番外編(一)夢見る桜

一、災難(3)
 災難は避けられない、と香穂は頭の先から足の先までずぶ濡れになっている秋を見ながらしみじみそう思った。もともと笠音に言われて、こんな山奥の村に訪れることになったのも、災難のひとつではある。それだって、避け切れなかったし。

 やけに感心したような視線が向けられていることに気づいたのか、秋がムッとした顔になった。

「……わざと?」
 地の底を這うような声で問われても、怒った顔でも、もともとの顔がまるで少女と見間違えそうになるほどの可愛い顔つきであれば、その迫力はないに等しい。肩を竦めて、「まさか」ととぼけてみせた。
「香穂っ」
「あの、すみませんっ!」
 秋の声を遮って謝罪を口にしたのは、居心地悪げに二人の前に立っていた女の子だった。少し時代を感じさせる桶を手にして、頭を下げる。秋は慌てて言った。
「あっ、ちがうんだ。君がわざとしたなんて思ってないよ! 気にしないでっ!」

 ――― むしろ、わざとというのなら、香穂だ。
 女の子が水播きしていることをわかっていて、秋の背中をその最中にぽん、と押したのだから。まるで女の子が振り向く瞬間を見計らったかのように。

「そういうわけにはっ! あの、着替えを用意しますからどうか一緒についてきてくださいっ!」
 女の子が焦ってそう言うと、秋の手をとる。
 困惑したように秋が香穂を見ると、不機嫌そうな顔でそれでもにっこりと微笑む姿があった。
「……香穂?」
「お邪魔させてもらおうよ、秋。せっかく親切に言ってくれてるんだから」
 視線は秋と女の子の繋がれた手に向けられている。慌てて、秋はぱっと離した。
「うんっ、あ……そうだね。せっかくだから、ね」
 秋も頷くと、女の子はほっと胸を撫で下ろして、「有難うございます!」と笑顔を浮かべる。秋たちを案内するように、村の奥に続く道を歩き始めた。

 女の子は『立野友子(たてのともこ)』と名乗った。年齢は秋と香穂と同じだという。
「学校は? 村に中学校なんてあるの?」
「ないですよ。村を見てもらえればわかると思いますけど、小さいでしょ。家だって、いつ建てられたものか、昔風の建物が数軒あるだけだし、住んでる村の人たちも、もうほとんど血縁なんですよ」
 苦笑して、友子は周囲に視線を向ける。香穂と秋も同じように村を見回す。畑を耕している老夫婦が友子に気づいて、笑顔で手を振った。
「友子ちゃん! お客さんかね。珍しいねぇ」
「何もない村にようきたの。何しにきたかえ?」
 老いた夫の問いに秋は香穂に視線を向ける。香穂は、ふっと笑顔を浮かべると、事実を半分だけ隠して告げた。
「白ヶ村にこの村の事を聞いて、様子を見に来たんです」
 だが、二人の老夫婦や友子の反応には何も得られなかった。ただ頷いて言う。
「おお、そうか。若いのにここまで登ってくるとは奇特な方たちですなあ。せっかくだから、今日は村長さんの屋敷に泊まっていかれんね」
「私もそう勧めるつもりです!」
 友子は笑顔で頷く。老夫婦は「そうかそうか」、とどこか嬉しそうに言うと、また畑仕事に戻っていった。
 一瞬、香穂は鋭い殺気を感じて、村を見回す。
「香穂?」
 秋も違和感を覚えたのか、不安そうに名前を呼んだ。だが、畑を耕している老夫婦を中心に同じように畑仕事や家の周囲の掃除を勤しんでいる人たちばかりで、その原因を探ることはできなかった。

「あの、」
 足が止まると、訝るように友子が声をかけてきた。
「なんでもないの。気のせいね。ほら、秋。いこう」
立ち止まっている秋の手を引いて、香穂は後に続く。促されて、秋も慌てて歩き出した。


】 【】 【