番外編(一)夢見る桜

二、狂桜(1)
 香穂は村に入る前に舞い降りてきた桜の花びらを眺めていた。
 随分と季節はずれだとは思う。だけど、遅くに咲く桜というものがないわけではない。

 指先に力をこめて、花びらの表面に文字を描く。いつだったかは忘れたが、暇潰しに読んだ本に書いてあった呪力をもたらすそれは、描かれると同時に弾けて花びらは小さな鬼の姿に変わった。角が一本、牙が口からは大きく飛び出ている。いかつい顔つきで香穂を不思議そうに見ていた。
 香穂はそれをぽんと、その場に放り投げる。
 唐突でびっくりしたのか、慌てながら鬼は宙を泳ぐように両手でもがいていたが、やがて無事に地面に降り立った。何をするんだ、と抗議の目を向けようとしたが、そこで冷たい香穂の目とかちあって、身を竦ませる。まるで目を合わせただけで、全身に苦痛を受けながら命を奪われそうな、そんな視線を浴びて、鬼はすたすたとどこへともなく走り去っていった。

(情報収集なら私が……。)
「わかってる。でも今回は秋についててほしい。何があるかわからないときに、余計なことをしていて、手遅れになったらイヤでしょう」
 砂霧の能力は十分に把握済みだ。そんなことをするわけがないと知っていても、わずかな可能性も取り除いておきたい。秋を守ることは万全でなくてはならないから。
 何かまだ言いたげな砂霧の気配を感じながら、それでも『わかりました』と頷き消えたのを見計らったように、声をかけられた。

「お茶が入りました。いかがですか?」

 振り向くと、友子がお盆を手にして立っていた。ふと視線を落とすと、小さな女の子が友子の服の裾をつかんで居心地悪そうに立っている。不安げな表情を浮かべていた。
「この子、村長さんのお孫さんで、花姫(かき)いうんです。花姫ちゃん、お客さんにご挨拶は?」
「…………こんにちは」
 躊躇ったように、促されて花姫はそう口を開いた。
「照れてるんです。恥ずかしがりやなんで……すみま―――」
 謝ろうとした友子はふと、香穂の顔を見て言葉を止めた。驚いたように目を見開いて、まっすぐ花姫に視線を向けている香穂には明らかな動揺が見てとれた。初対面であるはずの花姫を見てそんな顔をされるとは思っていなかった友子は訝るように訊く。
「あの…。花姫ちゃんがどうかしました?」
「……あ、知り合いの子に似てたので。でもよく見たら違いました。ごめんね。こんにちは、花姫ちゃん」
 気を取り直したように、香穂がそう言うとほっと胸を撫で下ろして友子は笑った。

 どうぞ、と部屋の中を促してテーブルにお茶を置く。視線を廊下に向けた。
「もうすぐ秋さんもいらっしゃると思うんですけどね」
 村長宅に着いて、とりあえず秋は部屋を借りて着替えることにした。着替えは持ってきていたので、借りる必要はなかったが、着替えるだけでは風邪を引く、と此処に勤める侍女と友子の強い勧めもあって、風呂場を使わせてもらうことになり、その間、香穂はひとり客間で待たされていた。
「この村で桜の花が咲いている場所はあります?」
 唐突に香穂はそう問いかけた。
「ええ…気づかれました? この村から西に進んだ所に少し丘になった場所があるんです。そこに桜が咲いているんですが季節はずれの桜なんですよね」
 そう言った所で、ふと友子を呼ぶ声が聞こえた。それに気づいて、友子は「ちょっと失礼します」と言い置いて、席を立つ。友子の姿が見えなくなって、花姫と二人っきりになった香穂は不機嫌な空気を露わにした。

「……そう怒るな。我が悪いわけではないぞ」
 花姫は不機嫌に黙り込んでいる香穂を前に、そう口を開いた。先ほど挨拶をしたときよりも大人びた口調と声が紡がれる。
「そう。帰るわ」
「待て! 事情は話す! だから協力してくれ」
 立ち上がった香穂を引き止めるように焦った顔で花姫が叫んだ。不意に二人は気配を感じて黙り込む。立って踵を返そうとしていた香穂は座り直した。それを見計らったように、襖が開く。着替えの終えた秋が姿を現した。

「ごめん、待たせた?」

 部屋の中に入ってきた秋は座っている香穂に謝った。香穂は小さく肩を竦めるにとどめて、隣を促す。ほっと胸を撫で下ろした秋は、香穂の隣に座って向かい側にいる女の子に視線を向けた。にっこりと笑う。
「こんにちは」
 するとさっきまでの香穂との空気を一変させて、花姫は恥ずかしがるように頬を染めて小さくこんにちは、と返した。名前を訊こうとした秋を遮って、襖が再度ひらいた。
「すいません、村長さんがこちらで待ってるのでいいですか」
友子が姿を見せて、そう促す。香穂と秋は頷いて友子の後に続いた。


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