第五章 涙花の代償

二、真実(3)
 不意に感じたひんやりとした冷たい感触に、意識が浮上する。
(気を、失っていたのか ――― 。)
 重く感じる瞼を持ち上げていく。気遣うような声がかけられた。
「お目覚めですか?」
 ぼんやりとしていた焦点が、一人の女性をとらえる。見覚えのない輪郭に、秋は戸惑いを覚えた。
(だれ……?)
 少しづつ、視界がはっきりしていく。揺れる視界が合わさったとき、目の前で美しい女性が額に手を乗せていた。
(あなたは ――― っ?!)
 そう言おうとしても、なぜか声が出なかった。それに気づいて、女性は申し訳なさそうに言う。
「貴方に状況を理解していただくまで、声は出ないようになっています。でも、心は読めますので言葉にしなくてもわかりますから」

( ―――― 僕は確か、「魔」の森で高魔たちを相手に戦ってて……。)
 記憶を辿っていくうちに、秋は改めてその女性の存在に気づく。
(まさか……っ、高魔?!)
 飛び起きて身構える秋に、女性 ―― 砂霧は言い聞かせるような口調で答えた。
「貴方の考えている通り、私は高魔です。でも貴方に危害を加えるつもりはありません。いいですね?」
 まっすぐ見つめてくる瞳に、嘘は見つけられなかった。
 どこか信頼できるものを感じて、秋はとりあえず身体の力を抜いて、頷いた。

 「あなた ―― 秋さま、この方が呼びなれていますから。秋さまにとっては初対面かもしれませんが、私は いつも香羅……いえ、香穂さまのお傍でずっと見守っていました」
 「香穂」という名前に秋は敏感に反応して、眉を顰める。
(香穂の傍で……?)
 そう言われて、秋は思い出した。
 時折、香穂が話の最中で黙り込んだり、独り言を呟いていたりしていたことを。それはこの女性と話していたからなのかもしれない。
 理解したかのような秋の様子に、砂霧は真剣な顔で言う。
「いいですか? とりあえず言葉の呪縛は解きますが、騒いだりはしないでください。大丈夫だとは思いますが、他の高魔たちに貴方の存在を知られると面倒ですから」
 秋が頷くのを確認して、砂霧は声の呪縛を解いた。それを感じて、秋は小さな声で早速、と砂霧に頼み込む。
「彼女に……、香穂に会わせてください!」
 砂霧は寝台の上で正座になり、必死な顔で真剣に言う秋に、深く息をついた。

 秋が気絶している間、この場所に運び込むか。それとも人間の世界へ送り返そうか、ずっと葛藤していた。とりあえずこの場所に運び込んでからも、香穂さまに会わせるべきかどうかを悩んでいた。だが、こんなに真剣な眼差しに見つめられ、「会いたい」というまっすぐな想いを口にされてしまったら、仕方ないと思うしかない。
 ――― 或いは自らもそれを望んでいるのかもしれない。
 そう結論を出すと、砂霧は柔らかく微笑んで口を開いた。

「……ここは、香穂さまの城にある一室です」
 その言葉に、秋は一瞬戸惑いを見せる。
「……香穂の?」
 砂霧が頷いたのを見て、秋はハッと我に返る。

「じゃあ、香穂はここにっ?!」

 もう一度、砂霧が頷くのを見て、反射的に秋は寝台から飛び降りようとし、砂霧に止められた。なぜ、と問いかけようと顔を上げて、秋は真剣な砂霧の目を見つける。
「香穂さまは確かにここにいます。ですが、秋さまはここから動かないでください。全て私が手配します。それまで ―― その準備が整うまでここにいてほしいんです」
「会わせてくれる……?」
 身を乗り出してそう訊く秋の言葉に、砂霧はため息交じりに答えた。
「私は最初、貴方とのことは反対していました」

 人間を愛するなど、と。約束された地位と、同族に祝福される相手との婚儀。不自由なものはなにひとつ、ない。実際、次期“統貴”としての立場にいたあの方は、美しく魅力に溢れ、また偉大な力を持っていました。ですが ――― 。
 砂霧は切なげに微笑んだ。

 「秋さまと一緒にいる香穂さまを見守ってきて ―― ずっと、傍で見守ってきて、思い直しました。その地位も祝福も香穂さまは望んでいない。あの人はただ……その権力に縛られているだけなのだと」
 どうしてわからずにいられるだろう。
 ただひとり、孤独に沈み、なにもかもを無為に受け入れていた「魔」の頂点にあった彼女の姿と、秋の傍で一緒にいることを幸せだと微笑むその姿の違いはあまりにも明らかで。だから砂霧は気づくことができた。

「香穂さまはあなたの傍にいるときが自由なのです。それこそ美しく、愛に溢れておられます。なにより、あなたの傍にいることを香穂さまは望んでおられるのです」
 それは私の望みでもあります、と強い光を瞳に宿して砂霧は言う。そっと秋の手をとり、真剣に彼の目を見つめた。
「だから、約束します。必ず香穂さまに会わせますから」
 「魔」にあるはずのないぬくもり ―― 秋は触れられた手からそれが伝わってくるような気がして、何よりも深い香穂への愛情を感じた。主従関係というにはそれは、強すぎて。

 「魔」にも愛がわかる ―― 改めて秋は思い知らされる。
 わかりました、と頷く秋にふわりと優しい微笑を返して、砂霧は部屋を出て行った。


 ――― そろそろ始まるな。
 考え込むように椅子に深くもたれて、目を閉じていた香穂の傍に黒猫が現れて、そう呟いた。香穂は目を開けて、黒猫を見る。
「……悪かったわね」
 唐突に謝罪の言葉をかける香穂を驚いたように猫は見上げて、ニヤリと笑う。
「なにがだ? おまえが嫌がらせに俺に沙野と名づけたことか?」
 アレは確かに嫌だったな……。

 そう言う黒猫に、香穂は苦笑をもらす。ちがうわよ、と首を横に振って困惑したように言う。
「ちがう。闇の精霊王であるあなたに、秋への説明を任せてしまったこと」
「別にたいしたことじゃない。今からおまえがすることに比べたら……」
 ふっと黒猫は押し黙る。
 目の前に映し出される光景を見ていた黒猫は視線を香穂に向けた。
「本当にできるのか?」
 香穂はその問いかけに深く息をついた。
( ――― 本当にできるのか?)
 何度も何度も、繰り返してきた問いかけ。香穂は決意を固めるかのように、口を開いた。
「決めたのよ。重罪でも ――― 、それはもう背負っていくしかないから」
 黒猫は言葉の重みに思わず、瞼を伏せた。それを見て、香穂は話を変えた。
「それより、ひとつ訊きたかったんだけど。世界が切り離されたら、精霊たちはどうなるの?」
「自然に還るだけだ」
 短く答えた黒猫は「ふぅん……」と愛想なく頷く香穂を横目で見て、気づかれないように小さく息をつく。
 どんなに平然としていても、ひしひしと伝わってくる。今から罪を犯そうとする彼女の苦しい想いが ―― 。それしか方法がないとわかっていても、それ故に悲しみが生まれると知っていても。
 黒猫は言葉に出せずに、心の中で呟いた。
(弟殺し、か……。)
 香穂と黒猫の前には、使い人たちと摩耶の姿が映し出されていた。


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