第五章 涙花の代償

一、深遠(3)
 ふと違和感を覚えて、砂霧は意識を集中した。
「どうかした?」
 神経を研ぎ澄ます配下に気づいて、香羅は首を傾げる。
「いえ……」
 無意識に答えながらも、砂霧は意識の中に感じた気配に驚いていた。
(まさか……。)
「香羅さま、魔の森に侵入者があったようです。少し様子を見てきます」
 返事も待たずに砂霧は目的の場所へ空間を渡った。

 彼女の消えた処に視線を投げたまま、香羅は小さく嘆息する。
(まったく……、気づいてないとでも思ってるの?)
 過去には絶対にありえなかった砂霧の主人を無視した行動に、苦笑を浮かべるしかない。
<それでも計画通りなんでしょう?>
 唐突に脳裏に響いた声に、香羅は頷いた。
「当然よ。でも……この先はわからない」
 以前までは、なにもかも思う通りに動かしてきたから、先のことはある程度の予測がついた。だけど、秋に関してはまったく想像できずに、いつも予想を裏切られる。だから、確かなことは香羅には言えなかった。

<信じなさい。あの子はきっと、乗り越えてくれるわ>

 確信に満ちた言葉に、香羅はただ曖昧な笑みを返す。
 ――― 信じてないわけがない。それでも絶対など、あるわけがないから。不安になる。
 フッ、と瞼を伏せた香羅のそんな想いを読み取ったのか、声は話しを変えた。

<それより、片付けはすんだの?>
「大体はね。人間の世界にいる高魔たち全て、収集をかけたわ。あとは時が来るまで、ここへ閉じ込めておけばいいから」
<ばれないかしら?>
 疑問を口に乗せる声に、香羅は肩を竦める。
「そのために精霊使いの排除と新城家の壊滅。長のいる街への総攻撃を餌にしたのよ。ばれそうな奴らには、そのための斥候を頼んだからね」

 時が近づいてくる。
 自分の言った言葉に、そんな重みを感じていた。




 『死』 ――― 。
 初めて秋の心にそんな言葉が刻み込まれた。
「貴方が精霊使いだということには驚きましたけどね」
「……うっ、」
 血で染められている腕に、高魔は容赦なく足を乗せ、体重をかける。
 ボキ、ボキボキ……ッ、まるで木の枝が折れるような音が鳴る。

 うわぁぁ ―――― っ!
 声にならない声が、森の中に響いた。

「しっかし、なーんでこんな所にいたんだろうなぁ?」
 見物していた高魔の一人が呑気にそう口を開くと同時に、秋のもうひとつの腕が見えない力で音もなく折れた。
 「…………っ!!!!!」
 それに気づいて、秋の腕を踏みつけていた高魔が振り返る。
「なにするんです? これは私の獲物だといったでしょう?!」
「まあまあ、いいじゃん。ちょっとくらい」
 もう一人の高魔が仲裁に入る。しかし、同時に秋の足が大きな音を立てた。

 くぅっ……!
 すでに秋には悲鳴を上げる力さえ残っていなかった。

 ……強すぎる。
 高魔一人なら倒せると思っていた自信が跡形もなく崩れ去り、秋に現実を見せ付けた。
(このまま死ぬのかな ――― ?)
 『死』……、初めて感じた恐怖だった。
(そういえば、香穂といたときは一度もそんなこと考えたことがなかった……。)
 いつだって危険を覚えると、香穂が助けに来てくれていた。
 香穂ならなんとかしてくれる ――― そんな自信がいつも死という恐怖から救っていてくれた。どんなときでも。
 でも今、香穂はここにはいない ――― 。




 ……っ、あれ?
 気づいたとき、秋は不思議な空間にいた。
 見渡す限り広がる闇の中。さっきまで戦っていた高魔たちの姿もない。もしかして、ここが死の世界、とか……。

<なに馬鹿なことを考えてるの。違うわよ>
 またもや脳裏に、声が響いた。
<ここは時間の流れを支配している空間なの>
 時間の流れを……?
 意味がわからなくて戸惑っているのにもかまわず、声は先を続ける。
<貴方がいいタイミングで気を失ってくれたから、そのまま意識だけをここに飛ばしたの。簡単に言えば、幽体離脱みたいなものね>
 そう言われて気づいた。
 自分の身体が透き通っていること、更にこの空間に浮かんで立っているということに。
「僕の身体は??! こんな所にいる間に殺されるよ?!」
 不安になって動揺する秋に、声はあくまで呑気に答える。
<心配ない、ない。そっちの方は大丈夫だから、とりあえず今はこっちに付き合って>
 秋はそんな言葉を聞いた途端、頷く間もなく何かに引っ張られるように意識を飛ばした。


 ――― その先にいたのは、金を纏った幼い少女と光を身につけた美しい女性。

『私は‘魔’なのに、貴女はそんなことを頼むの? 私にとっては殺したほうがラクなのに』
 紡ぐ言葉の内容とは裏腹に、その口調が穏やかなのはただ少女も純粋に驚いているからだろう。
<でも、そうはしないでしょう。貴女の目を見ればわかるわ。闇の精霊王も言ってたけど貴女には愛がわかる>
『……愛、ね』
 女性の言葉に、少女はぽつりと呟いた。
『それなら、ひとつだけ聞かせてよ』
 まっすぐにその女性の光に満ちた瞳を見つめながら、少女は訊く。
『種族が違うのに、それでも人間の子どもを生んだのは、愛してたから?』
<そうよ。あの人を愛してた。だからその子どもを生みたいと思った。たとえそれが、精霊にとって、罪であることだとしても>
 女性は毅然とした口調で言った。その姿を眩しげに見つめて、少女はふと顔を逸らす。

『約束は、できない』

 女性はわかってる、というように優しい笑みを浮かべて頷いた。だが、少女は寂しげに笑って、視線を女性に戻す。今にも泣き出しそうな弱い口調で言う。

『でも、契約なら交わしてもいいよ』
<今はそれでいいわ。それであの子を、秋を守れるなら。でも、きっといつか……、貴女にもわかるわ>

 ―――― ちょっと、しっかりしてっ!
 ふと響いた声に、秋はハッと我に返った。現実に引き戻された感覚に、呆然となる。
「僕は……」
 何が起こったのか、理解できなかった。
 少女と、女性の会話 ――― 。最後のあの女性の言葉に衝撃を受けた。

 あの子を、秋を守れるなら。

 確かに女性はそう言った。秋、という名前をはっきりと。
 体が震えているのを感じて、秋は手を強く握り締めた。まさか、という思いと。もしかして、と期待する心。
 二つの思いを抱える秋に、あの女性が紡いだ声と同じ音を持つ声が呆れたように言った。

<ほんと感化されやすいわね。気をつけて。ここは闇の空間でもあるのよ。流れに身を任せると、戻れなくなるわ>
「……闇の空間?」
 秋の疑問には答えずに、声は真剣な口調で言う。
<真実を、聞いてきなさい>
 その瞬間、声とともに微かに感じていた暖かい気配も消えていき、秋はひとり空間に残された。


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