第一章 精霊使い

二、遠視(2)
 時計の短針が9時を示す頃、食事は終わりを迎えて、佳人と秋のふたりはすっかり食器の片付けられたテーブルで、酒を酌み交わしていた。最も、秋はまだ未成年。飲んでいるのは佳人だけだったが ―――― 。

「香穂はどこ行ったんだ?」
 テーブルを挟んだ向かい側に座っている秋の酌を受けながら、佳人は訊いた。
 溢さないよう注いで、秋は視線を外へ向けた。開け放したままの障子から向こうに、夜の暗闇の中でも春の花が多種多様に咲き誇る庭が見える。
「お酒に酔ったから、少し夜風にあたってくるって言ってましたよ」
 食前酒、と称して香穂は佳人に付き合って飲んでいた。勿論、それですむような量ではなかったけれど。
 新城家の者たちは付き合いが多いから、アルコールには慣らされている。他人の前で醜態をさらさないように。付き人もまた然りなのだが、香穂は少なくとも未成年のうちは秋には飲まないように、と釘を刺していた。
 香穂にばれた時が怖いせいもあり、佳人も当主も隠れて秋に飲ませようという企みを実行できないままでいる。

「あいつが酒に酔うなんて珍しい。何かあったのか?」
 心の底から不思議そうに佳人が訊く。香穂はアルコールに強く、どんなに飲ませても表情にさえ出さない。
 ぐいっ、と。注がれた酒を煽った佳人に、もういちど酌をしながら秋は寂しげな光を瞳に浮かべて、ため息混じりに言った。
「さあ……。香穂はいつも気紛れだから」
 独り言のようなその言葉をきちんと聞き取って、佳人は「それはそうだ」となぜか嬉しそうに頷いた。
「けれど、気紛れのようであいつはいつも、おまえに対してだけは素直なんだよな」
「 ―――― そんなことありませんよ」
 ふっ、と優しく笑って言う佳人に、きっぱりと秋が否定の言葉を口にのせた。その言葉に驚いたように佳人は目を見開く。秋の表情に影が落ち、切なげに変わる。

 ――― そう、確かに佳人たちの前では香穂がいつも優しく素直に接してくれているのはわかる。だけどそれ以外のとき。特に二人っきりのときはふとした瞬間、かけはなれて冷たくなるときがある。まるで、距離を置こうとするかのように。それに気づいて言うと、香穂はいつも笑って誤魔化してしまうけど。

 物憂げな表情を見せてため息をつく秋から視線を外して、佳人はふと立ち上がると、庭のほうへ身体を向けた。
 夜の暗闇でも、鮮やかな色を見せる春の花々を眺めながら口を開く。
「僕はね、秋……。香穂が心配なんだよ」
 佳人は、どこか遠くを見つめるように目を細めた。
「あいつは幼い頃から教えられたわけでもないのに精霊を使うことができた。自由自在にね。それも、風、火、水、地の全ての精霊だ。本来ならひとつしか扱うことができないはずなのに。そのうえ、おまえから聞いただけで実際には使うところは見ていないが、幻といわれている光や闇の精霊たちまで従えているんだろう?」

 まるで、精霊の声は聞けても、従えることができない佳人の代わりとでもいうかのように香穂は『精霊使い』として才能に優れていた。だからこそ、現当主 ―― 父は表と裏を分けることにしたのだろう。
 そのことを恨んだ覚えはない。それどころか感謝したくらいだ。そうするよう勧めたのも自分だった。両方とも背負うのは重すぎるほどの荷物だし、目の中に入れても痛くないほど愛している妹と責任を、新城家を分かち合えるなら幸せだとも感じていた。
 だけど心の片隅では、両方とも背負ってあげられず半分の責任を押し付けたような罪悪感もあった。そうすることで、この新城家に香穂を縛り付けているような気がして。
 勿論、本人が心底いやがっていれば、例え精霊を従えることができなくても、自分が全て背負うつもりではいるけれど。

「佳人さま……?」

 真剣な声音で言う佳人に、問いかけるような口調で秋が呼んだ。
 心地よく、暖かい風が通り過ぎていく。佳人の黒い髪がさらさらと流れる。
「なぜ香穂の本当の親が彼女のことを捨てたのか真実はわからないけど、理由のひとつとして、その能力を知って恐れたというのも考えられるだろう。そんなふうに彼女は精霊たちから愛されてるだけ、過酷な運命が待ってるんじゃないかと不安になるんだ。その運命がいつ香穂を飲み込んでいくかと思うとね」
 佳人の表情が悲しげに曇る。

 脳裏に浮かぶのは、すでに十数年も経っているのに、まるで昨日のことのように覚えている出来事。
 屋敷の門の前で拾った小さな女の子。母親が見つけて、彼女の両親を探したが見つからないまま、もう子どもの産めない体になっていたこともあり、女の子の欲しかった両親は引き取って、養女にした。
 可愛い妹ができて嬉しくて「よろしく」と差し出した手を恐る恐る握り返して、戸惑いながらはにかんだような笑顔を見せる香穂に一瞬で捕らわれて、そのときから何物にも代えがたい宝物になっていた。

 だからこそ香穂を傷つけるようなことはあってほしくない。たとえ守られることを本人が望んでないにしても。

「 ―――― 大丈夫です」
 ふと、聞こえてきた声に佳人は振り向いた。

 まっすぐとぶつかる視線は強くて。秋の、芯の強さを表しているように。
 普段は春のように優しい雰囲気に包まれている秋も、香穂に対することだけは、一歩も譲らないような頑固な面を見せる。そんなところも、佳人が秋に香穂を任せられると思えたひとつだったが。
「たとえそんな過酷な運命が香穂のことを飲み込もうとしても。僕が守ります。香穂の傍を離れたりはしませんから。そして必ず幸せにしますよ」
 ふわりと。天使のような微笑みを浮かべて、照れもせず言う秋に、佳人のほうが照れてしまう。
(秋……。まるでプロポーズだぞ、それは。)
 今更といえば今更の気もするが、半ば呆れながら、それでも香穂を大切に想っているその気持ちと言葉が嬉しくて、佳人も笑った。


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