第五章 涙花の代償

四、代償(1)
 ―――― なぜ。

「…………なんで?」

 目の前を彩る赤黒い色を呆然と眺めながら、秋はそう呟いた。
 その中に横たわる香穂の姿。独特の強い臭いに吐き気がこみ上げてくる。
(なぜ、……なんで、こんなことになってしまったんだ?)
 繰り返し、秋の脳裏にそんな疑問だけがぐるぐると浮かぶ。
「……香穂っ、香穂!」

 横たわる香穂の身体を必死の想いで揺する。だが、瞳は開かない。
(嘘だ。……こんなことは冗談に決まってる。冗談に……。)
 溢れてくる涙は堪えきれずに、秋の頬を伝わり流れていく。零れて、香穂の瞳に落ちていった。

「……なに、泣いてるの?」

 ――― え?

 唐突に聞こえてきた声に、秋は目を瞬かせる。
「秋……。そんなに身体を揺すられたら、痛いよ。一応、身体は傷ついてるんだから」
 そう言うと、瞼が持ち上がり、黒い瞳が覗く。苦しげに眉を顰めて、大きく息をつく香穂がいた。

「……っ、か、香穂?!」
「他に誰がいるの?」
 香穂は驚き動揺する秋を、きょとんとした顔で見つめる。
「……で、でも今。倒れてたし……血だってこんなに……」
 身体中に赤黒い血が染み付いているのは変わらなかったが、香穂は何事もないように立ち上がると、呆然と座り込んでいる秋の手を引っ張って起き上がらせる。
「え? なに? 私が秋の攻撃くらいで死ぬと思ったの? いくら全力で向かってこられても、あれだとまだまだだね」
 小さく肩を竦めて、ふっと意地の悪い笑みを浮かべる。
 あまりにも香穂らしいマイペースなその姿に、切れた秋はムッとなって怒鳴りつけるように言う。

「じゃあ、なんで最初に呼びかけたときに返事しなかったんだっ?!」

 不意に香穂は押し黙った。秋は訝るように名前を呼ぶ。
「……香穂?」
「泣いてる秋があまりにも可愛かったから……」
 ぼそり、と顔を背けて呟かれた一言を、秋は確かに聞き取って、あまりの怒りに言葉を失う。
 香穂はその隙を突いて、そっと秋の手を握ると真剣な顔で口を開く。
「話は後にしよう。早くここから出ないと、この空間はもう閉鎖されてしまうからね。しっかり手を握ってて」
 そう告げた瞬間、香穂は異次元へ空間を裂き、飛び込む。現われた光景に、秋は目が回りそうになった。

 砂漠 ―― ピラミッド。生い茂る森、流れる滝。広がる空と白い雲。一面の赤い土。次々と景色が変わっていく。
「ここ ―― どこ?」
「私がずっと前に作り出した時空路。一瞬で思う時代、場所に飛べるんだけど、ここも壊れてきてるわ」
 香穂はしっかりと秋の手を握り締めて、迷うことなく空間を進んでいく。
「もしかしてそれって、世界を切り離す力と関係してるわけ?」
 ふと思い出して、そう問いかける秋に頷きながら、香穂は答えた。
「詳しいことは後で話すけど、私と秋の力がぶつかり合ったときに、光の力が動き出したの。そして、契約が成就されることになって、「魔」の空間から人間のいる世界に戻るにはもうこの路しかなかったのよ」
 そう告げたとき、秋と香穂は路の先に、出口となる光を見つけることができた。

 香穂は握っていた秋の手を更に強く握り締める。
 そのぬくもりを感じながら、秋も握り返して ――― それが合図でもあったかのように、二人は一気に光の中へ飛び込んだ。



 異次元を抜けて、二人は見覚えのある公園に辿りついた。
 短い時間だったはずなのに、懐かしいその光景に秋はほっと息をついた。

「……帰って来たんだね」
「そうね……」
 その言葉に頷きを返し、香穂は屋敷がある方角へ歩き出した。それに気づいて、秋も慌てて後をついていく。
(もう少しくらい……余韻に浸らせてくれても)
 せっかく、戻ってきたのに。

 ――― ようやく、会えたのに。
 何の感慨もなく、屋敷に戻り始める香穂の背中を見ながら、秋はため息をつく。

 その、想いを読み取ったかのように。それとも、たまたまかもしれないけれど。香穂は歩調を止めて、くるりと振り向いた。嬉しそうに笑って。
「……ただいま、秋」
 秋のもとに踏み出して、香穂はそっと抱きつく。
 一瞬、抱きついてきた香穂に戸惑いを覚えたが、すぐに秋は強く抱きしめて、優しいぬくもりを感じる。

「香穂……、お帰り」

 ずっと、ずっと言いたかった言葉。
 「愛している」と。抱えきれない想いが少しでも香穂に伝わるように、秋は優しく ―― 強く抱き締める。
 香穂もそのぬくもりを ―― 想いを受け止めるように、秋を包み込んだ。

「……ね、何か感じない?」
 しばらく抱き締めあっていると、香穂が不意に顔を上げて秋に訊いた。
「えっ?」
 唐突な言葉に戸惑いながら、秋は見つめてくる香穂の瞳をじっと見つめ返す。だが、その真意を探ることができずに、首を傾げる。
 香穂は苦笑しながら、秋から少し離れた。
「目を閉じて」
 数歩の距離をとってからそう口を開いた。
 秋が言う通りに目を閉じたことを確かめて、更に数メートル離れる。
「じゃあ、そのままで私の気配を探ってみてよ」
「気配……?」
 言われた指示に、秋は簡単だ、と思った。
 香穂の気配はどんなに離れたところにいても、本人が隠そうとしない限り、いつでも光り輝いている。普通の人間はもとより、精霊使いの中でも一際大きく、強い。
 だが、香穂の気配を探った瞬間、秋は異変に気づいた。

「香穂っ?!」
 思わず目を開ける。目の前で意味ありげに微笑んでいる香穂を呆然と見つめた。

「普通の人間と変わらないでしょ?」
 そう言うと、香穂は秋の傍に戻って、とん、とその腕の中に身体を預ける。微かに寂しげな ―― だけど、嬉しさの滲む口調で言う。

「完全に人間になっちゃった……」
 その言葉に、秋は何も返せなかった。
 完全に、―― つまりは、精霊の声さえも聴こえないということ。世界の切り離しを行うために。光の力を甦らせるために。なによりも、秋の傍にいるために、全ての力を使い果たした香穂に、ただ ―― ただ愛しさだけが溢れてきてとまらない。秋は強く香穂を抱き締める。
 ぬくもりが伝わりあって、互いの心に満ちたとき、香穂は笑顔を浮かべた。
「さあ、屋敷に帰ろう。皆が待ってるから」
 秋も笑顔で頷いて、香穂の手をとり屋敷に向かって歩き出した。


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