第四章 魔の誘惑

二、悪路(2)
 ―――― 元気そうだな。
 その男は顔を合わせるなり、微かな笑みを浮かべて言った。

 香穂は視線をテーブルの上に並べられている皿に盛り付けられている食事に向けながら、肩を竦める。
「それほどでもないですよ」
 人間の世界でいえば、父という存在である男は、面白そうに口の端を歪めた。
 ぎゅっ、と握り締めている手の平は汗ばんでいる。だが、香穂は平然とした顔を装ったまま、用意されている椅子に座った。
「本当に、統貴一族が揃うのは久しぶりですわね。嬉しいですわ」
 男の隣に座っている美しい容姿を宿した女性が、ふっと微笑んだ。
「香羅さまも。摩耶も、大きくなって。元気そうですし」
 子どもの成長になど一欠けらの興味もない女性の言葉に、香穂は心が冷めていくのを感じた。

 統貴の跡継ぎに決まってから、母の役割があるはずのこの女性 ―― 統妃は、一度として香穂を呼び捨てることはなかった。そう、一度として。
 そう思ったとき、不意に香穂は思い出してしまった。「香穂」と、時には厳しく。――― でも、優しく。何かを返されることなど期待すらせず、ただ愛情を注いでくれた、新城家の母親の存在を。

「今日お呼びしたのは ――― 」
 香穂は摩耶の声に意識を向けようとして、ふと漂ってきた臭いに息を詰めた。
(息苦しい……。)
 動揺を浮かべるわけにはいかず、それでも目の前の料理に吐き気を覚える。どう見ても、人間の肉の欠片。脳みそや心臓。或いは ―― 。そのものの骨が浮かんだスープ。
 「魔」にとっては好物ともいえるものだ。だが、それを口にしたことがない香穂にとって、見ていることさえも苦痛だった。

「……なの、香羅さま?」
 急に話を振られて、香穂は意識を統妃に向けた。
「人間の味方をなさっているというお話しは、本当なの?」
 冗談だと確信しているうえでの統妃の問いかけは、戯言を聞いたとでもいうような軽い口調だった。
 香穂 ―― 「魔」である、それも統貴の跡継ぎである香羅がそんな馬鹿げたことをするはずがない、と強く思い込んでいる。香穂にとってその思い込みは、この地獄から抜け出すには利用しやすいものだった。
 たっぷりと余裕を持った口調で言う。
 「そんなことを信じてどうするんです。摩耶は少し勘違いをしただけです」
 極上の微笑みを浮かべて。
 途端、統妃の頬が赤く染まる。慌てるように摩耶は反論の声をあげようとしていたが、その隙を与えずに続けた。
 「私が何も語らずに遊んでいたことが気に食わなかっただけ。摩耶は嫉妬深いから。統妃さまもいちいち子どもの我侭を聞いていては身が持ちませんよ」
 まるでそれこそが真実であるかのように、すらすらと言葉を紡ぐ。

 「だが、子どもの我侭を聞くことも親の義務とは思うがね」
 そう口を挟んできたのは、料理を美味しそうに食べていた統貴だった。

 一瞬、香穂の心に怒りがわきあがる。
(親の義務……そんなもの、持ち合わせてなどいないくせに)
 『人間には関わるな』、それを主義とする統貴は子どもとさえ関わらず、逆に子どもさえ玩具としてしか扱おうとしなかった。それでも全ての「魔」の畏怖と敬愛を受けている。
 そういえば ―― 。
 まだ香穂が秋と出会うずっと前に、砂霧に言われたことがあった。
 同じように ―― 或いはそれ以上に。やはり香羅さまも全ての「魔」から畏怖と敬愛を受けている、と。あの時は何の感情も受けず、そんなもの無意味なことでしかないと思っていたが、今思うと、それがどれだけ、寂しいことであるかわかったような気がする。
 全ての「魔」から畏怖や敬愛を受けたところで、本当に欲しい人から愛情を貰えなければ、ただ寂しいだけ。
 香穂は怒りを押さえつけ、ただ冷たく突き放すように言った。
「我侭だと仰るなら、放ってくだされば良いでしょう」
 突き放されることには慣れている、と言外に含める。
 或いはそれが幸せだったのかもしれない。下手に興味をもたれてしまうよりは。苦い過去を思い出そうとして、香穂は無理矢理それを押し込める。

「勿論、子どもの愉しみを奪おうとは思わない。だがね、摩耶ほどではないが、我々も大事な跡継ぎになにかあっては心配になるだろう?」
 あらかじめ、摩耶と話をつけていたのか。統貴の金色の目が嘲笑するかのように煌く。それを隠すように、美しい顔には心配するような表情を浮かべて眉を顰めた。
「そこで、私たちを安心させてもらうために、香羅には二つの条件を飲んでもらうが、構わないだろうね」
「私が得られるものは何ですか?」
 一方的に押し付けられる気はなかった。ふっと、統貴の美貌に冷たい影がよぎる。「我々の信用と、君が望む自由だよ」
 統貴の言葉に香穂は無意識に手の平を握り締めていた。
(信用はどうでもいいけど……。自由は欲しい……!)
 秋の傍に戻れるのなら、躊躇することもない。それが、香穂にとって全てだ。

「いいでしょう。それで、条件というのは?」
 頷いて訊くと、待ち構えていたかのように、摩耶が応えた。
「まずは今夜の料理は全て食べること」
 もうひとつは、と。続けたのは、嬉しそうに笑顔を浮かべる統妃だった。クスリ、と笑い声が零れる。
「香羅さまと摩耶の婚儀を早めることですわ」
 香穂の顔からスッと表情が消える。婚儀のことは予測できていた。もともと、香穂が統貴になるときには能力において、最も近い位置にいる摩耶が伴侶として選ばれていた。「魔」にとって血は関係ない。力が全てだ。統貴となる香穂の能力を高めて、「魔」の力をより強めるために。
 ここで婚儀を早めると言っても、香穂は後で言い包めるか、適当に逃げる自信はあった。けれど、料理のことは予想外で ――― 。

<一度切り捨てて、でもまた目覚めてしまったら……その反動は大きいわよ。もしかしたら……貴女は自我を失うかもしれない>
 一瞬、記憶の底に眠らせたはずの声が蘇る。

 今ここで拒否してしまったら、ここにいる全員を敵に回してしまう。それは構わなくても、恐らく外界へは出してもらえなくなる。

 二度と ―― 秋の傍にいけなくなってしまう。二度と、会えない。考えるだけで、胸が張り裂けそうになった。それなら、……答えは決まってる。

「わかりました。簡単ですよ」
 何でもないことのように、笑顔を貼り付ける。
 手始めに、赤黒いワインに似たそれに口をつけた。


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