始まりは ――― 精霊族の光を司る女王が、人間と恋に落ちたこと。
ふと、さっきまで話していた声とは違う、闇の中に響く音に、秋は身構えた。
「だれだっ?!」
周囲に注意を向けると、目の前に一匹の黒猫が現れた。
(あの、黒猫だ ――― 。)
見覚えのある黒猫は、じっと秋の目を見つめる。
秋もまるでその瞳に捕らわれたかのように、視線が逸らせなかった。言葉が、秋の脳裏に直接入り込んでくる。
<女王は人間の姿を模し、その人間の子どもを宿した。だが、人間は女王が子どもを生む前に、命を落としてしまった。残された女王は、やがて子どもを産んだが、精霊が人間の世界に姿を保たせるには、限界があり、力を失い始めた>
女王は、力を失い、消える運命にあった。だが、人間の世界には「魔」と呼ばれる者たちが存在していた。
人間と精霊の子ども。その不思議な力はすぐに「魔」を呼び寄せることになり、子どもは弄ばれて、殺されてしまう。まして、人間の子どもでもある。精霊の世界に救いを求めることもできない。
そのとき、子どもに興味を持った「魔」が現れた。それは力ではなく ――― 「魔」は子ども自身に惹かれていた。気づいた女王は「魔」にある契約を持ちかけた。
女王の全ての力を使って、子どもの精霊の力を封印すること。そうして、傍で見守ることを。
「魔」は契約に頷き、――― そして。
<だが、いくつか問題はあった。一番重要なものは統貴の存在だ>
やつの力は精霊王を凌ぐものがある。真実を隠しても、すぐに気づかれることはわかっていた。だから取り引きを持ちかけた。
<「魔」の世界と人間の世界を完全に切り離してしまうこと>
「なぜ、そんなことを?」
そこで初めて、秋は疑問を口にした。
黒猫は目を瞬かせて、答える。
――――― バランスが取れなくなったからだ。
高魔の力が強くなり、その性格も残虐なものが増えてきていた。人間を消すことを簡単に行うようになれば、全滅も時間の問題だろう。そうなれば次に起るのは、同族同士の殺し合いになるのが目に見えていたのだ。だから統貴は「魔」の統率を図るためにも、世界の完全な切り離しを望んだ。
「どうして精霊に? 統貴ほどの力があれば自分で……」
<無理だ。世界に干渉する力は精霊だけ、それも光の女王と闇の王だけに許される特別な力だ>
両方ともに納得した。……まあ、精霊族は最後まで渋っていたが。
「なぜ?」
<世界が切り離されたら。精霊族も人間の世界にいられなくなるからだ>
それでも、説得して承諾を得た。
だが、世界の切り離しを行うには、子の力を全てを使って封印した光の女王が力を取り戻す必要があった。つまり ―― 子が自ら封印を破る必要が。
「……世界が切り離されたら、「魔」はいなくなる?」
不意に秋はぽつりと、小さな声で呟いた。
<ああ……だが、消えるのは高魔以上の力を持つ者だけ。霊魔や妖魔は人の想いによってできるものだ。人が存在する限り、消えることはない>
本当に聞きたかったことを曖昧にはぐらかされた気がして、秋は苛立ちを感じた。
封印の力を破ったら。なにもできなかった子どもではなく。今は ――― 。
「香穂は ――― だから、僕から離れてしまったのかな」
<……もともと契約はおまえの封印がとけ、光の女王が力を取り戻すまでだった。世界の切り離しと同時に、――― あいつがどうするかは、わからんよ>
そう言うと、黒猫は闇に溶け込むように姿を消していく。
<――― お前にはわかったんだろう。もう、誰のことを言っているのか>
最後に脳裏に響く声に、秋は頷いた。
光の女王と人間の子 ―― それが僕なら、「魔」は香穂。そうして、あの声は。
<正解。あなたのお母さんです>
途切れていた声が、再び闇の中に響く。
秋の頬に涙が伝わっていった。
「……かあ…さ、ん?」
闇の中にぼんやりと、光が現れる。光は、ひとりの女性の姿に変わっていく。美しいその姿に、秋は目を瞬かせた。
<なんだか、照れるわね>
くすり、と微笑んで、光の上はそっと秋を包み込むように抱きしめた。やわらかく、優しく。
<……とても会いたかったわ。寂しい思いをさせてごめんね>
秋は首を横に振った。
「寂しくはなかったよ……。香穂がいつも傍にいてくれたし……」
<そうね。あなたの封印をするために、あなたの中にいたから、彼女への愛は強く伝わってきたわ>
身体を離して、光の女王は悪戯っぽく目を煌かせ、息子をからかって言った。秋は照れたように笑う。だけど、すぐに複雑な顔つきになる。それに気づいて、女王もため息をついた。
<……香穂は本気であなたと戦うつもりよ>
女王がゆっくりと紡いだ言葉を理解するのに、秋は少し時間がかかった。
(本気で……? 戦う……?)
身体が震えて、戸惑いに揺れる。更に女王は続ける。
<あなたと香羅が本気で戦えば、どちらかが死ぬわ。まあ、どちらにしても封印が解けてしまえば、あなたにはもう香羅なんて必要ないでしょう>
ぐさり、とまるで心臓を貫かれたような鈍い痛みを秋は覚えた。
吐き気が、する。
「な……、なん……」
ようやく紡いだ言葉は、問いかけにもならなくて。だが、女王は何を聞きたいのか見透かしたように、口を開いた。
<あの子の性分なのかもしれないわ。あなたと戦ってみたいのよ、本気で>
混乱する秋の頬に手を伸ばし、そっと触れた。ふと、優しい目の中に、強く真剣な光が宿る。
<まだ私はあなたの中に戻るけど、時はもう近づいているわ>
最後になるけど、と女王は秋をまっすぐ見つめた。
<香穂の想いだけは、信じてね>
私はいつでも、
あなたのことを愛しているわ ――― 。
闇の中に消えていく光に向かって、秋は慌てて言う。
「僕も母さんに会えてよかった。愛してるよ……」
そう告げた瞬間、秋の身体の中で眩しいほどの光が溢れて、弾けた。