秋の声が聞こえた気がして、香穂は顔を上げた。優しくて、ぬくもりに満ちた声。
( ――― 秋。)
とても懐かしい気がする。
まだそんなに長い時間を離れたわけじゃないはずなのに。ふと思い出す声が。脳裏に浮かぶ笑顔が、切なくて胸が痛む。秋と離れて改めて気づかされた。
こんなにも、秋に捕らわれていたんだということに ――― 。秋を愛していたということに ――― 。会えないことが苦痛になるほどに、愛していたと。
困った、と思いながら今ではもう苦笑するしかない。その想いから逃げることなど論外で。
――― 失うわけにはいかない。失いたくない。
そう強く思いながら、香穂はふと邪流が止まっていることに気づいた。
「……目が覚めましたか?」
声をかけられて、視線を向ける。ぼんやりとした視界の中に影を捉えて、数回瞬きを繰り返す。ようやく視線が定まると、表情のない顔で見つめてくる影葉の姿があった。
「自由にしてくれる気になったってわけ?」
あり得ないとはわかっていたが、皮肉まじりに問いかける。
昔から執着してくるあの弟が、これだけで簡単に解放してくれるわけがない。機会さえあれば、自分の城に閉じ込めておきたいとさえ考えている傍迷惑な思考の持ち主なのだから。それでもまだ、何も興味がなかった昔ならともかく。今そんなことになるなんて、冗談じゃない。冗談ではないけれど ――― 力を失った状態のままでは、秋のもとに帰ることはできない。
影葉は皮肉さえ受け流して、感情のない声で言う。
「若君が貴女と食事をしたいと……」
スッと、手を伸ばし、香穂の手首を戒めている枷をはずす。
ぐらり……っ。支えを失い、倒れようとする香穂の身体を軽々と抱き上げる。
(食事 ―――― ?)
思いもしなかった言葉に、訝るような視線を影葉に向けた。
――― 欲望に通じるものではなく、ただ食事をしたいなんておかしい。
逃げ道を塞いで、嫌がることをムリヤリするのが好きな典型的な「魔」の性格を持つあの弟が、それだけなんてあり得ない。だが、それは続く影葉の言葉で納得した。
「統貴さまも、統妃さまもお見えになっています」
一瞬、何を言われたのか理解できなかった。理解してすぐに、ずんと気持ちが重くなる。
「……最悪。呼んだのは摩耶?」
眉を顰めて嫌そうに訊くと、当たり前とばかりに影葉は冷笑を浮かべて頷いた。それだけで、この先に起こることがわかる気がする。
(やれやれ……。)
この機会を逃すはずないという摩耶の意思に、何を考えているのかが容易に想像ついて、逃れられない影葉の腕の中で、香穂は深くため息をつく。
香穂のその姿を見ていた影葉は、ほんの一瞬、何か言いたそうな顔を見せる。だがすぐに、香穂と目が合うと、ふいっと視線を外して扉に足を向けた。