第三章 詩姫の罠

一、狂曲(1)
 闇に染まる次元で、宙に浮かび立っている少年がいた。
 人間でいえば13〜15歳くらいの姿で、暗闇に鮮やかに光輝く金髪と同じ色の瞳をしている。まだ幼い印象はあるものの、容姿は美しく整っていて、見るものを魅了する雰囲気があった。無邪気そうに見える顔つきとは反対に、その瞳にはひんやりと冷たい鋭い光が浮かんでいた。

「おかしいね」
 呟く声はどこか愛らしさを含んでいて、だがそれは一度聞けば忘れられないと虜にするほどの声色をしていた。
「視えないんだよ……。入り込めない」
 眉根を寄せて、顔を顰める。
(精霊の加護のひとつでしょうか?)
 少年の頭の中に、美しい声が響く。その言葉を少年は頭を左右に振って、否定した。
「ちがう……。これは、封印だね。しかも姉様の力を感じるよ」
 考え込むように言って、感じ取った力にくすりと面白そうな笑みを零す。
 記憶の中に加えられた『力』 ――― 。外部からの接触は勿論、内部からでもけして破れることがないように。影響を与えることさえもできないその『力』は完璧なものだった。
「残念……。これでこの計画もパアだね」
 たいしてがっかりした顔もせず、少年は小さく肩を竦める。
(このことを‘詩姫’に伝えますか?)
 途端、少年の周囲を包む空気が一瞬で不機嫌なものへと変わった。触れると切れる。そんな研ぎ澄まされた雰囲気は緊張を生む。少年は不機嫌な顔つきのまま、不意に現れた椅子に座った。ゆったりと足を組んで。
「嫌だよ。そんなことをしたら、僕の次の計画が壊れるだろ」
( ――― ‘詩姫’を囮に使いますか。)
 それには答えず、少年は右手を伸ばす。手の平の上に金色に輝く焔が現れる。それはすぐに形を変えて、美しい金細工に縁取られた鏡になった。
 思い通りの場所を映し出す、遠視鏡(えんしきょう) ――― 。

「遊びなら邪魔しちゃいけない。でも本気なら……」
 その先を考えて、少年は思わず笑みを零した。どちらかといえば、本気がいい。そうすれば、すぐにでも彼女を迎えにいけるし。面白くなる。
 想像と企みを広げていく少年は、嬉しそうに次の計画を組み立てていった。そこに映る黒髪の少女の姿を見つめながら…………。


 ‘詩姫’は区切られた自らの空間で椅子に腰掛け、ゆったりとした面持ちで温かい紅茶の入ったカップに口をつけ、傾ける。
 計画は上々 ――― 。思い通りに進んでいることに、気分はとても軽かった。
 そこにふと、一匹の猫が何の前触れもなく空間を裂いて姿を見せた。黒色の毛に包まれているすらりと美しいその猫は身軽な動作で‘詩姫’の正面に身をおいた。
「沙野……? どうしたの?」
 突然の猫の来訪に‘詩姫’は目を見開く。
 昔は主人の傍で見ることが多かったこの黒猫も、主人が姿を消すと同時期に行方知れずになっていた。もともと気を許したもの以外には近寄ろうとしないし、側近とはいえ沙野に触れる許可は貰えなかった。
 その猫が今まるで対峙するかのように、自分の正面にいる。
 手に持っていたカップを側のテーブルの上にある皿に戻すと、それを待っていたかのように、猫が口を開いた。

「手を出すなって言ったでしょう」
「 ――― っ?!」
 驚きに言葉を失っている‘詩姫’を無視して、猫は続けた。
「まさか二重暗示なんて面倒くさいことするとは思わなかった……。やり方が汚い」
 猫の目がキラリ、と殺気立つ。
 ‘詩姫’は猫の向こうにいる存在に気づいた。沙野を操れるのは彼女以外にいない。わきあがる恐怖心を押さえ込みながら、平然とした態度を装って‘詩姫’は答える。
「やり方が汚いなどと……。貴女にそんな非難を受けるとは思いもしませんでした。目的のためなら手段を選ばないと言って実行していた貴女にね」
 恐怖心とは別に、‘詩姫’は怒りがこみあげてくるのを感じた。それは言葉に宿る。
 猫は大げさに肩を竦める ――― ような態度をとる。
「わかってるじゃない。そう ――― 。目的のためなら手段は選ばない」
 猫は黒い目を細めた。
 ‘詩姫’との間に冷たい空気が流れる。
 敵に回して初めて知る恐怖がそこにあった。恐怖に飲み込まれて、震えていた身体がぴくりとも動かない。‘詩姫’は言葉を発することもできず、ただ、ぶつかり合う視線を逸らして、テーブルの上に飛び乗った猫の動きを目で追う。

「人間からお前の ―― ‘詩姫’の記憶は消しておいたから」
 二度と表には現れるな、言外にそう告げられる。その口調には微かに哀れむような含みがこめられていた。
 身体中の力を振り絞って、‘詩姫’はようやく口を開く。
「本気なんですかっ?! ……貴女は人間ごときに全てを捨てるとっ?!」
 慌てる口調とは対照的に、猫は落ち着いた声で言う。どこか遠くに視線を投げて。

「……私にとっての全ては彼なの」
 そう言い切る少女の瞳 ―― 今は猫の瞳だが ―― には、愛に満ちた光が煌いた。

「そんな……」
 愕然として‘詩姫’が絶望にうめく。だが、かまわずに猫はがらりと口調を変えて、鋭い視線を向けた。
「これが最後の忠告」
 余計なことはするな、と。切り捨てて、ふと思い出したように猫は告げた。
「ああ、それと。あのバカにも伝えておいてね。執着されるのは迷惑だからって。大人しく、砂霧を解放してってね」
 そう言い置いて、猫は訪れたときと同じく空間を裂いてその中に飛び込み、姿を消した。

 ひとり残された‘詩姫’は呆然とした目を猫が消えた場所に向ける。
がしゃんっ!
 その瞬間、テーブルに乗っていたはずのカップが地面に落ちて派手な音を鳴らした。びくっ、と。無意識に割れたカップに視線を落とす。粉々に砕け散っていた。

「……何をびくついてるの?」
 突然かけられた声に驚いて、振り向く。視線を向けると、綺麗な金髪をかきあげて、愉しそうに笑う少年が立っていた。
「若さま……」
 見知った顔にほっと胸を撫で下ろして、だが戸惑うように‘詩姫’は彼を呼んだ。‘詩姫’の戸惑いを無視して、少年は一方的に口を開く。
「諦めるの? せっかく僕が協力してあげてるのに。心配しなくても大丈夫だよ。彼女は惑わされているだけ。君が全力で思い出させてあげればいい」
 少年はゆっくりと‘詩姫’の傍に歩み寄りながら、言い聞かせるような口調で告げる。魅惑するような優しい微笑みを浮かべて。
 それはまるで、人を誘惑する悪魔のように甘く、艶やかな微笑みだった。
「彼女を正気に戻すことができたら、君はきっと特別になれるよ。君の欲しかったものが手に入る……」
 その言葉が‘詩姫’の胸にスッと入り込んできた。
 欲しかったもの ――― 。それは彼女にとって“特別”な存在でいられること。用があるときにだけ呼ばれる配下ではなく。簡単に切り捨てることができる存在ではなく。欲しいものは、たったひとりと認めてもらえること。ただ、それだけ。
 ずっと、それだけを望んできた。いつの間にかそれを手に入れていた砂霧に嫉妬しながら。
「全力で……思い出させれば……。“特別”になれる……」
 無意識に呟く‘詩姫’に少年は頷く。
 その行為は甘く、とても危険な雰囲気を孕んでいた。だが、‘詩姫’は気づかないまま。気づくことができないまま、それに捕らわれたように嬉しそうな微笑みを浮かべる。
「さぁ、行っておいで。“特別”になるために」
 それが合図。
 ‘詩姫’は少年に背を向けて、空間を裂くとその中へと姿を消した。“特別”になるために ――― 。

「……馬鹿なヤツだよ。ほんっと」
 ‘詩姫’の姿が消えると、少年は呆れたようにそう言って、嘲るように笑みを浮かべる。
「自分が操られているとは思いもしないだろうね」
 そう、操ったのだ。今の瞬間 ―― ‘詩姫’を。
 そうでもなければ、本気で思うだろうか。あそこまで真剣な雰囲気で忠告してきた彼女を相手に全力で、などと。勝敗なんて容易に想像が付く。だが、少年にとって必要なのはそのあと、だ。
 ぞくり、と快感が少年の背中を走り抜ける。わきあがってくる歓喜と、溢れてくる悦楽。
「もうすぐ会えるんだ……。やっと……」
 触れることができる、と待ち望んだ瞬間を思い描いて、少年は喜びに震える。
 姿を消した彼女を見つけることができなかった日々がどれだけ憐れだったか。花連(かれん)と樹鎖(きさ)が残した藤花の記憶がなければ、まだ見つけられなかっただろう。
「でも、もう終わりだよ」
 そう呟いた少年は金色の目を、狂気に煌かせた。


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