番外編(一)夢見る桜

三、真人(2)
 朝食の席に姿を見せなかった香穂を探して、秋は精霊を動かすが風は起きなかった。眉を顰めて、意識を集中させてみる。けれど、精霊の気配を身近に感じることができずに、諦めて溜息を零した。
 香穂がひとりで行動してしまうのはよくあること。付き人として共にあっても、それは信頼されているわけではないのだと、落ち込んでしまう。

 不意にくすくすと笑い声が聞こえて、意識を向けると花姫が柱の影から覗くように、秋を見ていた。

「香穂ちゃんを探してるの?」
「どこにいるか」
「知ってるよ」
 秋が最後まで言わないうちに、花姫が遮って「ついてきて」と返事も聞かないまま踵を返した。一瞬どうしようか迷ったけれど、花姫に悪いものを感じることもできず、その後をついていくことにした。

「秋さん?」
 急に呼び止められて、花姫が身体を強張らせる。視線を向けると、柱の影に友子が不思議そうな顔で立っていた。
「香穂の居所を花姫ちゃんに教えてもらおうと思って」
「 ――― 花姫?」
 そう呼びかけた友子の声が鋭いものに変化した。くしゃりと花姫の幼くあどけない顔が歪んでいく。
「友はもう。花姫を忘れるんだろう? 忘れてしまうんだ……」
 悔しそうに言って、ぽろぽろと涙を零す。
「花姫は友が好きだったから、――好きだから、護りたかった」
「花姫、何を言っているの?」
 眉を顰めて不思議そうに顔を覗き込んでくる友子の頬に花姫は腕を伸ばして、小さな手の平でそっと触れる。零れ落ちる瞳に寂しげな光を浮かべて、それでも笑った。
「でももう力がないんだ。友。我にはもう、力がない。空っぽになってしまった」
 ごめん。……ごめん、ごめん。

 ただ、謝罪の言葉を繰り返す花姫に、戸惑った様子で友子は頬に触れていた花姫の手を握った。
「……好きだと言ってくれて有難う。花姫は、友を忘れない」
 その言葉を口にすると同時に、花姫は友子の手を振り払い、秋の手を掴んだ。
「桜の木まで逃げるぞっ、時間がない!」
「えっ?!」
 戸惑う秋の手を強引に引っ張る。秋は促されるまま、走り始めた。

 唐突に走っていく二人の後ろ姿を呆然と眺めていた友子は、ふと頭痛に襲われる。頭の中を、心を蝕んでいく闇に、蹲る。
 『生贄を。生贄を。』『殺せ、殺せ。』まるで呪文のように、低いその声が頭の中に直接響いてくる。
「 ――― 生贄を。殺せ。殺せ」
 呟いた瞬間、脳裏にあの二人の姿が浮かんだ。
(ああ ―― 。早く、殺さなければ。)
 焦燥に襲われる。視界までも、闇に覆いつくされて、友子は二人が走っていった後を追いかけた。

 ――― 我は桜の死霊なんだ。
 一緒に並んで走っていたけれど、次第に幼い花姫は秋についていくことができなくなって、彼に抱きかかえられることになった。こんなところを香穂に見られたら、即座に消されそうだと思いながら、そう話しかける。
「それって精霊の……」
「そうじゃ。死にぞこないとも言うな」
 自嘲を込めて口にする。精霊が力を失ってなお、浄化されずに現世に留まり続ければ、やがて“魔”となってしまう。もう、時間がない。我が、“魔”となる前に、村人を助けなければ。
「村を護るために力を使っているんだね」
「我は、この村に生まれ、村人をずっと見守り続けてきた。大事にされてきたんじゃ。失いたくなかった……」
 目を閉じれば、懐かしさとともに思い出す。村人たちの楽しげに笑う顔。日々を、穏やかに暮らし、優しく流れる時間を大切に生きていた姿。その中で、ひとつの桜の木を大事に大事に育ててくれた。毎年、満開に咲き誇るその桜の木の下で皆が感謝を捧げ、踊り、酒を振るまい合い、祭りをしていた。やがて、その温かな気持ちは桜の精霊である我に力を与え、桜は何千年と生き永らえることができた。しかし ―― ある時、村に“魔”が入り込んできたのだ。
「“魔”は村人たちを真人(マヒト)に変えよった」
「真人……」
 人間を本能のみにした姿。制御する感情を奪い、欲のみで満たされ、恐ろしい生物とする。だけど、本当に真人に変えられたのなら、今頃は村人達は互いに争い合い、喰われているところだ。更にこの村だけではなく、白ヶ村を始めとして他の場所にも損害は広がっていたはず。けれど、その様子は見られなかった。とても穏やかに迎え入れてくれた姿を浮かべて秋は首を傾げる。それに答えたのは花姫だった。

「我が止めた。“魔”をこの村に封印することで、桜が咲くうちは人間として過ごせるように。この村にいる限りは、真人とならずすむように結界を張った。だが、他の村からひとが訪れたときには、殺戮は止められなかったのじゃ。そうして、外部からの者を殺すことで“魔”は我よりも力を溜め、我は力を失い、もうすぐ村人達は完全な真人となろう……」
 精霊と“魔”の均衡が崩れる、と悲しげに瞳を細め、花姫は丘の先にある、美しく咲き誇っている桜に視線を向けた。
 秋とともにそこに辿り着くと、肩から降りて、花姫は桜の樹に手の平をあてる。同じようにするのだ、と秋は促がされ、手の平を当てた。
 とくん、と心臓の鼓動のように音が伝わってくる。その音は今にも消えそうなくらい、頼りないものだった。

「ふんっ、ようやく最後の生贄が訪れ、力が満たされるときが来た」

 禍々しい気配と、憎しみに満ちた声をかけられて、秋は振り向いた。対峙するように立っていたのは、桜ヶ村の村長だった。その姿を見て、彼がただの人間でないことに気づく。手は青く染まっており、大きさは普通の2倍以上はある。その爪は鋭く伸びて、きらりと煌いていた。


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