第四章 魔の誘惑

四、岐路(1)
 『香穂と呼ぶ娘は死んだわ』
 彼女は確かにそう言った。『貴方と私は敵になる』とも、言っていた。
(どうすればいいんだろう……。)
 秋は主人のいない部屋の椅子に座って、思いに耽る。

 戦わないと、いけないんだろうか。
 ―――― 誰と? 誰と戦えばいいんだろう。香穂? いや、香羅だっただろうか。でも、あれは香穂で。優しい笑顔と、溢れるほどの愛を与えてくれていた香穂と ―― 戦えというのだろうか。
 できるわけがない。できるわけがないのに ――― 。

 右手に巻かれた白い包帯が、握り締めた力に堪えきれず、傷が開いたのかまた赤く染まっていく。

「……なんだ、ここにいたのか」
 不意にドアが開いて、佳人が姿を見せる。
「親父さまが戻ってきたぞ」
「佳和さまがっ?!」
 秋は反射的に立ち上がって、駆け出していた。
 その後ろ姿を見送りながら、佳人はやれやれと深いため息をついた。


 旅行先から佳人の連絡を受け、緊急に戻った新城家当主、佳和(よしかず)は秋から全ての事情を聞いても、意外なほどに冷静だった。
 目の前でまっすぐ見つめてくる秋の視線を受け止めながら、フッと隣に座る妻を見る。
「……私たちは知っていたんだよ」
 その言葉に、秋は大きく目を瞠る。
(知っていた ――― ?)
 戸惑いが広がる。
「知っていたというよりは、感じていたというほうが確かかもしれん。あの娘が人間じゃないということは気づいていたんだ」
「……っ、なら……どうしてっ?!」
 こうなる前に、或いは最初に教えてくれなかったのか。知っていたらもっと、違うふうになっていたかもしれないというのに。
 ――― どうして。

「教えていたら、今の状況が変わっていたかもしれないというのかね?」
 逆にそう尋ねられて、だが秋は頷くことができなかった。違う、と心のどこかが秋に訴える。
 それを見透かすように、佳和は言葉を続けた。
「そう、それは違う。もし教えていたら、今よりもっと悪い状況になっていただろう。きっとね」
 確信した目で言う佳和の視線を、秋は逸らすことはできなかった。赤く染まった、手の平が痛い。

「……僕はどう、すれば?」
「秋、どうすればいいかじゃない。まず、お前がどうしたいかを考えなさい」

( ――― 僕が、……どうしたいか。)
 思いがけない佳和の言葉に、秋はフッと沈み込んだ。
 どうすればいいのかわからなくて、ずっと戸惑っていた。もがいてももがいても、答えは導けなくて。空回りばかりしていた。
 秋はハッと我に返る。包帯の巻かれている右手に優しいぬくもりを感じた。当主の妻がそっと、両手で秋の手を包み込んでいた。穏やかな光を宿した瞳が秋を見つめる。
「私たちはたとえ、あの娘が人間ではなくても今までずっと、育ててきたんですよ。そこにどんな企みがあったのだとしても、私たちはあの娘を心から愛しています」
 当主も真剣な目でまっすぐ秋を見て問いかける。その目の奥には慈しむような ―― 優しく秋を見守る暖かい想いがあった。
「あの娘が「魔」だからといって、全てを否定するのか。よく、自分で考えるんだ」
 後悔しないように ――― 。

 当主の言葉に、秋は強い想いがわきあがってくるのを感じた。
(香穂の全てを否定する? そんなことはできないし ―― 嫌だ!)
 僕がどうしたいかなんて、決まってる。決まってるんだ。

「僕は……香穂に会いたいっ!」
 会って、ちゃんと話をしたい。この想いを伝えたい。
 そうだ……。香穂が逃げるなら、僕が追いかける。

「佳和さまっ……!」
 決意を秘めるように顔を上げる秋に、ひとつ頷いて佳和は優しく微笑んだ。
「気持ちは決まったか。それなら今すぐ行きなさい。こっちのことは何も ―― 心配するな」
 ああ、それと ―― 、と。
 立ち上がって駆け出しかけた秋を引き止めるように、佳和が続ける。
「香穂がいる「魔」の空間に行きたいのなら、精霊たちに頼めばいい。きっと、導いてくれる」
 秋は頷いて明るく返事を返すと、部屋を後にした。


 ――― よろしかったのですか?
 秋が出て行ってから当主の妻、雪名は隣に座る佳和に問いかける。
「嫌な予感がするというのに、秋を行かせたことか?」
 だが、と複雑な表情を浮かべて、佳和はため息を零す。
「私もそれが何かはわからないんだ。だったら、行かせるしかないだろう。それがどんなに厳しい試練になろうとも、あの二人ならきっと乗り越えてくれると私は信じているよ」
 信じて、待とうじゃないか。
 そう続けて、佳和は雪名を見つめた。柔らかい微笑が雪名の顔に浮かぶ。

 嫌な予感はする。
 ――― だけど、同時に確信している。あの二人が無事に帰ってくると。秋は必ず、香穂と共に帰ってくるだろう。
 そのためにも、やらなければならないことがある。
「さて、と。私たちも久しぶりに戦いに望むとするかね」
 佳和は立ち上がり、襖を開ける。
 そこには、一匹の黒猫が夜の闇に溶け込むように立っていた。黒猫は佳和の姿を認めると、一声だけ高らかに鳴いた。


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