第四章 魔の誘惑

三、失踪(3)
 香穂が姿を消してから、数週間が経とうとしていた。
 縁側に座りどこか遠くを見つめて、ぼうっとしている秋の隣に佳人はそっと座る。
「……あらゆる手を使ってみたが、どこにも見つからなかったよ」
 残念そうに首を振る佳人はフッと、疲れたように息を吐き出した。秋は落胆する気配も見せず、何の感情もない口調で呟く。
「そうですか……」
 見つかることに期待はしていなかった。
 自ら望んで消えた香穂が、そんなに簡単に見つかるはずがない。精霊の力を使うにしても。 ――― 或いは本来の、「魔」の力を使うにしても。悟られることがないように、細心の注意を払うだろう。
「まぁ、元気を出せ。きっと帰ってくるさ」
「そうですね……」

 香穂がいなくなったことに落ち込んでいるわけではなかった。姿を消してしまったことは、きっと理由がある。そう思えば、落ち込む必要はなかった。
(ただ……、どうして何も言わずに?)
 せめて一言。
 話すのが嫌だったというなら、書き置きくらいしていってくれても良かったんだ。
(無茶苦茶だよ ―― ……っ!)
 大事なことは黙ってて、とつぜん戻ってきたと思ったら、またすぐ黙ってどこかに消えてしまうなんて。
 香穂は一体、僕のことを何だと思ってるんだろう。彼女が「魔」だとするなら、僕は玩具でしかないのか。
 ふつふつとした怒りが秋を支配していく中で、佳人に名前を呼ばれた。

「……っ、おい、秋っ!」
「え……、あ、はい。なんですか?」
 我に返って隣に座る佳人を見ると、少し怒ったような、呆れたような顔をしていた。
「なんですかじゃないだろう。何度も呼んでるって言うのに……。ほら、葉月くんから電話だ」
 そう言って、受話器を秋に向かって放り投げる。佳人は気を利かせて立ち上がると、部屋の中に歩いて行ってしまった。

 すみません、その背中にぺこりと頭を下げて、受話器を耳に当てる。
「もしもし、 ――― 」
 葉月、と続けようとした言葉は、相手の慌てた声に遮られてしまった。
『秋ですか? 急いで学校に来てくださいっ!』
 珍しい葉月の慌てた様子に訝りながら、秋はため息混じりに言う。
「そんな気分じゃないよ……」
 いいから、早くっ、と。受話器を通して、葉月の慌てた声は続く。
 違和感を覚えて、「どうしたの?」と問いかけそうになった言葉は、葉月の苛立ちを含んだ声とその理由にまた遮られる。
『香穂さまが来てるんですよっ! とにかく早くっ!』
「香穂が ――― っ?!」
 その名前に、秋は受話器を捨てて、急いで屋敷を飛び出した。


 校舎の屋上には湿った風が流れていた。
(……降りそうだな)
 屋上の出入り口である扉に寄りかかって、葉月はどんよりと重い灰色の雲で覆われた空を見上げた。

「それで?」
 凛と澄んだ声がその空気を裂くように、響く。
 葉月とは少し離れた屋上の端で、香穂と深雪は向かい合っていた。

「それでって……。だからっ、どういうことなのって聞いてるの?!」
 言葉だけが滑って、うまくかみ合わない。
 深雪は目の前にいる香穂の姿をしたこの少女が、いつもの彼女のようには思えなかった。それなら ――― 。
(この少女は誰なんだろう……?)
 深雪は苛立たしさと悔しさを抱えながら、そう思った。
 香穂と同じ顔はしているが、性格が違う。優しさが消え、突き刺すような冷たさだけが見える。確かにあった香穂の、一瞬で雰囲気を変えることができるあの優しさがどこにも見えない。それを表すように、香穂は無表情のまま言う。
「あなたに説明しなくちゃならない義務でもあるの?」
「友達でしょっ、理由があるなら話してって……」
 深雪の言葉は、フッと嘲笑を浮かべる香穂の表情に続けることができなくなった。
―――― 泣きたくなる。
 香穂を包む今まで見たことがないほどの、冷たい空気と。突き放すような華やかな微笑。溢れてくる悲しみを深雪はぐっと、堪える。

「……友達、ね。冗談にもならないわ。私は「魔」を治めるもの。あなた達はそれを狩るもの。どこにそんな馴れ馴れしい言葉が入ってくるのかわからないわ」
 その言葉たちはまっすぐ深雪の心を傷つけていく。まるでそれが狙いであるかのように。言葉を失って黙り込んだ深雪の姿に笑みを浮かべて、香穂は用は済んだとばかりに踵を返す。
「これは宣戦布告。次に会うときがあれば、私たちは敵よ」
 背中越しにそう告げて、香穂は扉に向かって歩き出す。
 ふと、立ち塞がるように扉に寄りかかっている葉月に気づいた。葉月はすぐに扉から体を起こして、香穂を通す。横をすれ違うその一瞬。

「あとは……よろしくね」
 呟きのような小さな声が葉月の耳に届いた。

 その言葉を受け止めて、とりあえず葉月は呆然と立ち尽くしている深雪の傍に行く。嗚咽の入り混じった声が聞こえた。
「……友達だって…………親友だ……って、思ってた……の、に……」
 涙を流して、苦しげに言う深雪をそっと抱きしめる。
「……思っていればいいじゃないですか」
 友達だと。親友だと。 ――― 深雪がそう思うのなら。なにも、改めて否定する必要なんてない。
 葉月は優しく深雪の耳元でそう告げた。

 ぽつぽつ、と雨が降り始めた。
(やっぱり、砂霧の言う通りに傘を持って出ればよかった……。)
 見上げて、顔を濡らしていく雨粒を受けながら、香穂はそう思った。空間を裂いて転移すればすむことだが、まだ用事は終わっていない。今はもう、懐かしさを覚えて。触れただけで泣きそうになるその気配に近づいてることを感じながら、香穂は汗ばむ手の平をぎゅっと握り締めた。
 走り出しそうになる気持ちを押さえつけるように ――― 。

「香穂……」
 校門の傍で、足を止めてまっすぐ見つめてくる秋を見つける。不安に泣きそうな顔で。名前を紡いだその声は、震えていた。

 その姿を刻み付けるように見つめて。だけどすぐに瞼を伏せて、振り払う。冷笑を浮かべながら。
「残念ながら、貴方たちが香穂と呼ぶ娘は死んだわ。私は「魔」を統べる者。せいぜい気をつけることね。今から私たち「魔」は敵対する精霊使いの主となる新城家の滅亡とこの街の破壊を目的と定めたから」

 だから ――― 貴方と私は敵になる。

 まっすぐ秋を見つめて、けして躊躇することなく口にする。だが香穂は、秋が何か口にする前に、一方的に告げると走り出した。秋の横を通り過ぎて。

「香穂っ……!」
 ふっと香穂の姿が ―― 気配が離れていくことに気づいた秋は名前を呼ぶ。
(追いかけないと……っ!)
 今、追いかけないと手遅れになる。
 それに、伝えないといけないこともある。どうしても伝えたいことが ――― 。そうは思ったけれど、できなかった。凍りついたように、唇は震えるだけで。足は動いてくれなくて。
 やがて激しく降り出した雨が、秋の頬を伝わる透明な雫を誰にもわからないように隠していった。


 ―――― バンッ!
 不意に玄関のドアが激しく閉まった音を聞いて、砂霧は台所から声をかける。
「香穂さま、帰っていらっしゃったのですか?」
 だが、返事は一向になく。玄関から上がってくる様子もなかった。動く気配がない。訝りながら、砂霧は台所を離れて玄関に通じるドアを開ける。
「香穂さま……?」
 玄関では、座り込んだ香穂が蹲っていた。
 背中を向けていたが、震える肩に気づいて、香穂が泣いていることに気づく。砂霧はそっと近づいて、震える肩に手を伸ばした。途端、香穂はくるりと振り向いて、泣き顔を隠すかのように砂霧の首に抱きつく。
「……こうするしか、……こうするしかなかったのよっ!」
 悲痛の叫びが砂霧の胸を貫く。
 これほど打ちのめされた香穂の姿を初めて見る。だからこそ、どう慰めていいのか砂霧にはわからなかった。
「…………もう、いい」
 香穂は優しく抱きしめてくれる砂霧の耳元で、諦めたように囁いた。
「もう、戻ろう。戻ろうよ、砂霧……」
 ここにはいたくない。
 ―――― その気持ちが痛いほどわかって、砂霧は何も余計なことは言わずに、ただ「わかりました……」と、香穂を抱きしめる腕に力を込めて、頷いた。


 ここは……?
 激しい雨に打たれながら、秋はなぜか風の精霊の導きによって、見覚えのあるマンションの入り口まで来ていた。新城家所有のマンションで、佳人が一人暮らしをしている場所でもある。最も、香穂が戻ってきてからはずっと佳人は屋敷に滞在しているが。

 秋は風の精霊に誘われるまま、瞬間移動を使って入り口の自動ドアを超えてマンションの中に入る。その瞬間、秋は微かに気配をつかんだ。
(……これはっ、この気配はっ!)
 ――― 香穂っ?!
 微かだが、間違うはずのない確かな香穂の気配。その残り香。

 秋はエレベーターを待つのももどかしく、階段を走り出す。5階まで上ったとき、精霊が奥の部屋に向かう。秋はそれを追ってドアの前に立った。まずインターホンを押す。

 もしかしたら、また拒絶されるかもしれない。だけどまだ ――― まだ。僕たちは何も話し合っていない。何一つ、伝えていない。だからもう一度。機会を。香穂と話せる機会があるのなら……。

 だが、待っていても、ドアが開くことはなかった。緊張で震える手を伸ばして、ドアを開ける。カチャリ、と鍵はかかっていなかったのか、スッと開いた。

 「……香穂いるの?」
 玄関を過ぎて、部屋の中に入る。しん、と静まり返った空気に、秋は嫌な予感を覚える。
「香穂っ、香穂?!」
 どんなに呼んでも、返事はなく。見回してみても、部屋が使われた気配はなかった。でも風の精霊が秋の願いを聞いて、ここまで導いてくれたということは、確かに香穂はこの部屋にいたはずで。
(……どうして。どうしていつも黙っていなくなってしまうんだろう ――― ?)
 いつも、いつも大切なことは何も言わずに。
 どうしてっ ――― ……!
 秋は力の限り、白く染まった壁に拳をぶつけた。何度も、何度も。白い壁が赤く染まっていく。けれど秋は痛みを感じることはなかった。
 きっと、 ――― 香穂が現れて、「何でそんなことをするのっ?!」って言って怒鳴りながら怪我を治してくれる。そんな気がするから ――― 。

 いつものように、あの優しい声で。笑顔で ――― 。


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