第三章 詩姫の罠

三、狂曲(2)
 ―――― 自室で香穂は椅子に座り、目を閉じていた。身動きひとつしない。
 ふと、窓は開いていないのに、風がどこからともなく入り込んで髪を揺らした。その精霊の報せを機に、香穂は瞼をゆっくりと持ち上げ、黒い瞳を覗かせる。
「……セーフ、ってとこかな」
 呟いた瞬間、ドアの向こう側から秋の声が聞こえた。
「香穂、深雪ちゃんたちがきたよ。一緒にご飯食べよう!」
「わかった。すぐ行くから」
 返事をして、立ち上がる。部屋の明かりを消して、ふと暗くなった空間を見る。
(これで終わってくれるといいんだけどね……。)
 強くなる不安を抱えたまま、香穂は部屋を出た。


「ねえ、香穂。ずっと前から聞きたかったことがあるんだけど……」
 二人っきりになった居間でテレビを観ていると、隣で頬を赤く染めた深雪が真剣な顔つきでそう話を切り出した。頬が赤いのは食事の時に飲ませたワインが原因だろう。アルコール度数の高いものを香穂が調子に乗って、1本丸ごとあけさせてしまった。半分づつは飲んだはずなのに、香穂には酔っている様子はまったく見られなかった。
「どうしたの?」
 香穂はテレビに視線を向けたまま、返事をした。だけどそれ以上の言葉はなく、ただ無言の視線が見つめていることに気づいて、訝りながら深雪に顔を向ける。
「……深雪?」
「秋くんって両親いるの?」
「えっ……」
 聞こえなかったわけではなく、純粋にそれを訊かれることへの驚きで香穂は目を見開く。

 付き人の多くが孤児院育ちだ。秋も深雪の付き人の葉月も同じ孤児院にいたところをその能力を見出した「新城家」の付き人を育てる分家が引き取り、教育を与えてきた。だから幼い頃から付き合いのある深雪にしても、彼らの両親についてはお互い口にしたことがなかった。

「どうしたの、いきなり……」
 訝る香穂に曖昧な笑みを返して、深雪はため息まじりに言う。
「べつに……、ごめんね。なんでもないから、忘れて」
 一方的にそう告げると、ごろりとそのまま横になる。そんな彼女を見ながら香穂は優しく言う。
「風邪……ひくよ。こんな所で寝ると」
 だが、深雪からは静かな寝息だけが返ってきた。
 香穂は苦笑して、「しょうがないなぁ……」と呟く。後で誰かに運んでもらおう、と決めて、ふと深雪の寝顔に視線が止まる。本当は、深雪の悩みについては香穂も精霊たちから情報として聞いていた。だから突然の深雪の言葉もわかる。
(でも、……ごめんね。)
 香穂の目が苦しげな光を宿す。答えることができなかった深雪に心の中で謝って、香穂は席を立った。


「両親って、誰の?」
 酔い冷ましに、と秋と葉月は見回りも兼ねて、屋敷の周囲をぶらぶらと散歩していた。月を見上げながら歩いていた秋は、ふと前を歩く葉月の言葉を聞き逃して、問いかけた。
「僕の、らしいです」
 まるで他人事のような響きで葉月が答える。

 孤児院で育てられた二人だが、そこにいた子どもたちも含めて、理由は様々だった。両親が亡くなり、引き取り手のない子ども。親から捨てられた子ども。理由があって、手元で育てることが適えられず、孤児院に置き去りにされた子ども。本当に様々な理由をもつ子どもたちが多い。その中で葉月は3歳の頃に再婚の邪魔になるから、と母親が孤児院に置いて ―― 本人曰く、捨てていったといつだったか話してくれた。

「僕のいないときに深雪に会ったそうなんです。僕と一緒にいたいのなら、お金を渡せと。それができないなら、せめて息子である僕と一緒に暮らしたいと」
 どちらにしても、お金目当てであることは明らかですよね。
 苦笑気味に笑って、葉月は寂しげな表情を浮かべた。

 才能を見出され、認められ、更に選ばれて厳しい訓練を乗り越える付き人には、高い報酬額が施される。それこそ、この国で最も高い収入をもらう職業の1年間分が半年分の給料で、しかも教育も家も食費も、その他雑用経費全て別に出るのだから、それを使用することはほとんどない。溜まっていく一方ではあるが ――― 。

「……葉月は一緒に暮らしたい?」
 たとえお金目当てとはいえ、親は親だ。まして、幼い頃には一度は憧れた両親のぬくもり。だが、秋の言葉に葉月は首を左右に振ってはっきりと言い切った。
「そんな気持ちはありません。ただ ――― 」
 葉月は足を止めて、夜空を見上げた。星は黒い雲に隠れ、ひとつも見えない。月さえも、ぼんやりとした明かりを放っているだけでその姿を隠してしまっていた。
「今度のことで深雪を傷つけてしまって……」
 ため息混じりにそう吐き出して、葉月は俯いた。

 大切な人を傷つけた罪悪感に苛まれているその姿を見て、秋の胸が痛む。守りたい人を上手に守れないその歯がゆさは、秋の香穂に対するものと一緒で。だからこそ、その気持ちはよくわかる。それ故に、秋は葉月に言葉をかけなかった。

 少なくともそれは、自分で。――― あるいは深雪と二人で解決すべき問題で、下手にあれこれと口を出したら、波紋を広げるだけ。壁を自分たちで乗り越えたときに、きっともっと強く深い絆を得ることができるんじゃないだろうか。
 それは葉月もわかっている。――― わかっていて、ただ聞いて欲しかっただけなんだろう。
 だから、二人はそれ以上の言葉は交わさずに、再び歩き出した。だが、ふと秋が羨ましそうに言う。

「でも、葉月はいいよ。自分の親のことがわかるんだから」
 その言葉に驚いて、葉月は数歩後ろを歩く秋を振り向いた。視線を受けて、秋は曖昧な ―― どこか困ったような笑みを返す。
「僕には両親の記憶さえないから」
 寂しそうにそう言って、秋は立ち止まったままの葉月を抜かして歩いていく。
 そういえば、葉月は思い出した。孤児院での秋に関する噂を。3歳くらいの頃に秋は突然、孤児院の理事長室に現れたという。捨て子の場合は、孤児院の前に置いていかれるか。手続きをきちんと行なって孤児院に置いていく人もいる。だが、秋は孤児院の理事長が5分ほど部屋から離れ、戻ってきた時にはソファの上で眠っていたらしい。記憶はなく、覚えているのは名前だけ。両親のことさえも思い出すことはなかった。
 そんな秋を気味悪く思う者もいれば、憐れみ、同情を寄せる者もいた。けれど、半年経つ頃には、記憶がなくても本来持っている秋特有の明るく優しい性格に魅了され、孤児院で暮らす全員が彼に好意を持つようになっていた。

 葉月は、前を歩く秋の背中を見ながら訊く。
「両親のこと、知りたいですか?」
 少し躊躇うように、秋は歩みを止める。追いついた葉月と肩を並べて歩き出して、複雑な表情を浮かべる。
「……時々、すごく知りたいと思うときはあったよ」
 幼い頃は確かにいろいろ考えた。
 どうして記憶がないのか。親は生きているのか、とか。いつか迎えに来てくれるだろうか。 ――― 本当にいろいろ考えていた。だけどそのうちに、自分が孤児院に来たのは運命だと受け入れることにした。記憶もいつか戻るはず。戻らなくても、思い出はまた新しく作っていけばいい。
 香穂に出会ったその瞬間から、全てを良い方に考えることができるようになった。だからもう、知りたいとは思わない。知ることができたらいいとは思うけれど。

 秋は葉月を見て答えた。
「でも今……。僕はとても幸せだから」
 香穂がいるし。本当の家族として接してくれる新城家のひとたちがいる。
 そう言う秋の目には優しさが溢れた光が浮かんでいた。葉月もふっと口元を緩める。
「……そうですね」
 幸せならいいのかもしれない。
 誰かを傷つけても。記憶がなくても ――― 。それでも、しっかり前を見て、生きていかなければならないから。
 精霊を扱う手前、逃げていたり。目の前の事に目を逸らすような姿を晒していたら、愛想をつかれ、精霊に嫌われてしまう。そうなったら、大切なひとを守ることができなくなる。
 強くありたい、と。
 秋と葉月は願うように自らの手の平を握り締める。

「そろそろ帰ろう。香穂と深雪ちゃんが心配するといけないからね」
 秋は優しく笑って言う。葉月も頷いて、二人は屋敷の門に向かって足を速めた。

 大切な人がいる、自分たちの居場所へ、と ―――― 。

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