秋は縁側から庭を眺めて、ため息をつく。
(……どこに行ったのかな。)
屋敷から香穂の気配が消えて、30分が経とうとしていた。
学校から帰宅し、部屋で着替えているときに「すぐに帰ってくるから」と、風の精霊を通して伝言があり、同時に香穂の気配は消えた。せめて行き先くらい、と秋はまたひとつため息を零す。
「……あの、秋さま」
ふと遠慮がちな声をかけられて、我に返る。振り向くと、歳若い侍女の一人が所在無さげに立っていた。
「どうかしたんですか?」
秋は優しい口調で問いかける。それに促されるように、侍女は困惑した顔つきで口を開いた。
「お電話をお受けしたのですが、名前をおっしゃらなくて……」
その言葉に秋は眉を顰めた。
本来なら名前を名乗らないような怪しい電話などを取り次ぐことは論外だ。ましてそんな電話があったことさえも秋の耳に入れてはいけない。「新城家」の決まりに書いてあり、侍女ならば十分に教えられているはずである。
無言の秋に慌てて、侍女は取り繕う。
「きっ、切ろうとしたのですが、香穂さまのことで大切なお話しがあるからどうしても、と……」
侍女が最後まで言わないうちに、香穂という名前に反応して秋は電話のある場所に急いだ。保留音になっている受話器を取り、外線を押す。プツ、と小さく音が鳴った。
「お待たせしました。……はい、秋は僕ですけど。あなたは?」
『香……穂さまのことで大切なお話しがあります。すぐに屋敷近くにある公園までいらしてください』
秋の言葉には返事をせず、電話の相手は一方的にそう告げた。すぐにツゥツゥと切れる。秋は受話器を持ったまま暫らく呆然としていたが、すぐに受話器を戻すと玄関に向かった。
屋敷から一番近い公園までは歩いて10分も掛からない場所にある。
秋は公園の外から様子を伺う。もう時間的に遅いせいか、公園の中には人気を感じなかった。訝りながら公園の中に一歩足を踏み入れて、ハッと息を呑む。
( ――― 精霊を感じないっ?!)
いつも周囲にいるはずの精霊の気配をまったくつかめなかった。慌てて探る。だが、風は勿論、火も土も水も。全ての精霊たちを感じることができなかった。
初めての感覚に不安を覚えて、秋は戻ろう、と踵を返しかける。その瞬間、声をかけられた。
「……神風秋(かみかぜ しゅう)さんですね?」
声が聞こえてきた場所に目を向ける。公園の中央にひとりの女性が立っていた。
―――― ‘魔’だ。
ぞくり、と秋の背中を冷たいものが流れる。
「力」のこもる美しい響きを奏でる声。人にはあり得ない美を誇る姿。すぐに高魔であると確信を持った。
「その通りです。私は高魔ですよ。‘詩姫’と呼ばれております」
思考を読んだかのようにそう女性が口を開く。ツッと赤い唇をもちあげ、艶やかな笑顔を浮かべる。
秋は眉を顰めた。そこに、敵意を感じることができなかった。だが高魔が相手。油断はできない、と秋は細心の注意を払う。まっすぐ見つめて、問いかけた。
「どういうつもりですか?」
「どういうつもり、とは?」
単刀直入な言葉に、‘詩姫’は同じように返す。だが、急にその瞳に剣呑な光が宿った。不機嫌な色を見せた高魔を包む空気が急にひんやりと冷たく変わる。一気に秋の緊張も高まる。相対する高魔に気を取られて、秋はすでに公園の敷地に足を踏み入れていることに気がつかなかった。
「香穂のことで話しがあると言って、僕を呼び出したのはあなたですよ」
公園の中が冷たい闇に支配されていく中、それでも秋の周囲だけは正常な空気を保っていた。
「そう。そうでしたね。香穂……香穂?……ああ、思い出しました。でも違うんです」
詩姫’は意味の続かない言葉を口にする。どこかその姿に違和感を覚えた。目の焦点があっていない。フッ、と‘詩姫’は不敵な笑みを浮かべる。まるでやっと言いたかった言葉を見つけた子どものように。嬉しそうに。
「あなたが、「香穂」と呼ぶその方には本当の名前があるんです。教えて差し上げましょうか?」
一瞬、秋は何を言われたのかわからなかった。
(……香穂の本当の名前?!)
驚きに息を呑む秋を見て、くすりと‘詩姫’は哂う。答えを待つ気はなかった。
「彼女の本当の名前は ――― っ?!」
名前を口にしようとした瞬間、急に公園の中に突風が吹き荒れる。
引っ掛かった、と歓喜に震えて、‘詩姫’は表情を歪めた。
「うわぁぁぁ ――― っ!!!!!」
突風が現れると同時に、暗闇が秋を一気に飲み込んだ。まるで暗闇が獣になって、素早い動きで獲物を捕らえるかのように。
「秋ッ!!!!」
暗闇が秋を完全にその身に取り込もうとした瞬間、香穂が姿を見せた。珍しく切羽詰った様子の香穂の姿を見たとき、秋は暗闇の中に取り込まれる。
香穂は微かに、名前を呼ぶ秋の声を聞いたような気がした。秋を取り込んだ暗闇も消え、突風も収まって公園の中はなにもなかったように静まり返った。
「……油断していたみたいね」
口調は穏やかだったが、肌を突き刺す冷たい空気が香穂の怒りを表していた。‘詩姫’は、とつぜん姿を見せた香穂に驚く様子もなく、ただ嬉しそうに哂う。
「まさか貴女の口から油断、などという言葉が出るとは……」
――― 昔なら考えもつかない言葉でしょうね。
後に続く言葉を‘詩姫’は香穂の頭の中に直接、送り込んだ。
香穂は‘詩姫’の言葉を無視して、公園の中を見回した。精霊の気配がない異様な空間。
「魔光(まこう)の結界……」
‘魔’にしか見ることができない結界。対精霊使い用に作り出されたもの。この結界の中では一切精霊を使えない。だがこれを作れるのは限定されているはずだ。面白半分でこの結界を作り上げた創始者と、その作り方を唯一教わった弟のみに。だから勿論、壊すことができる者も限られる。最も、壊すことには興味がなかったのか、その弟は作ることはできても、壊すことはできない。唯一壊すことができるのは ――― 。
「ああ、言っておきますが、壊さないで下さいね」
動こうとした香穂の先手を取って、‘詩姫’は釘を刺す。
「壊されでもしたら、私はショックのあまりに貴女の大切なものを殺してしまうかもしれません」
ぴたりと、香穂の動きが止まった。‘詩姫’を睨みつける。
「……秋はどこ?」
「答えると思いますか?」
苛立ちを押さえるように問いかける香穂の鋭い視線を受け流して、‘詩姫’はただ愉しそうに微笑む。
精霊さえ動かせることができれば簡単に秋の居場所をつかめるのに。公園を支配する魔光の結界の存在が邪魔だった。このまま戦うと、気づかれるかもしれない。精霊を使うことで隠していたことが露になることを恐れ、香穂は態度にこそ出さないものの、これ以上ないほどに焦っていた。
「自業自得とはこのようなことを言うのでしょうか。この結界を作ったのは貴女ですからね」
主導権を取ったことに、‘詩姫’はうっとりと酔いしれていた。
確かにこの結界を面白半分に作り上げたとき、あいつに教えたのは失敗だった、と香穂はため息をつく。
「彼のもとに行きたいのなら、私を倒してからにして下さい」
「……本気で言ってるの?」
香穂は驚き目を瞠る。
いくら精霊を使うことができないとはいえ、もともとの力にも差がありすぎる。それを忘れているはずがないのに。
‘詩姫’の思惑を読み取ろうと香穂はスッと目を細める。
『彼女本来の力は落ちているよ。あの付き人の記憶を操作して遊ぼうと入り込んだんだけどできなかった。彼女の力を感じたんだ。あそこまで完璧な封印だと媒介にかなりの力が必要となる。半分はいるだろうね。だから、精霊を使わせずに君が全力でぶつかれば、彼女に勝てるよ。僕も協力する。彼女に勝てれば、きっと目も覚ましてくれるさ。そうして君に感謝するだろう』
若君の言葉が、‘詩姫’の脳裏には刻まれていた。
半分しかないとはいえ、高魔でも上位に位置する力の持ち主である自分が全力でぶつからなければ勝てない、とその力に畏怖を覚えるものの、勝てる見込みがあるのなら。
――― 彼女の目を覚ますことができるなら。そうすることで‘特別’となるために。
「当たり前ですよっ!」
全ての力を持って、‘詩姫’は攻撃を開始した。