第三章 詩姫の罠

三、狂曲(3)
(諦めたかな……。)
 手にした書類らしきものに目を通しながら、香穂はふと思う。あの忠告から3日が経つけれど、罠を仕掛けてくる様子も、接触してくる気配もない。このまま終わってくれればいい、と願いながらもそれが叶わないことは、香穂には十分わかっていた。砂霧が今もまだ帰ってこないことを考えると明らかで。
 ふぅ、と。ため息を零した瞬間、「紅茶でも飲むかい?」と向かい側に座っていた佳人が声をかけてきた。反射的に頷く。佳人はなぜか嬉しそうに笑って立ち上がり、台所に向かった。

「でも珍しいな。香穂が自分から、それもひとりで俺の部屋に来るなんてね」
 佳人が暮らしているこのマンションの部屋は屋敷がある場所と違って、賑やかな都市の中心部にあった。賑やかな場所、ということは人口も多く、その分溢れている負の感情を強く感じてしまい、――― そういう意味では、香穂は確かにこの場所に来るのが嫌だった。
 それを知っている佳人もまた、そんな場所で暮らしたくはなかったが、仕事の都合上で仕方がない。だから、香穂に会うには実家に戻るしかなかった。それでも秒刻みのスケジュールで忙しい佳人には実家に帰る時間もそうあるわけではない。それを思ってか、秋が時々は香穂を連れて遊びに来てくれることはあった。
 ――― けして、連れてこなかったら、女装させて公のパーティーで連れ回すなどという脅しはかけていない。

 だからこそ、ひとりでこの部屋を訪れた香穂に、驚愕のあまり暫らく玄関先で呆然と立ち尽くしてしまった。まだ信じられない。

 そんな佳人に苦笑して、香穂は訊いた。
「そんなに珍しい?」
「ああ、珍しいね。いつも秋と一緒か、秋に引きずられて来てるだろう」
 あっさりと言い切りながら、佳人は香穂専用のカップに彼女が一番好んで飲んでいる紅茶の銘柄を取り出して、その葉を入れた。
 香穂は肩を竦めて、手に持っていた紙をテーブルに積み上げられている書類の一番上に重ねる。ふと、先ほど覗いた書斎の机の上にも埋め尽くすほど書類が置かれてあったことを思い出して、更に今このテーブルの上にも3束ほどソファに座っている香穂の目の高さと同じくらいに積み上げられている書類を見る。

「……忙しそうね」
そう呟いたとき、佳人がお盆のうえに湯気のたつ紅茶を入れたカップを二組置いて、戻ってきた。
「それでも3分の2程度は片付いてるよ。半日かかってしまったけどね」
 香穂は礼を言って、渡されるカップを受け取った。
「お疲れさま」
 ひとくち飲んで唇を湿らせる。佳人はふっと優しい顔を浮かべて、「ありがとう」と自分もカップに口をつけた。

 時刻は午後7時を過ぎようとしていて、それでもまだ外はほのかに明るい。秋の傍を離れて、まだ30分足らず。瞬間移動でここまできたとはいえ、香穂にはそれだけの時間でも離れていることに不安を覚えた。だから、早速と佳人に本題を切り出した。
「時間がないから、用件だけ言うね」
 その言葉に、佳人はやっぱり、と息をついた。
 そうでもなければ来るわけがないと ―― わかってはいたけれど。だがすぐに気持ちを切り替えて、がらりと真剣な雰囲気に変わった香穂に、真面目に顔になった。
「これを預かっててほしいの」
 そう言って、香穂はひとつの細長い箱をテーブルの上に置く。佳人はそれを手に取り、香穂に断ってから蓋を開けた。
「……これは、すごいな」
 初めて目にするその美しさにため息が零れる。
 ヘッドには剣を飾ったネックレス。その剣には緻密な細工が施されてあった。鞘は純金製なのか、少し重みを感じる。何か紋章のようなものが描かれていて、中心には、深い青のサファイアがきらりと輝いていた。その周囲には小さなルビーが数個赤く煌いている。
 見惚れている佳人に、香穂は視線を剣に止めたまま言う。
「それをね、秋に渡して欲しいの」
 そう言われて、佳人は我に返る。呆れた口調と視線を香穂に向ける。
「おいおい、どうして自分で渡さないんだ?」
「……秋にとって、一番いいタイミングで渡して欲しいから」
 ふっと香穂の顔が曇る。
(その瞬間に、傍にいることができないかもしれない……。)
 それを理由としていえば、妹に甘い佳人は追及の手を緩めないだろう。これ以上の嘘はつきたくなくて、香穂は曖昧に誤魔化すことしかできなかった。

 寂しげな顔をする香穂に、息をついて、佳人は手の中にある箱の中身と香穂を交互に見比べる。こういうときの香穂が頑固だということは十分わかっている。そうして、秋に関するものを自分に託してくるということで、香穂がどれほど信頼してくれているかがわかって、それを裏切ることはもちろん、佳人にはできない。

「わかった。可愛い妹の頼みだ。約束するよ、ちゃんと秋に渡す」
 優しく笑って言う。佳人はその蓋をパタン、と閉めた。
 ほっと胸を撫で下ろして、香穂はようやく笑顔を見せる。
「ありがとう」
 その笑顔に思わず、佳人は見惚れてしまった。

 香穂は空のカップを皿受けに戻して、ソファから立ち上がる。
「じゃあ、そろそろ帰るね。長居ができなくてごめんなさい」
 また今度来るね、と引き止めようとした佳人は先手を取って言われて、仕方ないと苦笑を浮かべる。香穂は踵を返して玄関に向かい、靴を履くとそのまま一気に瞬間移動で屋敷へと戻った。

 ひとり残された佳人は、書斎に向かうと手に持っていた箱を自分の机の引き出しに入れる。窓に目を向ければ、眼下には忙しく動く人々の行き交う様子が見えて、佳人は黒い瞳を細めた。
(……何かが始まろうとしているのか。)
 佳人の胸の中に重いの不安が過ぎった。


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