番外編(一)夢見る桜

二、狂桜(3)
「香穂?」
 風呂からあがった秋は、庭先に立っている香穂を見つけて呼びかけた。振り向いた香穂の顔に浮かぶ表情に戸惑った。他の誰かが見ても、いつもと変わらないように見える。だが、秋にはそれが今にも泣き出しそうな顔に見えた。だから、秋は迷わず香穂の傍に歩み寄り、抱き締める。

「……なにがあったの?」

「秋……」
 躊躇うように、香穂が口を開く。

 普段なら軽口で逸らされて、誤魔化されてしまうが、今の香穂の雰囲気を感じ取った秋はそうさせるつもりはまったくなかった。香穂もそれに気づいたのか、秋の胸に頬を寄せて、身体を預ける。

「……狂桜花(きょうおうか)って知ってる?」
 聞き覚えのない名前に、秋は首を横に振る。
「桜は、もともと精霊の宿る樹のひとつでね。精霊は自らの力を注いで花を咲かせるわ。だから、精霊の力が大きいほどキレイな花を咲かせるのよ。そうして……散る」
「散るとどうなるの?」
 香穂は、開きかけた唇を一度閉じて、少し躊躇った後、再び口を開いた。
「……散ると同時に眠りについて、そうして力を溜めてまた、花の咲く季節に目覚めるようになってる」
「もともとってことは……」
「狂桜花って、その精霊が桜を媒介にして結界を張っているために咲き続ける桜のことをいうの」

 もともと、桜の精霊にそれほど力があるわけでもない。花を咲かせる、それだけの力。それなのに、結界を張り、桜の花を咲かせ続けるということは、精霊も眠りにつけず、力を回復できないということで、そのまま力を使い続けるのは、消滅を意味してしまう。或いはそのまま ―――。

「香穂?」
 ふと黙り込んだ香穂を呼び、秋はその真意を探るかのように見つめた。だが、香穂はふっと目を閉じて、秋から少し身体を離して視線を夜空に向けた。
「この村にも狂桜花があったわ。その精霊の話を聴くとね、この村の人たちは捕まってしまったらしいの」
「捕まったって……まさか、“魔”に?」
 恐らく、それしかないだろう。香穂は頷いて、続ける。
「かろうじて、桜の精霊が結界を張って“魔”をこの村に封じた」
「香穂…じゃあ、この村の人たちはっ」
 秋は香穂の肩を掴んで、向かい合わせる。香穂の黒い瞳はしっかりと秋を見つめていて、そこには優しい光が浮かべられていた。

「だいじょうぶ、秋」

 ――― また、だ。さっき見たときと同じ、今にも泣き出しそうな顔で香穂が微笑む。

 鈍い胸の痛みを覚えて、秋は再び香穂を抱き寄せた。
「……香穂。一人で抱え込まないでよ」
 ぴくり、と香穂の肩が揺れる。
「“魔”を呼び込むのは人なのに。どうして、精霊は人を守るの? どうして守られているのに、更に人は“魔”を呼び込もうとするの? どうしてそれで“魔”が悪者になるの?」
 迷いを口にする香穂の言葉が秋の胸を貫く。
 香穂が抱いている疑問は「精霊使い」なら本来は持ってはいけないものだ。
 人と精霊は守るべきもの。“魔”は退治するべきもの。
 そう割り切っていなければ、「精霊使い」としての存在自体も危うくなってしまう。それがわかっていても、今の香穂に、そんな当たり前の言葉を言うつもりはなかった。

 ぎゅっ、と強く香穂を抱き締める。
「“魔”も人も、精霊も関係ないんだ」
 香穂の耳元で囁く。できるだけ、この言葉が香穂に優しく聞こえますように、と願いながら。
「僕は命を守りたい」

 ―― だって、その重みにこそ、隔たりはないのだから。

 優しく抱き締め返してくれた香穂のぬくもりが、秋の心に伝わってきた。


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