……精霊が騒いでいる。
なぜ、とは思ったが、心のどこかはそれを理解していた。
それでも帰りたかった。あの、優しい腕の中に ――― 。そこだけが帰れる場所だと。だけど、もう……。
「こんな所にいたんだ……」
安堵したような声をかけられて振り向くと、いつもと変わらない優しい微笑を浮かべた秋が立っていた。
「心配したんだよ。ちょっと目を離した隙にいなくなるんだからさ」
そう言って、秋は隣に並ぶ。
視線を花が開き始めたばかりの桜に戻した。一輪の淡い桃色の花びらが、風に揺らめく。
「まだ熱が下がってないんだから、無理しちゃだめだよ。戻ろう?」
これは……夢。だから一緒に戻りたい ――― 、けれど。
「……も…………ない……」
想いとは反対の言葉を紡ぎ、意識を失う。
「香穂っ?!」
気を失った香穂を抱えて、秋はまた部屋へと駆け込んだ。
それを見送る桜の木では、風の勢いに負けたのか、花びらが舞うようにして地面に降りてしまっていた。
もう、駄目かもしれない ―― 。
秋は自分の部屋でベットに横になり、香穂が言った言葉を思い出していた。
(なぜ、……なぜそんなことを? どうして ――― ?)
これからなのに。香穂が全てを話してくれて ――― それからが始まりになる。
だって、気持ちは変わらないから。香穂を愛しているという想いは、減るどころか ―― 増すばかりだ。
――― 愛してる。だから、受け入れる心の準備はできている。
(そうだ。香穂が言いにくいのなら、まずは伝えよう。変わらずに、愛していると。)
たとえ香穂が「魔」だったとしても、この想いに嘘はつけない。心をこめて、そう伝えればいい。話はそれからだ。
だが、その決意が香穂に届くことはなかった。
次の日の朝、香穂の部屋を訪れた秋は愕然とした。
綺麗に整えられた部屋の主人の姿はどこにもなかった。そう、どこにも ―――
。
誰かが暗闇の中に立っていた。
だれ ――― ?
『……君が。君が……』
聞き覚えのある声だった。だけど、どこか違う。
いつもは思いやりに満ち溢れた想いがこめられていた声音だったが、今は怯えと憎しみがこめられている。ぼんやりと見えるその人は、両足と片腕がなかった。赤く、血に染まっている。
『秋っ!!』
駆け寄りたかった。だが、足が動かなかった。
(どうして……、どうして動かないのっ?! 秋の傍に行きたいのにっ!)
動かない足の代わりに、秋が這うようにして近づいてきた。
『君が……。「魔」の…君が、僕の身体を……っ!』
え、と香穂が小さく息を呑む。血の気が引いていく。
残っている秋の右手に精霊の力が宿っていくのがわかった。
『僕の身体を食べたんだっ!』
言葉と共に精霊の力が放たれる。
いやぁぁ ―――――― っ!!!!!!
がばっ、と反射的に香穂は身体を起こした。
チッ、チッ……。時計の刻む音だけが、耳に入り込んでくる。汗ばんだパジャマの感触に我に返った。
「……夢?」
呟いて、そうだと確信してからため息をつく。
「砂霧、いるんでしょう? 出てきて……」
「どうかなさいましたか?」
泣き声にも近い口調で呼ばれて。砂霧は心配そうな表情を浮かべたまま、空間から姿を現した。
香穂の頬にそっと手をあてて、触れる。ひんやりとした手の平の感触が心地よく、同時に伝わってくる砂霧の気遣うような優しい想いにぬくもりを感じて、香穂はほっと息をついた。
「…………勝てるかな?」
不安が入り混じった声で、香穂はそう零した。
「もちろんです」
揺れる香穂の口調とは対照的に、砂霧は確信をもった強い口調で言って頷く。香穂の中にある不安を消し去りたかった。
「秋が傍にいないのに……?」
「それでも、失うわけにはいかないのでしょう?」
それならば、選べる答えは1つだけ。
今にも消えてしまいそうな儚い微笑を浮かべて、香穂は頷いた。そうだね、と。不安が完全に消えたわけじゃない。だが、弱気のままでもいられない。そう、砂霧の言う通りだ。
失わないために ―――― 。
「眠りにつくまでお傍にいます」
砂霧は優しい声でそう言って、安心させるように香穂の手を握った。有難う、と小さく頷いて、香穂は布団の中に戻った。消耗している身体は、すぐに睡眠へと香穂を誘う。微かな寝息はすぐに聞こえてきた。
香穂さまは戦っている ――― 。
砂霧にはそれがよくわかっていた。
今、この眠りは休養を与えるものではない。恐らく、「意識」と「意識」がぶつかり合って、戦っているはず。「魔」としての香羅である意識と。「人間」としての香穂である意識と ―――。
さっきの目覚めは、香穂にかけられていた保険。だから次に目覚めたときには、勝負はついている。
それを思って、砂霧は深く息をついた。
(香穂さまの恋が遊びならこんなにも苦しむことはなかったのに……。)
香穂が想い苦しむとき、ふとそんな考えがよぎる。
それでも、真剣に秋への想いを悩むその姿に「魔」であった頃より、好意を持ったことも確かだった。配下でしかなかった自分が、対等に話せるようになった。母のように、姉のように。そして、 ――― 親友のように。それが思い違いだったとしても、そんな風に思えること自体が嬉しかった。
だが、もしも ――― 。
(香穂さまが「魔」に戻ってしまったら……。)
改めて、主人として仕えることができるだろうか。
たった一人と決めた少女。――― だが。
眠りの中で戦う香穂の隣で、砂霧もまた強い葛藤に苛まれていた。でも、今は。今は香穂を守らなければならない。ここにはそれができるのは砂霧しかいないのだから ――― 。
勝手だって思わない?
目の前に対峙する少女はそう言って、肩を竦めた。
闇の中に煌く、長い金の髪 ――― 。そして、愉しそうな光を宿す同色の瞳。色こそは違うものの、顔の造作はまったく同じものだった。
「誰がよ?」
同じ響きを持つ声で、香穂は問いかける。
「砂霧よ。私に作られたわりには、あなたに肩入れしているんだもの。ヒドイったらないじゃない」
拗ねるように、だがくすくすと笑いながら香穂のもう1つの意識 ―― 香羅が言う。
「本当にそう思ってるの?」
香穂は笑みを広げる。
言外に余裕さえ感じて、香羅は不愉快そうに眉を顰めた。どちらが強いかなんてわかりきっているのに。目の前にいるもう1つの人間としての意識をもつ香穂の存在など、屑にも等しい。一度逃げ出したのだ。香羅が作り出した秋の幻に恐怖を覚えて ――― 。
だけど、この余裕は何だというのだろう。
ただ一言だけ、砂霧と言葉を交わしただけで、こんなにも早く立ち直れるものなのだろうか。香羅は引っ掛かりを覚えながら、訝る視線を香穂に向けた。
「今更、あなたに出てこられても困る。一度は負けたんだから、おとなしく消えてほしいわね」
「一度は負けた……ね。確かにそれは認めざる得ないけれど、だからといって今回も負けるとは限らないでしょ。せっかく摩耶が機会をくれたんだもの。見逃せないわっ!」
強い眼差しを帯びた目で、香羅は言う。
自分にそっくりなその強さを見て、わきあがる敵意とは裏腹に、香穂は心の底に好意が残ることに気づいていた。
――― 当然だ。もとは一緒だったものなのだから。
彼女が自分であり、自分が彼女だった。
切り離したのは、人間を食べるという行為をなんとも思わない、それ故にどこまでも残酷になれるその性格ゆえ。きっとそれは、秋が最も嫌悪するもので。嫌われてしまうことがわかったから。だから、切り離した。他にも、いくつか理由はあったが。
「あなたが秋を殺そうとするからよ」
秋と出会ったとき、香羅は彼に惹かれながらも、人間に好意を抱くことに嫌悪を感じて、それぐらいなら、と。秋を殺そうとした。だが、すでに遅かった。
秋を愛してしまった心が、彼を殺すことを許さずに、想いとなって ――― 。形となって、「香穂」となって、想いのままに生きることを望み、残酷な「香羅」という性格を封印した。
「魔」としての力の半分以上を失ってしまうことになったが、それでも秋を失うことに比べたら ―― 。
香穂の想いを嗤うように、香羅は肩を竦める。
「当然じゃない。いくら愛してしまったとはいえ、たかが人間よ。将来を考えたとしても、摩耶と結婚するべきだったのよ」
確立する統貴としての地位。わざわざ苦労する道を選ぶなんて、そんな愚かなことをするのは「魔」として耐えられないものだった。
「だからあなたは負けるのよ」
将来 ―― ? そんなことわかるわけがない。今でさえ上手に進めていないというのに。だから、自分で作っていくしかない。望む未来を、――― 秋が傍にいる未来を掴むために。ラクだとか、苦労とか口にする者が、その全てを受け入れている自分に勝てるはずがない。
「言ってくれるじゃない。でも私ももう二度と、あんな無様な真似は見せないっ!」
「結局……あなたは逃げているだけなのよっ!」
同じ顔をした二人の少女は、自分の持つ全ての力をぶつけ合う。
「魔」としての誇りを守るため ――― 。
誇りよりも何よりも、誰かを。秋を愛するという心を守るため。
相容れることができない二人は、戦うしかなかった。