦点のあっていない瞳を動かし、彼女は呟いた。

―――― 香穂さま。
 そう言って優しく笑う彼女は香穂にとって、親しみを覚える人間の一人だった。仕える主人だから、とか。新城家の肩書きとかに捕らわれず。無条件に愛情を与えてくれる侍女長。
 我に返って、香穂は急いで部屋の中に足を踏み入れると、障子を閉める。秋も悲鳴に気づいてすぐに駆けつけてくる。この光景をそのまま見せることはできない。
 風の精霊に結界を張るように命を下した。その気配を感じながら、香穂は彼女の傍に寄るために足を踏み出す。一歩 ―― だが、止める。

「……敵。貴女は……敵」
 ぎくり、と一瞬その言葉に息を詰める。
( ―― 暗示?)
 あり得ない。それはさっき解いたはず。解いた後の悲鳴だったことを考えると、暗示は解けている。
 香穂は意識を外へ向ける。街中から放たれていた悪意はどこからも感じられない。

「……人間では……ないもの……」
 ゆっくりと近づいてくる彼女の言葉に、香穂はハッと意識を戻した。
 香穂を敵だと言いながら、侍女をひとり殺している。
「あの暗示は私だけを狙うようになっていたんじゃないの……?」
 呆然と呟いて、けれど香穂は次の瞬間、思いついた。
(二重暗示……っ!)
 恐らく彼女だけに掛かっていた暗示がある。周囲にいる人間が皆一様にして香穂に見えてしまう。そしてそれが敵にうつる。その暗示の引き金が他の暗示を解く瞬間。能力を使う瞬間だった。
「あのばかっ、何を厄介なこと……っ!」
 思わずこのややこしい事態を引き起こした張本人を罵倒する言葉を吐き出す。

 同時に襖の外から声が聞こえた。
「香穂…っ! 香穂いるんだろっ?! 開けてよっ、どうしたの?!」
 結界が張られている襖を前に戸惑う秋の声で、思考を戻す。
 急いで闇の精霊を動かした。近づいてきていた彼女の動きが止まり、包丁はその手から滑り落ち、がくりと身体が崩れる。香穂はその身体を受け止めて、血のついていない畳の上に横たえた。

 その瞬間、結界が壊れる音を聞いて、香穂は目を見開いた。

「香穂っ?!」

 驚いて視線を向けると、秋が障子を乱暴に開けて入ってくるところだった。
 香穂がこの部屋を見たときと同様、秋も赤黒い染みが一面を覆う光景に、言葉を失う。
「……秋。どうして……?」
 まだ結界を解くように精霊たちに命は下していない。完璧とはいえなくても、秋に解けるような結界の張り方はしていないはずなのに。
 だが、秋は香穂の言葉が聞こえていなかったのか、横たわる侍女長に視線を向けた。
「香穂、木村さんは……?」
 気遣うようにかけられた声に、慌てて我に返る。
「彼女なら……大丈夫よ。ただ、死んでいた侍女を見つけて悲鳴をあげただけだから。でも随分と混乱していたから、眠らせたの」
 香穂は真実を隠して言いながら、死んでいる侍女に近寄った。秋も後を追ってくる。
 スッと傍に座り込んで、秋は開いたままになっている彼女の目をそっと伏せてあげた。吐き気を覚える匂いに包まれた身体を見て、深く息をつく。
「……内臓がめちゃめちゃだ。何度も何度も刺されて…………誰がこんなこと」
「 ―― 秋、考えるより前にまず部屋を片付けて。死体も綺麗にしてあげないと。ほら、早く布団を用意して」
 秋の言葉を無理矢理遮って、香穂は指示する。

 光と闇の精霊を使って、侍女の死体の傷を塞いだ。同時に行使した水の精霊が畳に染み付いた血を全て綺麗にしていく。部屋はまるで何事もなかったように、元の状態に戻った。
 秋は死体となった侍女を敷いた布団の上に運んだ。その間に香穂は侍女長の傍にいく。横たわっている彼女の額に指先をつける。

『木村さん……。貴女は何も見ていない。今から部屋に戻り、布団で眠り、明日いつも通りに過ごして下さい』
 全てを忘れて ――― 。貴女は何もしていないのだから。
 香穂はそう暗示をかける。
 暗示が掛かった彼女はゆっくりと起き上がり、自分の部屋へと戻っていった。
 安堵に胸を撫で下ろして、死体の傍にいる秋のもとにいく。

「香穂?」
 訝るように秋に名前を呼ばれても返事をしないまま、横たわる侍女の額にそっと触れた。
――― 30歳前半というところだろうか。
 彼女の過去を香穂は視た。
 身寄りがいない。恋人らしき存在も。人付き合いの下手な女性だったらしい。
( ――― 都合がいいね)
 香穂は額に伸ばしていた手を下ろして言った。
「死体は消滅させて、彼女に関する記憶も消そう」
「香穂っ!」
 慌てたように名前を呼ばれて、香穂はようやく秋に視線を向けた。驚いたように見る秋の目を黙って見つめ返す。
「何言ってるの……? ちゃんとお葬式して供養してあげるのが常識だろう?!」
 常識、その言葉に香穂の眉がぴくりと動く。恐らくその言葉の前に付くのは、「人間としての」であることが容易に想像できる。

「お葬式っていっても形だけでしょっ。魂さえちゃんと成仏させてあげればいいんでしょう?!」
 苛立ったような香穂の言葉に、秋は小さく息を呑んだ。
 香穂にとって人間としての常識などどうでもいい。ただ、大切なものを守れるかどうかという意識だけがある。
「そうだけど、でも……」
 形もとても大切なことであると、香穂に伝える言葉をもてず、秋の表情が諦めきれない想いで、曇る。それでも香穂には秋の思いは簡単に読み取ることができた。小さく肩を竦める。
「わかった。その代わり手配は秋が全部すること」
 その言葉に秋はほんの少し嬉しそうな感情を滲ませて、頷いた。

「……で、香穂。彼女を殺したのは誰なの?」
「…………」
 香穂は無言で秋の真剣な顔を見つめる。
「屋敷の結界に反応はなかったよね。ということは侵入者はないはずだし」
 屋敷に張られている結界は「人間」と「魔」のどちらの侵入もなかったことを告げている。
「香穂はなにか気づいた?」
「……何も。何もなかったわよ」
ほんの少し躊躇って。それでも幾分か強い口調で香穂は言う。そのまま踵を返して、部屋を出た。

 「香穂っ?!」
 慌てて秋は後を追いかける。
 香穂は庭に出て、今はまだ緑色に染められている大きな桜の木の下に行く。風に揺れて落ちてくる葉に、目を細める。
「本当に……わからないの。精霊たちも悲鳴が起こるまで何も気づかなかったくらいなのよ。だからね、もう少し待って」
 そう言いながら、香穂は振り返り笑顔を浮かべる。その笑顔の中にほんの少し寂しげな陰を見つけて、秋の胸に切なさが溢れてくる。秋は香穂に歩み寄ると、身体を引き寄せて腕の中に抱き締めた。
 不意を突かれた行動に、香穂は戸惑う。
「秋……?」
「なんか、不安なんだ……。嫌な予感が消えてくれなくて……」
 それを聞いて香穂は思い出した。秋の勘は大抵当たるということを ――― 。だけど、そんな考えを誤魔化したくて少し強い口調で言う。話をすり替えて。

「死体なら見慣れてるでしょう。屋敷の中の人があんなことになったからって、弱気にならないで」
「ちがっ……」
 否定しようとする秋のその言葉を遮って、香穂は先に抱いていた疑問をぶつけた。
「そういえば。秋、さっき部屋に入るときに何か特別なことをした?」
「さっきって? あの部屋に駆けつけたとき?」
 香穂が頷くと、秋は少し考え込むように首を傾けて、それから小さく左右に振った。
「別に。ただ、香穂があの部屋に結界を張ってたのはわかったよ。他の誰かを入れないように。でも僕が来て ――― 、だから解いたんだよね?」
 秋の言葉に、香穂は眉根を寄せる。
(結界を解いた? ……ちがう。)
 あの時は秋でも入れないようにしていたのに。今の秋の能力であの結界が解けるはずが……。
 そこまで思って、気づいた。ひとつの仮定が浮かぶ。

 風の精霊が作った結界 ―― 。
 それなら秋が強く望んだのなら、解けて当たり前。でも、精霊たちが命令よりも秋の望みを叶えるなんて。
「香穂、どうしたの?」
 唐突に腕の中でくすくす、と楽しそうに笑いを零す香穂を不思議そうな顔で秋は見る。
 香穂はそれには応えずにただ楽しそうに ―― 嬉しそうに笑っていた。


 秋を屋敷の中に帰して、香穂はひとり桜の木の下に残った。
 風の精霊たちが騒いでいる。
「ちょっと黙ってて」
 命令を下すと、精霊たちは大人しくなり、風がぴたりと止んだ。
「心配しなくても気づかれるようなことはしないから。媒介を使うしね」
 精霊たちと話すにしてはいつもと違って、まるで秋に話しかけているかのような優しい口調でそう告げる。それだけで、今の香穂の機嫌が良いと知れる。
 香穂は目を閉じて、幹に手をあてた。
 意識を集中させて、頭の中で遠くにいるだろう彼女に話しかける。

――― 砂霧。いるよね?
――― 香穂さま?!

 砂霧の驚きを含んだ声が返ってくる。

――― そこにいるのはお前ひとり?
 媒介を使うことで、声だけが届くことになり、様子までは視ることができなかった。その言葉で砂霧も気づいた。応えはすぐに返る。

――― はい、他には誰もいません。しかし結界だけは完璧に張られています。
――― やっぱり?
 砂霧が破れないほどの結界。
 それを誰か張ったかは香穂には容易に想像が付いた。今回の本当の黒幕。それなら砂霧の居場所は明らかだ。
 傍に行くことができれば、香穂になら簡単に解ける代物だろう。だが、そうするには今の香穂には不安がありすぎた。

――― 助けには行かないからね。
 本当は行けない、と。心の中で思いながら、香穂は言う。今は秋の傍を離れることはできなかった。

――― ご心配なさらなくても、私は“詩姫”ではありません。
 ひとりを選んだからといって、その相手を恨んだりしない。
 それが“詩姫”とは違う視点で香穂を見守ってきた砂霧の出した答えのひとつだった。

――― それに私は殺される心配はありませんから。
――― うん。……でも、隙があったら逃げてきてね。

 恐らく無理だと、暗黙の元にわかってはいたが砂霧は頷いた。
――― わかりました。香穂さまもお気をつけて。

 それを聞いて、香穂は意識を戻した。桜の木から手を離す。止んでいた風がまた騒ぎ始めた。
「まだ……。もう少しだけ……」
 香穂は願うようにそう呟きながら、夜の空を見上げた。

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