第四章 魔の誘惑

二、悪路(3)
 『出会ってしまったんだもの。仕方ないじゃない ――― 』

 苦笑を浮かべながら、その目には見たこともないほど優しく、愛しげな光を宿して、いつだったか、敬愛する主が言っていた。
「殺してしまったほうがラクではありませんか?」
 人間を殺すことなど、簡単なことだ。
 わざわざ苦労することがわかっているようなことに、深入りする必要などない。酔狂としてならともかく、今の主が抱く想いが真剣なものだということは気づいていた。だからこそ、危惧する。それは下手をすれば主を破滅に向かわせてしまう。だが、そんな想いとは裏腹に、主である彼女は、ふっと謎めいた笑みを浮かべた。
「馬鹿ね。言ってしまえば、殺さないでいるほうがラクなのよ」
 率直に言えば、はっきり言って、わからない。
 当然だ。真剣な想いなど抱いたこともないのだから。ただあるのは、彼女に仕えるという使命感だけだ。
(そんなものなのだろうか ――― 。)
 彼女が心を決めた、あの時にはわからなかった。
 誰かを深く愛する、という気持ち。
 だが、彼女と彼女の愛する彼との姿を見るうちに、少しづつわかっていくような気がした。配下として、ただ命令に従うのではなく、お互いを思いやり、彼女のために働く、と些細なことだが、何かが確かに変わっていくのを感じていた。

 ――――― ふぅ。
 重いため息が、砂霧の唇から零れ落ちる。この結界に捕らわれてから、どれだけの時間が過ぎたのか。香穂さまのために……。秋さまのために、動くことができない自分に苛立ちが募っていく。何もできないことがもどかしい。
 何度目になるかわからないため息が落ちたとき、背後から見透かすような声をかけられた。

「……姉上。何を苛立っておられるのです?」
 いつの間にか部屋の中に入ってきていた影葉の存在に我に返って、振り向いた。自分とまったく同じ顔を睨みつける。違いがあるとすれば、髪が長いか否かだけ。容姿だけを見れば、まるで鏡を見ているかのように同じものだった。

「いい加減にこの結界を解きなさいっ!」
「お断りします。私に命令ができるのは、若君だけですよ」
 影葉はふっと微笑んできっぱりと言い切った。ですが、と。顎に手をかけて考え込むように続ける。
「もうすぐ、許可が下りると思いますよ」

 許可が、下りる。
 その言葉に砂霧は嫌な予感を覚えた。不安が砂霧の心の中に湧き上がる。
「なぜ……っ?!」
 思うより先に、問いかける言葉がでていた。
「今、統貴一族の皆様方による晩餐会が行われています。その意味は、言わなくともおわかりになるでしょう?」
 動揺する砂霧とは対照的に、冷静で冷たい韻を含む影葉の声が応えた。
 晩餐会 ―― それが言葉通りの意味でないことはすぐに理解できる。
(やはり若君は気づいて…………。)
 だが、その先を動揺のままに思うことは許されなかった。
 目の前には自分と繋がりをもつ者がいるのだ。思った瞬間に、それは彼へと伝わるだろう。たとえそうであっても、確信を与えるような危険な行為は避けるべき。そう思い直して、砂霧はすぐに動揺を押し隠した。

「……これ以上、あの方に手を出したら、私も黙ってはいませんよ」
「それは私の主人に言ってください。私はただ……敬愛すべき方のために従っているだけですからね」
 冷ややかな視線を砂霧に向けて、影葉は踵を返す。
 部屋の扉を開けて出て行こうとした瞬間、影葉は足を止めた。
「姉上も……。変わられましたね」
 一言だけそう告げて、影葉は動いた。

 扉が閉まり、部屋の中は静けさを取り戻す。その中で不意に現れた影葉の姿に、砂霧はふと思った。
(……恨んでいるのかもしれない。)
 結果的に彼を捨てた ―― それは誤解でしかないのだが ―― 香穂さまを。誤解でありながら、傍に仕える者として選ばれなかったこともまた事実だ。
 ―――― いや、今は香穂さまのことが最優先だわ。
 影葉の気配が遠ざかり、消えたことを機に、考えに集中する。
(若君はきっと……気づいてしまったはず)
 香穂さまが「魔」の意識を捨てたことに。だからこそ、晩餐会を開いたのだ。きっとそこに並べられている料理は本来、「魔」が好むべきものばかりだろう。だが彼女にとってそれは ――― 。
 ハッと、砂霧は意識を戻す。名前を呼ばれたような気がした。
(あの声は……。)
 間違えるはずがない。微かだったが、確かに聞こえた。
 たった一人と決めた少女の声が ――― 。

 砂霧 ――― 。

 確かに、そう聞こえた。


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